1817年に閉じられ、1991年に戻った学校。キーウ・モヒラ・アカデミー
1615年に寄進された屋敷で始まった兄弟団の学校は、1632年にペトロ・モヒラのもとで学院になり、ヘーチマンや聖職者を育てました。ロシア帝国のもとで衰え1817年に閉じられた学校は、独立直後の1991年に大学として再興されます。その歩みを、事典と法令でたどります。
オリュカのひとこと
500フリヴニャ紙幣の裏面に描かれた建物は、どんな学校だったのでしょう。1615年の寄進から本文がたどります。
1615年10月15日、キーウの貴族の女性ハルシカ・フレヴィチウナが、自分の屋敷と土地を、修道院と「正教の民の子どもたち」のための学校に寄進する証書を、町の記録簿に登録しました。キーウ・モヒラ・アカデミー国立大学(НаУКМА)はこの日を創立の日としていて、大学の定款(1.3項)にも、アカデミーは1615年10月15日に創られた兄弟団の学校をもとにしていると書かれています。
この学校から、17〜18世紀のウクライナで最も大きな学びの場が育ちました。ロシア帝国のもとで閉じられ、ウクライナが独立を宣言した1991年に再興されるまでを、事典と法令でたどります。500フリヴニャ紙幣の裏面の図柄になっている建物も、このアカデミーです(ウクライナ国立銀行)。
1615年、ポジールの兄弟団の学校
Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS。以下IEU)によると、キーウの顕現兄弟団は1615年ごろ、キーウの下町ポジールで、裕福な町人、貴族、聖職者、コサックが、ポーランドの支配とカトリックの広がりに対して正教を守るためにつくった団体です。1620年には、ヘーチマンのペトロ・サハイダーチヌィが「ザポロージャのコサック軍の全体とともに」加わりました。兄弟団はこの年、訪れていたエルサレム総主教から学校の許しも得ています。
兄弟団の学校の創立の年は、IEUのアカデミーの項では「1615〜16年」、兄弟団の項では「1615年」です。大学は、フレヴィチウナの寄進の日を創立の日としています。
1632年、ペトロ・モヒラが学院にまとめる
ペトロ・モヒラは、IEUによると1597年1月10日にモルダヴィアで生まれ(大学のサイトは1596年生まれとする)、1647年1月11日にキーウで亡くなりました。モルダヴィアとワラキアの君主の家の生まれで、父の死後に西ウクライナの親族のもとへ逃れ、リヴィウの兄弟団学校などで学びました。1627年にキーウ洞窟大修道院の掌院に選ばれ、1633年5月7日にキーウ府主教に叙聖されています。
モヒラは1631年に洞窟大修道院に学校を開き、翌1632年、それを兄弟団の学校と合わせて学院(コレギウム)にしました(大学のサイトは1632年9月とする。IEUの兄弟団の項だけは統合を1631年と書く)。IEUによると、モヒラはこの学校を、哲学と神学を教え中等学校の網を束ねる「アカデミー」として構想し、ポーランドのイエズス会の学院と対等に競わせようとしました。しかし競争を恐れたポーランド国王ヴワディスワフ4世は、学院の格しか認めず、哲学と神学を教えることを禁じました。アカデミーとしての権利をすべて得たのは1694年、ピョートル1世に正式にアカデミーと認められたのは1701年です。大学のサイトは別に、1658年のハジャチ協定で大学としての法的な権利が与えられた、とも書いています。
教え方は、手ごわい相手だったイエズス会の学校にならいました。IEUによると、ほかの正教の学校が教会スラヴ語とギリシャ語を重んじたのに対し、この学院はラテン語とポーランド語を第一にし、教会スラヴ語と、話し言葉に近いルーシ語(当時のウクライナ人とベラルーシ人の書き言葉)も教えました。文法の学年を経て、詩学、修辞学、3年の哲学、4年の神学へと進みます。教員がラテン語で書いた詩学・修辞学の教科書は約120、哲学の教科書は約80が残っています。
ヘーチマンを育てた学校
IEUは、アカデミーが初めからコサックの上層部(スタルシナ)に支えられ、次の世代の担い手を育てたと書いています。のちのヘーチマン、イヴァン・ヴィホウシキー、イヴァン・サモイロヴィチ、パウロ・テテリャ、イヴァン・マゼーパ、パウロ・ポルボトクもここで学んだとしています。マゼーパが治めた1687〜1709年は「黄金時代」で、学生は2,000人を超えました。
教員には、ラザル・バラノヴィチ、ドミトリー・トゥプタロ、ステファン・ヤヴォルシキー、テオファン・プロコポヴィチらがいました。IEUによると、何人かはロシアでのピョートル1世の教育改革で大きな役割を果たし、モスクワのアカデミーはキーウのアカデミーを手本につくられました。18世紀には、哲学者のフルィホリー・スコヴォロダもここで学んでいます(スコヴォロダの記事)。
1709年のあと、ロシア帝国のもとで
IEUは、アカデミーの黄金時代が、1709年のポルタヴァの戦いでマゼーパが敗れたことで突然終わったと書いています。アカデミーの財産はロシア軍に略奪され、ポーランド領だった右岸ウクライナからの学生は受け入れられなくなり、学生は1711年までに161人に減りました。ピョートル1世がルーシ語の出版物を禁じたことも大きな打撃になりました。
その後、学生は1738〜39年の490人から1744〜45年の1,110人まで持ち直しますが、1764年にエカチェリーナ2世がヘーチマン制を廃止し、1786年に修道院の財産を国のものにすると、アカデミーは主な財源を失いました。18世紀末には主教区の神学校のようになり、1811年には学生1,198人のうち1,069人が司祭の候補者でした。大学のサイトによると、アカデミーは1817年8月14日の宗務院(ロシア正教会の最高機関)の令で閉じられ、IEUによると、2年後に同じ場所にキーウ神学アカデミーが開かれました。ヘーチマン制の廃止までの流れはコサックの自治の終わりを扱った記事にまとめています。
1991年、独立の年の再興
1991年9月19日、ウクライナ最高会議のレオニード・クラフチュク議長は「キーウ・モヒラ・アカデミーの再興について」の決定(第1570-XII号)に署名しました。決定は、国を運営し国際社会でウクライナを代表する人材が必要だとして、アカデミーを「キーウの歴史的な場所で、独立した高等教育機関として」再開させ、名前を「キーウ・モヒラ・アカデミー大学」とすると定めています。IEUによると、大学は1992年8月に正式に開かれ、文学研究者のヴャチェスラウ・ブリュホヴェツキーが初代の学長になりました。
1994年5月19日、クラフチュク大統領の令(第238/94号)で、大学は自治をもつ国立大学とされ、「キーウ・モヒラ・アカデミー国立大学」と名乗ることになりました。IEUによると、この大学はウクライナで初めて、学生が分野をまたいで科目を選べる4年制の学士課程を1992年に始めました。学生は約4,000人(2020年)で、キャンパスはポジールにあり、最も古い建物は1704年に建てられた旧アカデミー棟(マゼーパ棟)です。
オリュカのひとこと
「東ヨーロッパ最初の高等教育機関」は、誰がそう書いたのでしょう。資料ごとの言い方の違いをこの節で確かめられます。
「最初の」「最古の」という言い方
このアカデミーは、しばしば「最初」や「最古」の言葉で紹介されます。ただし、言っている主体と中身はそれぞれ違います。
- 1991年の最高会議議長の決定:キーウ・モヒラ・アカデミーを「東ヨーロッパ最初の高等教育機関」と書く
- 『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ):「国内で最初の、大学の型の教育機関」と定義する
- IEUのモヒラの項:学院が「やがて東ヨーロッパで最大の学問と教育の中心になった」と書く
一方でIEUは、ヴォルィーニのオストロフに1576年ごろ中等後の教育機関「オストロフ・アカデミー」が開かれ、1636年まで続いたとも書いています。何を高等教育の学校と数えるかで、「最初」の答えは変わります。確かなのは、この学校が17〜18世紀のウクライナで最も大きな学びの場として、ヘーチマン国家の担い手や聖職者を育てたことです。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Kyivan Mohyla AcademyNatalia Pylypiuk執筆、2005年改訂。1632年の統合、国王の制限、1694年と1701年、教育課程と言語、写本の教科書、学んだヘーチマン、マゼーパ時代、1709年以後、1817年の閉鎖、1819年の神学アカデミー、1991年と1992年
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Mohyla, Petro初出1993年。生没年月日、キーウ洞窟大修道院の掌院、1633年5月7日の叙聖、1631年の学校と1632年の統合
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Kyiv Epiphany Brotherhood初出1988年。1615年ごろの設立、ポジール、1620年のサハイダーチヌィの加入、兄弟団学校
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - National University of Kyiv-Mohyla AcademySerhiy Bilenky執筆、2020年。1992年8月の開学、初代学長、1994年の国立の地位、4年制の学士課程、学生数、1704年の旧アカデミー棟
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Ostroh Academy1576年ごろの設立と1636年までの存続
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Розпорядження Голови Верховної Ради України від 19.09.1991 № 1570-XII «Про відродження Києво-Могилянської Академії»再興の決定、「東ヨーロッパ最初の高等教育機関」の文言、名称、30万カルボヴァネツ
発行:Верховна Рада України(zakon.rada.gov.ua) 確認日:2026-09-24 - Указ Президента України від 19.05.1994 № 238/94 «Про Університет Києво-Могилянська Академія»国立大学・自治の地位と名称
発行:Верховна Рада України(zakon.rada.gov.ua) 確認日:2026-09-24 - Статут Національного університету «Києво-Могилянська академія»1.3項:1615年10月15日の兄弟団学校、1991年の決定と1994年の大統領令
発行:Національний університет «Києво-Могилянська академія» 確認日:2026-09-24 - Історія КМАフレヴィチウナの寄進状、1632年9月の統合、1658年のハジャチ協定についての記述、1817年8月14日の宗務院の令
発行:Національний університет «Києво-Могилянська академія» 確認日:2026-09-24 - Києво-Могилянська академія定義:1632年、ペトロ・モヒラによる設立、国内初の大学型の教育機関
発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-24 - Банкнота номіналом 500 грн裏面の中心の図柄がキーウ・モヒラ・アカデミー
発行:Національний банк України 確認日:2026-09-24
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