1929年、家族と東京へ。ピアニストのレオ・シロタ
1928年に演奏旅行で来日し、翌1929年から1946年まで日本に住んだピアニスト、レオ・シロタ。東京音楽学校の名簿、当時の年鑑、研究者の論文から、生まれた町の書き方の違い、教えた生徒、日本を離れた日付の食い違いまでをたどります。
この記事の答え
ピアニストのレオ・シロタは1929年9月16日に家族と日本に着き、1946年まで日本に住みました。東京音楽学校でピアノを教えましたが、1944年3月でその職を失っています。生まれた場所は資料によってカームヤネツィ・ポジーリシキー、キーウ、「オーストリア生」と三通りに書かれ、日本を離れた日付も資料で違います。
オリュカのひとこと
ピアニストのシロタは、どこで生まれた人なのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
1929年9月16日、ピアニストのレオ・シロタ(Leo Sirota、ウクライナ語ではЛео Сірота)が、家族を連れて日本に着きました。前の年の秋に演奏旅行で来たのに続く、2度目の来日です。当時の『国民年鑑』は、その日のことを「洋琴大家レオ・シロタ氏家族同伴で再度来朝す」と一行で記録しています。シロタはそれから1946年まで日本に住み、東京音楽学校(いまの東京藝術大学音楽学部)でピアノを教えました。
以下は、山本尚志氏の論文(『学習院高等科紀要』第13号、2015年)、昭和音楽大学の博士論文の公開資料(小竹島紗子氏、2020年)、米国議会図書館と国立国会図書館の典拠データ、そして国立国会図書館のデジタルコレクションで読める1930〜40年代の年鑑による内容です(2026年9月時点)。資料どうしで書き方が違うところは、両方を示します。
どこで生まれ、どこで学んだ人か
山本氏の論文は、シロタを「ウクライナ出身」とし、1885年の生まれとしています。国立国会図書館の典拠データも生没年を1885〜1965年としています。ただ、生まれた町と日付は、資料によって書き方が違います。
生まれた場所は、資料によって三通りに書かれている
| 資料 | 生まれた日 | 生まれた場所 |
|---|---|---|
| Grove Music Online(2014年。米国議会図書館の典拠データが引用) | 1885年4月22日(ロシア帝国で使われていた暦)=5月4日 | カームヤネツィ・ポジーリシキー(いまのウクライナ西部、フメリニツキー州) |
| ドイツ語・英語の音楽事典など(同じ典拠データが引用) | 1885年5月4日 | キーウ |
| 『音楽年鑑』昭和16年度(1941年)の人名録 | 1885年 | 「オーストリア生」 |
1941年の年鑑の「オーストリア生」は、シロタが若いころに移り住み、国籍を得た国の名前を生まれた国として書いたものとみられます。どの資料が正しいかは、この記事では決めていません。米国議会図書館の典拠データは、ほかにウィーン、ワルシャワ、日本、アメリカ合衆国を活動の地として挙げています。
学んだ場所については、作曲家の山田耕筰が1937年の随筆集で、ソ連を訪ねたときの話の中で、キーウの音楽院を「皆様になじみ深いレオ・シロタの母校」と紹介しています。山本氏の論文によれば、シロタはその後ウィーンに移り、作曲家でピアニストのフェルッチョ・ブゾーニに学びました。1910年2月8日にはベルリンでリサイタルを開いています。
オリュカ
古い本では、町の名前をどう書いていたのかな。
タブリ
昔の表記といまの表記が、この見出しの下に並んでいるよ。
ヨリクネ
古い資料を探すときの手がかりも、この見出しの下にあるよ。
昔の表記「キエフ」、いまの表記「キーウ」
1937年の山田耕筰の随筆は、町の名を「キエフ」と書いています。当時の日本語の本や、ロシア語の読み方に基づく英語の資料では、生まれた町も「カメネツ・ポドリスキー」(Kamenets-Podolsky)のように書かれてきました。いまのウクライナ語の読み方では、キーウ、カームヤネツィ・ポジーリシキーです。古い資料を探すときは、昔の表記でないと見つからないことがあります。
1928年の演奏旅行から、東京での暮らしへ
山本氏の論文によれば、シロタが初めて日本に来たのは1928年で、翌1929年に再び来日すると、そのまま1946年まで日本に住みました。小竹島氏の博士論文に付いた演奏会の一覧では、1928年11月15日に東京の朝日講堂で独奏会を開き、12月16日には大阪でも演奏しています。
住み始めてからは、ラジオでも演奏しました。『ラヂオ年鑑』昭和7年版は、1930年から1931年にかけてシロタがベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を定期演奏として放送したことを、ラジオでなければ組みにくい演奏計画の例として挙げています。
オリュカ
東京音楽学校の名簿に、シロタはどう載っているのかな。
タブリ
二冊の名簿の載り方は、この見出しの下の表で見比べられるよ。
スウネ
教え始めた年はこの名簿に書かれていないと、表の下にあるよ。
東京音楽学校の「傭外国人教師」
東京音楽学校が毎年出していた『東京音楽学校一覧』には、職員の名簿があります。国立国会図書館のデジタルコレクションで読める2冊では、シロタは「傭外国人教師」の欄にピアノの担当として載っています。
| 一覧の年 | 担当 | 国籍の欄 | 名簿での位置 |
|---|---|---|---|
| 自昭和7年至昭和8年(1932年11月1日現在の名簿) | ピアノ | 墺地利(オーストリア) | 外国人教師5人の「就職順」の最初 |
| 昭和15至16年(1941年刊) | ピアノ | 独逸(ドイツ) | 「奏任五等以上取扱」の外国人教師として最初 |
国籍の欄が変わったのは、1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されたためとみられます。1932年の名簿で、ほかの外国人教師より前の「就職順」の先頭にいることから、それより前に着任していたことはわかります。着任した年そのものは、この2冊には書かれていません。
山本氏の論文によれば、シロタは長い期間にわたって本科3年のピアノの生徒全員を教え、学校の外でも個人で生徒を教えました。
資料が名前を挙げている弟子
弟子の全体の人数を示す資料は見当たりません。ここでは、資料が名前を挙げている人だけを書きます。
- 東京音楽学校でシロタに学んだ人として、山本氏の論文は豊増昇、大島正泰、金子茂子、永井進らを挙げています。
- 学校の外の個人の生徒として、同じ論文は藤田晴子、田中園子、黒田睦子、松隈陽子を挙げ、1938年から1940年まで4回続けて音楽コンクールのピアノ部門の優勝者がシロタの門下から出たと書いています。
- 『音楽年鑑』昭和16年度は、1939年の門下生の発表会で、シロタ自身がオーケストラを指揮し、樹下淑子、長岡延子、園田高弘、黒田睦子が協奏曲を弾いたと記録しています。
同じ年鑑には、1940年に日比谷公会堂で開かれた「レオ・シロタ在住十年記念独奏会」と、その祝賀会の記録もあります。
1941年から戦争の終わりまで
山本氏の論文によれば、ユダヤ系だったシロタは1941年にナチス・ドイツから国籍を奪われました。1943年10月に日本音楽文化協会が、会員に対して枢軸国以外の国籍の音楽家との共演をやめさせる決定をし、シロタは1944年3月で東京音楽学校の職を失いました。同じ1944年に軽井沢へ移され、そこで戦争の終わりを迎えています。
日本を離れ、アメリカへ
日本を離れた日は、資料で違う
戦後、シロタは1946年に日本を離れます。その日付は資料で違います。山本氏の論文は、1946年10月22日の朝日新聞の記事をもとに、10月18日に夫妻が客船マリーネ・ファルコン号で日本を去ったとしています。一方、娘のベアテ・シロタ・ゴードンの回想録は、5月22日に飛行機で出発したと書いています。山本氏は、作家の芹沢光治良の日記に同じ年の9月のシロタの演奏会のことが出てくることを挙げ、5月の出発はありそうにないとしています。米国議会図書館の典拠データが引くCDの解説は「1946年10月」にアメリカへ移ったとしています。
アメリカでは、セントルイス音楽院のピアノの教授になりました。典拠データが引く資料では1947年のことです。1963年には日本を再び訪れ、小竹島氏の一覧によれば、12月3日に日比谷公会堂で独奏会を開き、12月5日には教え子たちがバッハの複数台のピアノのための協奏曲を弾く演奏会で指揮をしました。この催しの名は「レオ・シロタ教授謝恩会」です。1965年2月にニューヨークで亡くなりました。Grove Music Online を引く典拠データは、亡くなった日を2月24日としています。
オリュカのひとこと
この人と日本との関わりは、どう続いたのでしょう。この年表で確かめられます。
年表で見るシロタと日本
| 年 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1885年 | ロシア帝国で生まれる(場所は資料で異なる) | 米国議会図書館の典拠データ、山本論文 |
| 1928年11月 | 初めての日本での演奏会。15日に東京の朝日講堂で独奏会 | 小竹島論文の演奏会一覧、山本論文 |
| 1929年9月16日 | 家族とともに再び来日し、東京に住む | 『国民年鑑』昭和6年、山本論文 |
| 1930〜1931年 | ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲をラジオで定期演奏 | 『ラヂオ年鑑』昭和7年 |
| 1932年 | 東京音楽学校の外国人教師(ピアノ)として名簿に載る | 『東京音楽学校一覧』 |
| 1939年 | 門下生の発表会でオーケストラを指揮 | 『音楽年鑑』昭和16年度 |
| 1940年 | 在住10年を記念する独奏会(日比谷公会堂) | 『音楽年鑑』昭和16年度 |
| 1946年 | 日本を離れる(日付は資料で異なる) | 山本論文、ゴードンの回想録 |
| 1947年 | セントルイス音楽院の教授になる | 米国議会図書館の典拠データ |
| 1963年12月 | 日本で独奏会と指揮 | 小竹島論文の演奏会一覧、山本論文 |
| 1965年2月 | ニューヨークで死去 | 米国議会図書館の典拠データ、山本論文 |
娘ベアテ・シロタ・ゴードン
娘のベアテ・シロタ・ゴードン(1923〜2012年。国立国会図書館の典拠データによる)は、子どものころを両親とともに東京で過ごしました。彼女の回想録の日本語版は、1995年に柏書房から『1945年のクリスマス』の題で出ています。副題は「日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝」です。
日本語でシロタの生涯をまとめた本には、山本尚志氏の『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』(毎日新聞社、2004年)があります。日本とウクライナのつながりは、ウクライナと日本の関係の記事でも紹介しています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- レオ・シロタ没後半世紀――ピアニスト シロタに関する若干の新史料と考察(出身と生年、1928年の初来日と1929年の再来日、東京音楽学校での指導と弟子の名、1941年の国籍の剥奪、1943年10月の日本音楽文化協会の決定、1944年3月の失職と軽井沢、1946年10月18日の離日とベアテの回想録の5月説、1963年の再来日、1965年の死去)山本尚志『学習院高等科紀要』第13号、2015年11月、105-131頁
発行:学習院大学学術成果リポジトリ 確認日:2026-09-27 - 審査結果の要旨と附録「レオ・シロタの日本における演奏プログラム」(1928年11月15日の朝日講堂、12月16日の大阪、1963年12月3日と5日の演奏会)小竹島紗子 博士論文「レオ・シロタ-日本における音楽活動-」
発行:昭和音楽大学附属図書館 確認日:2026-09-27 - Sirota, Leo, 1885-1965生没年月日、生地の記載の違い、Grove Music Online 2014年ほかの引用、1946年10月の渡米と1947年のセントルイス音楽院
発行:Library of Congress Name Authority File 確認日:2026-09-27 - Sirota, Leo, 1885-1965生没年
発行:国立国会図書館 典拠データ 確認日:2026-09-27 - 東京音楽学校一覧 自昭和7年至昭和8年職員:傭外国人教師、昭和7年11月1日現在
発行:東京音楽学校(国立国会図書館デジタルコレクション) 確認日:2026-09-27 - 東京音楽学校一覧 昭和15至16年職員:傭外国人教師
発行:東京音楽学校(国立国会図書館デジタルコレクション) 確認日:2026-09-27 - 音楽年鑑 昭和16年度人名録の「一八八五年オーストリア生」、1939年の門下生の発表会、1940年の在住十年記念独奏会、東京音楽学校の教職員
発行:共益商社書店(国立国会図書館デジタルコレクション) 確認日:2026-09-27 - 国民年鑑 昭和6年楽壇一年:昭和4年9月16日の再来朝
発行:国民新聞社(国立国会図書館デジタルコレクション) 確認日:2026-09-27 - ラヂオ年鑑 昭和7年1930〜31年のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲の定期演奏
発行:日本放送出版協会(国立国会図書館デジタルコレクション) 確認日:2026-09-27 - 耕筰随筆集(キーウの音楽院を「レオ・シロタの母校」とする記述、408頁) 山田耕筰
発行:南光社、1937年(国立国会図書館デジタルコレクション) 確認日:2026-09-27 - 1945年のクリスマス : 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝柏書房、1995年10月。著者の生没年 1923-2012
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-27 - 日本を愛したユダヤ人ピアニストレオ・シロタ山本尚志、毎日新聞社、2004年11月
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-27
記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。









