
記事の分野
日本とのつながり
日本での暮らしや文化交流、仕事を通じたつながり。
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1920年、敦賀に着いた「未来派の父」。画家ブルリュークの日本の2年
1920年10月、ハルキウ県生まれの画家ダヴィド・ブルリュークが船で敦賀に着きました。東京の「日本に於ける最初のロシア画展覧会」、小笠原での暮らし、日本の若い画家たちとの共著まで、約2年の足跡を当時の記録を調べた研究と百科事典からたどります。
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大鵬の父から獅司、安青錦まで。相撲協会の記録に見るウクライナ
昭和の横綱・大鵬の父は、ウクライナの村に生まれた人でした。2026年9月場所の時点で、ウクライナを出身地とする力士は前頭の獅司と大関の安青錦の二人です。日本相撲協会の記録と、大鵬の父をサハリンの公文書からたどった研究をもとに、3人の記録を並べます。
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2012年秋は4人。日本の勲章と外務大臣表彰を受けたウクライナの人
日本の政府は、日本との交流に功績のあった外国の人に勲章を贈り、外務省は外務大臣表彰を行っています。名簿と大使館の発表で確かめられた2006年から2018年までのウクライナに住む人・ウクライナ国籍の人など15人を、発表の文面の功績とともに並べ、二つの仕組みの違いと、2019年以降の名簿の数を示します。
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『羅生門』から『羊をめぐる冒険』まで。日本の小説のウクライナ語訳
1971年、キーウで芥川龍之介の短編集が日本語からウクライナ語に訳されて出ました。1920年代のハルキウの日本研究から、物理学者で翻訳者のイヴァン・ジューブ、辞書をつくったイヴァン・ボンダレンコまで、日本の文学をウクライナ語にしてきた人たちを百科事典と図書館の目録からたどります。
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1929年、家族と東京へ。ピアニストのレオ・シロタ
1928年に演奏旅行で来日し、翌1929年から1946年まで日本に住んだピアニスト、レオ・シロタ。東京音楽学校の名簿、当時の年鑑、研究者の論文から、生まれた町の書き方の違い、教えた生徒、日本を離れた日付の食い違いまでをたどります。
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ウクライナで日本語を学ぶ1,498人。国際交流基金の2024年度調査
国際交流基金の2024年度調査によれば、ウクライナで日本語を教える機関は14、教師は93人、学習者は1,498人で、2021年度より減りました。2012年度からの推移、教師の数え方の変更、キーウの大学で日本語が教えられてきた歴史を、報告書と大学の沿革から見ます。
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年100万円を最長3年。日本財団のウクライナ避難民支援は2026年3月に終了
日本財団は、日本に身元保証人がいるウクライナ避難民約2,000人に、1人年100万円の生活費を最長3年間給付しました。渡航費や住まいの準備金、帰国支援も合わせた給付は約53.8億円。事業は2026年3月31日に終わり、いまは新たに申し込めません。何を、誰に、どれだけ払ったのかを財団の報告書から整理します。
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侵略した国が拒否権を持つ安保理で、日本は2年間何を言ったか
2022年2月25日、ロシアは自国に撤退を求める安保理の決議案を拒否権で葬りました。日本はその年に非常任理事国に選ばれ、2023年から2年間、安保理の議場でロシアの侵略を非難し続けました。安保理がウクライナについて最初の決議を採択したのは、任期が終わった後の2025年2月でした。国連と外務省の記録から、日付順にたどります。
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給与は183日、退職年金は住む国で。日本・ウクライナの新しい租税条約
日本とウクライナの新しい租税条約は2025年8月1日に発効し、2026年1月から税の計算に使われています。1986年のソ連との条約を全面的に改めたもので、給与の183日の数え方が変わり、教員の2年免税はなくなりました。居住者の決め方、年金、学生、二重課税の外し方を条文に沿って読みます。
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核兵器が残る新しい国と、日本はどう国交を結んだのか
日本がウクライナを国家として承認したのは1991年12月28日、外交関係を開いたのは翌年1月26日です。当時のウクライナには旧ソ連の戦略核兵器が残っていました。国会の議事録と外交青書から、承認のときに日本が求めたこと、キーウに大使館が開くまでの1年、核兵器の廃棄への協力、1995年の大統領来日までをたどります。