フルーヒウからボローニャへ。18世紀ウクライナの作曲家3人
1771年、フルーヒウ生まれのベレゾウシキーはボローニャのアカデミア・フィラルモニカの試験に通りました。同じ町に生まれたボルトニャンシキーもイタリアでオペラを上演し、キーウのヴェデリは合唱協奏曲を書きました。宮廷聖歌隊へ少年を送った歌の学校から、事典ごとに違う生年や作品の数まで、3人の歩みを三つの事典と学校の記録からたどります。
オリュカのひとこと
宮廷の聖歌隊には、どんな少年が集められたのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
1771年5月15日、イタリアのボローニャで、ひとりの若い音楽家がアカデミア・フィラルモニカの試験に通りました。ウクライナの国の電子版『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ)によれば、その人マクシム・ベレゾウシキー(Максим Березовський)は、ヘーチマン(コサックの首長)の都フルーヒウで生まれ、12歳でペテルブルクの宮廷へ来た歌い手でした。
18世紀には、同じフルーヒウ生まれのドミトロ・ボルトニャンシキー(Дмитро Бортнянський)もイタリアで学び、キーウ生まれのアルテム・ヴェデリ(Артем Ведель)はキーウとモスクワとハルキウで合唱を率いました。3人の歩みを、ウクライナの三つの事典(ВУЕ、国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』=ЕІУ、カナダ・アルバータ大学のウクライナ研究所が発行する『Internet Encyclopedia of Ukraine』=IEU)と、学校の記録からたどります。
フルーヒウの歌の学校と、ペテルブルクの宮廷聖歌隊
IEUによれば、フルーヒウは1708〜1722年と1727〜1764年に左岸のヘーチマンの都でした。ЕІУの「宮廷聖歌隊」の項は、1713年にできたペテルブルクの宮廷の聖歌隊が、最も良い歌い手、とくに声の良い少年を帝国の各地、なかでもウクライナから集めていたと書いています。18世紀には歌い手の多くがウクライナ出身で、聖歌隊の長にもウクライナ出身者が多かった、というのがЕІУの説明です。
少年たちを、音楽の下地をつけてから送るために置かれたのが、フルーヒウの歌と器楽の学校です。IEUは、生徒はふつう20人で、2年のあいだ楽譜の読み方、歌、ヴァイオリン、グスリ、バンドゥーラを学び、毎年上位の10人が宮廷聖歌隊へ送られた、と書いています。
オリュカ
フルーヒウの歌の学校は、いつ始まったと数えるのかな。
スウネ
指示が出た年と定員が決まった年、二つの数え方が、この見出しの下に並べてあるよ。
タブリ
学校が何のために置かれたかは、この見出しのすぐ上の段落に戻れば読めるよ。
歌の学校はいつできたのか
- IEUの「Hlukhiv Singing School」の項は、1738年にフルーヒウで設立され、40年近く続いた、と書いています
- ЕІУの項(2004年)は、1730年8月24日に帝国の外務の役所がヘーチマン国家の総軍事官房に学校を開くよう指示し、1738年9月14日の女帝アンナの勅令で、生徒17人・指揮者1人・器楽の教師2人の計20人の定員が定められた、と二つの日付を挙げています
「開くよう指示された年」と「定員が決まった年」のどちらを始まりと数えるかで、1730年とも1738年とも言えることになります。
オリュカのひとこと
作曲家たちの歩みを、並べて見られるようです。この年表で確かめられます。
3人の年表
| 年 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1730年 | フルーヒウに歌と器楽の学校を開くよう指示が出る(8月24日) | ЕІУ |
| 1738年 | 女帝アンナの勅令で学校の定員が20人に(9月14日)。IEUはこの年を設立の年とする | ЕІУ、IEU |
| 1745年 | ベレゾウシキー、フルーヒウに生まれる | ЕІУ、ВУЕ、IEU |
| 1751年 | ボルトニャンシキー、フルーヒウに生まれる | ВУЕ、IEU |
| 1758年 | ボルトニャンシキー、ペテルブルクの宮廷聖歌隊に入る | ВУЕ、IEU |
| 1767年 | ヴェデリ、キーウに生まれる(1770年・1772年とする資料もある) | IEU、ЕІУ、ВУЕ |
| 1768〜1769年 | ボルトニャンシキー、イタリアへ | ВУЕ(1768年)、IEU(1769年) |
| 1771年 | ベレゾウシキー、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの試験に通る(5月15日) | ВУЕ、IEU、ЕІУ |
| 1773年 | ベレゾウシキーのオペラ『デモフォンテ』、リヴォルノで上演 | IEU、ЕІУ |
| 1776年 | ボルトニャンシキーのオペラ『クレオンテ』、ヴェネツィアで上演 | IEU、ВУЕ |
| 1779年 | ボルトニャンシキーの『クィント・ファビオ』、モデナで上演。その後ペテルブルクへ戻る | IEU、ВУЕ |
| 1787〜1788年 | ヴェデリ、モスクワで合唱を率いるため派遣される | IEU(1787年)、ЕІУ・キーウ・モヒラ・アカデミー(1788年) |
| 1796年 | ボルトニャンシキー、宮廷聖歌隊の長になる。ヴェデリ、ハルキウへ移る | IEU、ВУЕ、ЕІУ |
| 1797年 | 皇帝パーヴェル1世が、教会で合唱協奏曲を歌うことを禁じる | IEU |
| 1881〜1882年 | チャイコフスキー編のボルトニャンシキーの宗教合唱曲集(10巻)、モスクワで刊行 | ВУЕ(IEUは1882年とする) |
| 2024年 | 『クレオンテ』、ウクライナで初めて演奏会形式で上演(11月11日) | ВУЕ |
マクシム・ベレゾウシキー
ЕІУとВУЕは、ベレゾウシキーの生年月日を1745年10月16日とし、IEUは10月27日としています。当時ロシア帝国で使われていたユリウス暦と、いまの暦とで11日ずれる日付です。3つの事典はそろって1745年生まれとしています。
ЕІУによれば、フルーヒウのコサックの家に生まれ、フルーヒウの歌の学校とキーウのアカデミーで学びました。ВУЕは、1757年12月にヘーチマンのキリロ・ロズモウシキーの楽団の音楽家たちとともにペテルブルクへ来て、1758〜1763年に宮廷のイタリア・オペラで歌い、1762〜1765年に宮廷聖歌隊の独唱者を務めた、と書いています。
ボローニャの試験と、イタリアにいた年
ВУЕは、1769〜1773年に西ヨーロッパに滞在し、1770〜1771年にボローニャでジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニのもとで対位法を学び、1771年5月15日にアカデミア・フィラルモニカの会員の試験に通って「マエストロ・ディ・カペッラ」の地位を得た、と書いています。IEUは、ボローニャで学んだ期間を1765〜1774年とし、得た称号を「maestro di musica」、ЕІУは1769〜1771年に学んで「アカデミー会員の作曲家」の称号を得たとしています。イタリアにいた期間は、事典ごとに違います。
1773年には、オペラ『デモフォンテ』がイタリアのリヴォルノで上演されました(IEU、ЕІУ)。ЕІУはこれを「ウクライナの作曲家による最初のオペラ」としています。事典が挙げる宗教曲には、合唱協奏曲『老いの時にわれを捨てたもうな』(Не отвержи мене во время старости。ВУЕによれば1769年より前の作)があります。18世紀のオペラの顔ぶれは、オペラ『ドナウの向こうのザポロージェツ』の記事でも1行触れています。
交響曲については、書き方が分かれます。IEUは、近年見つかった交響曲を「ロシア帝国の作曲家が書いた最初の交響曲」とし、ВУЕは、その交響曲はおそらくオペラ『デモフォンテ』の序曲だと書いています。
ドミトロ・ボルトニャンシキー
ВУЕによれば、ボルトニャンシキーはレムコ地方から来た父とフルーヒウの母のもとに、1751年10月28日に生まれました。ВУЕは、父がいまのポーランドにあるボルトネ村からフルーヒウへ来たこと、父の家の姓がシュクラトだったことも書いています。1758年の初めに宮廷聖歌隊の生徒になり、作曲をバルダッサーレ・ガルッピに学びました。
フルーヒウの学校で学んだのか
ここでは事典の書き方が逆になります。IEUは、ボルトニャンシキーがフルーヒウの歌の学校で学んだあと宮廷聖歌隊に入った、と書いています。ВУЕ(2025年公開)は、研究者の推測として、1758年より前にフルーヒウの学校で学んだという見方があることを挙げたうえで、それは「ありそうにない」と書いています。ЕІУでは、ボルトニャンシキーの項(2003年)がフルーヒウの歌の学校で学んだと書く一方、学校の項は、ボルトニャンシキーとベレゾウシキーを学校の伝統を発展させた作曲家として名を挙げるだけで、生徒だったとは書いていません。
イタリアでは、イタリア語の台本によるオペラ『クレオンテ』(1776年、ヴェネツィア)、『アルチーデ』(1778年、ヴェネツィア)、『クィント・ファビオ』(1779年、モデナ)が上演されました(IEU、ВУЕ)。ВУЕによれば、総譜が失われたと考えられていた『クレオンテ』は、2024年11月11日にウクライナ外交アカデミーで演奏会形式によるウクライナ初演、2025年10月3日にチェルニウツィーの劇場で舞台上演されました。
ペテルブルクに戻ってからは、宮廷聖歌隊の楽長となり、1783〜1796年には「小宮廷」(ガッチナとパヴロフスク)の楽長として、フランス語のオペラも書きました(ВУЕ)。1796年から1825年に亡くなるまで宮廷聖歌隊の長を務め、ВУЕによれば、聖歌隊をオペラの舞台から外して無伴奏の合唱に集中させ、ウクライナから歌い手を選ぶことを進めました。1816年からは、皇帝の命で教会音楽の検閲の役も負いました(ВУЕ)。
オリュカ
ボルトニャンシキーの合唱協奏曲は、何曲あるのかな。
スウネ
資料ごとの曲の数と、数え方の基準が書かれていないことが、この見出しの下にあるよ。
ヨリクネ
ヴェデリの作品の数も、少し先のヴェデリの見出しの下の終わりへ寄り道すれば比べられるよ。
合唱協奏曲は何曲か
- IEU:4声の混声合唱のための協奏曲35曲と、二重合唱のための協奏曲10曲
- ВУЕ:混声合唱のための協奏曲がおよそ65曲、二重合唱のための協奏曲が11曲
- モスクワ音楽院の博物館の人物紹介:混声合唱のための協奏曲35曲
ВУЕは、生誕270年の2021年に、知られていなかった合唱協奏曲5曲が見つかり整理されたことも書いています。数え方の基準は、どの資料も書いていません。
アルテム・ヴェデリ
ヴェデリスキーからヴェデリへ
キーウ・モヒラ・アカデミーの人物紹介によれば、ヴェデリの家の姓はヴェデリスキー(Ведельський)で、イコンの壁を彫る職人だった父は手紙に「キーウの町人ルキヤン・ヴェデリスキー」と署名しています。作曲家本人は自筆の手紙に「ヴェデリ」と署名し、軍の書類もその名で書かれていました。ヴェデリは、ヴェデリスキーを短くした形とみられています。
生年は資料で分かれます。IEUは1767年4月13日、ЕІУは1767年4月としたうえで1770年か1772年とする資料もあると書き、ВУЕは見出しに「1767/1770/1772」と三つの年を並べています。キーウ・モヒラ・アカデミーは、聖アルテモンと聖アルテミーの日が旧暦の4月13日と29日にあたることから、4月の生まれだった可能性を挙げています。
ヴェデリはキーウのアカデミーで学び、学生の合唱の独唱者、のちに指揮者、学生の楽団の第一ヴァイオリンを務めました(ЕІУ)。モスクワで総督の合唱団を率いたあと(IEUは1787年、ЕІУとキーウ・モヒラ・アカデミーは1788年から)、キーウに戻ってアンドリー・レヴァニドフ将軍の軍の合唱団を率い、1796年に将軍とともにハルキウへ移りました。IEUは、1792〜1797年に合唱協奏曲の多くが書かれたとし、1797年に皇帝パーヴェル1世が教会で合唱協奏曲を歌うことを禁じたことが、ヴェデリにとって大きな打撃になったと書いています。
IEUは、残された作品はすべて教会のための無伴奏の合唱曲で、80曲あまりが知られ、そのうち宗教的な合唱協奏曲が31曲としています。ЕІУは約80曲のうち宗教的な協奏曲を20曲あまりとし、民謡の編曲や行進曲も手がけたと書いています。
ウクライナの作曲家か、ロシアの作曲家か
3人はいずれもロシア帝国の時代に生き、ベレゾウシキーとボルトニャンシキーはペテルブルクの宮廷で働きました。そのため、資料によって呼び方が変わります。
- ЕІУは、ベレゾウシキーとヴェデリをそれぞれ「ウクライナの作曲家」と書き出しています。IEUは、ボルトニャンシキーの宗教合唱曲が、ウクライナの合唱音楽の古い伝統と18世紀後半のヨーロッパの音楽の成果を結びつけた、と書いています
- モスクワ音楽院の博物館の人物紹介は、ボルトニャンシキーを「ウクライナ出身のロシアの作曲家」とし、その協奏曲を「ロシアの宗教音楽の最高の成果」に数えています
- ドイツ国立図書館の人名典拠は、ボルトニャンシキーの地域をウクライナとロシアの二つ、ベレゾウシキーとヴェデリをウクライナとしています
ЕІУの宮廷聖歌隊の項が書くように、18世紀の帝国の都の聖歌隊では歌い手の多くがウクライナ出身で、そこから何人もの作曲家が育ちました。「ロシアの作曲家」という書き方は、働いた国と宮廷を指し、「ウクライナの作曲家」という書き方は、生まれた土地と、受け継いだ合唱の伝統を指している、と読むことができます。
ベレゾウシキーの死と、ヴェデリの晩年
ベレゾウシキーは1777年3月22日、ペテルブルクで亡くなりました。31歳でした(ЕІУ、ВУЕ、IEU)。
ヴェデリは1799年に心を病んだとされてキーウの施設に入れられ、ЕІУによれば9年後に重い病のまま出されて、1808年にキーウの父の家で亡くなりました。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Березовський, Максим Созонтович1745年10月16日、1757年12月の上京、1758〜1763年の宮廷オペラ、1769〜1773年の滞在、1770〜1771年マルティーニに師事、1771年5月15日の試験と「Maestro di cappella」、交響曲はおそらく『デモフォンテ』の序曲、作品一覧。執筆 О. А. Шуміліна、2023年7月14日公開
発行:Велика українська енциклопедія(国立学術機関「百科事典出版」) 確認日:2026-09-27 - Бортнянський, Дмитро Степанович1751年10月28日〜1825年9月28日、父の出身と姓、フルーヒウの学校で学んだ説は「малоймовірно」、1758年の入隊、1768年にイタリアへ、11年、3つのイタリア・オペラ、1783〜1796年と1796〜1825年、1816年の検閲、協奏曲の数、『クレオンテ』の発見と2024・2025年の上演、2021年の5曲、チャイコフスキー編の全集。執筆 О. А. Шуміліна、2025年10月28日公開
発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-27 - Ведель, Артемій Лук'янович見出しの生没年「1767/1770/1772–1808」
発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-27 - БЕРЕЗОВСЬКИЙ Максим Созонтович16.10.1745–22.03.1777、コサックの家、フルーヒウの学校とキーウのアカデミー、1769〜1771年、アカデミー会員の作曲家、『デモフォンテ』は最初のウクライナの作曲家によるオペラ、32年目の死。執筆 Г. П. Герасимова、2003年
発行:Енциклопедія історії України, т. 1(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-27 - ВЕДЕЛЬ Артем Лук'янович1767年4月、異説1770・1772年、26(14).07.1808、アカデミー、1788〜1792年モスクワ、1794〜1796年レヴァニドフ、1796年ハルキウ、1799年、約80曲・協奏曲20曲あまり。執筆 Г. С. Брега、2003年
発行:Енциклопедія історії України, т. 1 確認日:2026-09-27 - ГЛУХІВСЬКА ШКОЛА СПІВУ ТА ІНСТРУМЕНТАЛЬНОЇ МУЗИКИ1730年8月24日の指示、1738年9月14日の勅令と定員20人、ボルトニャンシキー・ベレゾウシキーの名。執筆 М. В. Юр、2004年
発行:Енциклопедія історії України, т. 2 確認日:2026-09-27 - ПРИДВОРНА СПІВАЦЬКА КАПЕЛА1713年、ウクライナの少年の採用、1738年から毎年10人、歌い手の多くがウクライナ出身。執筆 Л. П. Корній
発行:Енциклопедія історії України(電子版) 確認日:2026-09-27 - Berezovsky, Maksymb 27 October 1745、1765〜1774年ボローニャ、1771年 maestro di musica、1773年リヴォルノ、交響曲。2024年改訂
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Bortniansky, Dmytro1751年、フルーヒウの学校、1758年、1769〜1779年イタリア、オペラ、1796年、協奏曲35曲と10曲、1882年の全集、ウクライナの合唱音楽の伝統。2010年改訂
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Vedel, Artem13 April 1767、1787年モスクワ、1792〜1797年、1797年のパーヴェル1世の禁止、80曲あまり・協奏曲31曲。2011年改訂
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Hlukhiv Singing School1738年設立、40年近く、20人、2年、毎年10人
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Hlukhiv1708〜1722年・1727〜1764年のヘーチマンの都。2010年改訂
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Ведель Артем Лук'янович姓ヴェデリスキー、父の署名、4月生まれの可能性、1788年のモスクワ派遣。2011年8月2日公開
発行:Національний університет «Києво-Могилянська академія»(ukma.edu.ua) 確認日:2026-09-27 - Дмитрий (Дмитро) Степанович Бортнянский「ウクライナ出身のロシアの作曲家」、1769〜1779年、混声合唱の協奏曲35曲
発行:Московская государственная консерватория имени П. И. Чайковского, музей(mosconsv.ru) 確認日:2026-09-27 - GND(人名典拠)Bortnjansʹkyj, Dmytro Stepanovyč 119121999/Berezovs'kyj, Maksym Sozontovyč 119450003/Vedel', Artemij L. 104311703地域コード
発行:Deutsche Nationalbibliothek(lobid.org 経由) 確認日:2026-09-27 - БОРТНЯНСЬКИЙ Дмитро Степанович1751〜28.09.1825、フルーヒウの歌の学校で学んだ、1758年から宮廷聖歌隊、1769〜1779年イタリア、1796年から聖歌隊の長、1882年の10巻。2003年
発行:Енциклопедія історії України, т. 1(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-27
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