1920年、敦賀に着いた「未来派の父」。画家ブルリュークの日本の2年
1920年10月、ハルキウ県生まれの画家ダヴィド・ブルリュークが船で敦賀に着きました。東京の「日本に於ける最初のロシア画展覧会」、小笠原での暮らし、日本の若い画家たちとの共著まで、約2年の足跡を当時の記録を調べた研究と百科事典からたどります。
オリュカのひとこと
この画家は、どこで生まれ、どう日本へ来たのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
1920年(大正9年)10月1日の未明、ウラジオストクからの船「筑前丸」が福井県の敦賀に着き、フロックコート姿の二人の画家が降りました。ダヴィド・ブルリューク(Давид Бурлюк、英語表記 David Burliuk)と、ヴィクトル・パリモフです。その日の大阪毎日新聞の夕刊は、ブルリュークを「未来派の父」と呼んで来日を伝えました。
ブルリュークは、当時のハルキウ県(いまのウクライナ北東部)に生まれた画家・詩人で、ロシア帝国の前衛芸術「未来派」の中心にいた人です。日本には約2年いて、東京・大阪・京都・神戸などで展覧会を開き、日本の若い画家たちと行き来しました。以下は、ウクライナ国立科学アカデミーの『ウクライナ現代百科事典』(ЕСУ)、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、当時の新聞と外務省の記録を調べた美術史家・五十殿利治(おむか・としはる)の論文(1989年、筑波大学の紀要『藝叢』)、国立国会図書館の書誌によります(2026年9月時点)。作品の良しあしには触れません。
生まれた村と、日本に来るまで
ЕСУによれば、ブルリュークは1882年、当時のハルキウ県レベディン郡のセミロティウシチナという小さな集落に生まれました。ЕСУはこの集落を「いまは記録から消えた」と書いています。IEUは、生まれた場所を同じレベディン郡のリャブシュキ村に近いセミロティウカとしています。
カザン、オデーサの美術学校、ミュンヘンの美術アカデミー、パリで絵を学び、1910年代にはウラジーミル・マヤコフスキーらと詩集や宣言を出して、ロシア帝国の前衛芸術の中心にいました。1908年には、キーウでアレクサンドラ・エクステルらと展覧会「ランカ(Ланка、つながり)」を開いています(IEU・ЕСУ)。
1917年の革命と内戦のあいだ、ブルリュークはウラル、シベリアを経て極東へ移り、1919〜1920年はウラジオストクで暮らしました(IEU)。五十殿の論文によれば、ウラジオストクで開かれた未来派の展覧会は、1920年4月に日本の新聞の特派員が記事にしており、ブルリュークは早くから日本へ渡りたいと語っていました。
オリュカのひとこと
日本での日々は、どう過ぎていったのでしょう。この年表で確かめられます。
年表で見る日本での約2年
日付と会場は、五十殿の論文が当時の新聞・展覧会の目録・外務省の記録から示しているものです。
| 年月日 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1920年10月1日 | ヴィクトル・パリモフとともに、船で敦賀に着く | 五十殿(大阪毎日新聞の記事による) |
| 1920年10月14〜30日 | 東京・京橋の星製薬の3階で「日本に於ける最初のロシア画展覧会」(招待日は13日) | 五十殿 |
| 1920年11月21〜29日 | 大阪・高麗橋の三越6階で同じ展覧会 | 五十殿 |
| 1920年12月5〜11日 | 京都の高島屋で展覧会 | 五十殿 |
| 1920年12月18日 | 家族とともに横浜を出て小笠原へ。22日に父島に着く | 五十殿(外務省外交史料館の記録による) |
| 1921年4月2〜4日 | 東京日日新聞社で「小笠原の自然と人生」展(義弟のヴァーツラフ・フィアラと) | 五十殿 |
| 1921年9月 | 第8回二科展に5点を出す | 五十殿 |
| 1921年9月16〜20日 | 神戸で展覧会 | 五十殿 |
| 1921年10月15〜28日 | 上野の青陽楼で開かれた第2回未来派美術協会展に参加 | 五十殿(1992年の続編) |
| 1921年 | 詩集『富士山に登る』(Восхождение на Фудзи-сан)を横浜で出す | ЕСУ |
| 1922年 | 日本を離れ、アメリカへ | IEU、ЕСУ |
| 1923年2月 | 木下秀一郎との共著『未来派とは?答へる』(中央美術社、266ページ)が東京で出る | 国立国会図書館の書誌、五十殿 |
「日本に於ける最初のロシア画展覧会」
東京の最初の展覧会は、五十殿の論文によれば、会場の星製薬(京橋区南伝馬町)の3階で1920年10月14日から30日まで開かれました。出品目録に載った作品は473点で、出品者は27人。1番から150番がブルリューク、151番から208番がパリモフの作品でした。
目録には、カジミール・マレーヴィチ、ウラジーミル・タトリン、ワシーリー・カメンスキーといった、モスクワの前衛の画家の名前もあります。一方で、シベリアで知り合った無名の画家や、ブルリュークの息子の作品も並んでいました。五十殿は、壁いっぱいに作品を掛けた会場写真と、当時の新聞の記事を紹介しています。新聞は、紙や布、マッチ箱などを画面に貼る技法(コラージュ)に目を留めていました。
展覧会は、大阪(11月21〜29日、三越)、京都(12月5〜11日、高島屋)へと回りました。五十殿は、ブルリュークとパリモフが町ごとに新聞社を訪ね、自作の詩を渡して記事にしてもらっていたことを、各紙の記事から跡づけています。
オリュカ
日本の若い画家たちとは、どんなふうにつながったのかな。
タブリ
協会の展覧会に加わっていった順番は、この見出しの下の最初の段落にあるよ。
ヨリクネ
同じころ日本にいた詩人のことは、この見出しの下の終わりのリンク先へ寄り道できるよ。
日本の画家たちとのつながり
東京に着いたころ、日本では、画家の普門暁(ふもん・ぎょう)が中心になって「未来派美術協会」をつくり、1920年9月に最初の展覧会を開いたばかりでした。五十殿によれば、ブルリュークたちは普門と早くから知り合い、協会が1920年12月に大阪で展覧会を開いたときにはブルリュークたちの作品も並べられたようだ、としています。1921年10月の第2回展には、ブルリューク、パリモフ、フィアラが名を連ねました。
いちばん長く形に残ったのは、未来派美術協会の木下秀一郎との共著『未来派とは?答へる』です。国立国会図書館の書誌では、1923年に東京の中央美術社から出た266ページの本で、著者の表記は「デ・ブルリユツク, 木下秀」。国立国会図書館デジタルコレクションで、インターネットから本文の画像を見ることができます。五十殿は、いくつもの画風を描き分けてみせたブルリュークの作品が、若い画家たちに新しい美術の動きを教える「教科書」のような役割を担い、それがこの本に結実したと見ています。
同じころ日本では、ウクライナ出身の目の見えない詩人ヴァスィリー・エロシェンコも暮らしていました。エロシェンコについては1921年の『夜明け前の歌』の記事にまとめています。
小笠原の父島で
ブルリュークは、ウラジオストクに残していた妻と二人の息子を呼び寄せ(五十殿は、合流したのは1920年11月半ばから末ごろと推定しています)、その年の暮れに小笠原の父島に渡りました。五十殿の論文によれば、外務省外交史料館の「外国人ノ動静関係雑纂 府県報告 露国人ノ部」というファイルに、父島の憲兵分駐所長が1921年1月18日付けでまとめた報告が残っています。報告は、一行が1920年12月18日に横浜を出て22日に父島に上陸し、一軒家を借りて自炊しながら島の風景を描いていたことを記しています。
来日した外国人の画家の動きが、このように憲兵から外務省に報告されていたことも、同じファイルからわかります。東京朝日新聞は1920年12月18日の記事で、ブルリュークたちが「過激派」と疑われて見張られていると伝え、パリモフの「私達は決して過激派などではありません」という言葉を載せました(五十殿の論文による)。父島で描いた作品は、1921年4月に東京日日新聞社で開いた展覧会「小笠原の自然と人生」に並びました。
オリュカ
この画家は、どこの画家として紹介されているのかな。
スウネ
新聞と二つの事典の書き方が、この見出しの下の小見出しに分けて並んでいるよ。
ヨリクネ
絵の題材になった民画のことは、この先の小見出しのリンク先へ寄り道できるよ。
「ロシア未来派の父」と「ウクライナの画家」
ブルリュークをどう呼ぶかは、書き手によって違います。ここでは、この記事が使った資料の書き方を並べます。
1920年の日本の新聞
大阪毎日新聞は来日の日の夕刊で「『未来派の父』露国画伯来朝」と伝えました(五十殿の論文による)。1996年に西宮市大谷記念美術館が出した図録は、この見出しと同じ言葉を含む『「未来派の父」露国画伯来朝記!!』という題です(国立国会図書館の書誌)。五十殿自身は、ブルリュークを「亡命ロシア人」と書いています。
IEU(カナダ・ウクライナ研究所)
IEUの項目(2005年執筆)は、ブルリュークを「ロシア帝国における未来派の創始者」と書き、ザポロージャ・コサックの家系の出で、ステップの故郷や石像、コサックの歴史から着想を得たと説明しています。挙げる作品には、民画の主題を描いた『コサック・ママイ』もあります(民画についてはコサック・ママイの記事)。参考文献には「ロシア未来派の父」を題に含む論文や展覧会の図録が並んでいます。
ЕСУ(ウクライナ現代百科事典)
ЕСУは、「ロシア未来派の父」という言い方をかぎかっこに入れて紹介したうえで、ウクライナを主題にした作品(『行軍するザポロージャ・コサック』『スヴャトスラウ』『コサック・ママイ』)、1920年代にリヴィウ、キーウ、ハルキウの美術館と協力したこと、ハルキウの雑誌『ノヴァ・ヘネラーツィア』(Нова генерація)に寄稿したことを書いています。
同じ人を、ある資料は「ロシア未来派」の人として、別の資料はウクライナの生まれと家系、ウクライナの主題から紹介しています。どちらか一方に決める資料は、この記事では見つけていません。
資料で食い違うところ
生まれた日、亡くなった場所、日本で描いた絵の数は、二つの事典で違います。
| 項目 | ЕСУ | IEU |
|---|---|---|
| 生年月日 | 1882年6月9日(新暦21日) | 1882年7月22日 |
| 亡くなった場所 | ニューヨーク | ニューヨーク州ロングアイランドのサウサンプトン |
| 日本で描いた絵 | 約450点 | 400点以上 |
| 『コサック・ママイ』の年 | 1916年 | 1908年 |
| 雑誌『カラー・アンド・ライム』を出した年 | 1930〜1960年 | 1937〜1966年 |
日本を離れてから
1922年にアメリカへ渡ったブルリュークは、ニューヨークで暮らし、1941年からはニューヨーク州のハンプトン・ベイズに住みました(IEU)。美術雑誌『カラー・アンド・ライム』(Color and Rhyme)を出し、1967年1月15日に亡くなりました。ЕСУによれば、1998年にはキーウで、ウクライナの所蔵品を集めた展覧会が開かれています。
日本で活動した人としては、ほかに1929年から東京で暮らしたピアニストのレオ・シロタがいます(レオ・シロタの記事)。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Бурлюк Давид Давидович生年月日と生地、学歴、1907〜1911年の展覧会、「ロシア未来派の父」という紹介、1920〜1922年の日本滞在と約450点、1921年横浜の詩集、1922年からアメリカ、ウクライナを主題にした作品、1920年代のリヴィウ・キーウ・ハルキウの美術館との協力、1998年キーウの展覧会。執筆 Д. О. Горбачов、2004年刊・2023年更新
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-27 - Burliuk, Davyd生年月日と生地、1908年キーウの展覧会、1918〜1922年のシベリア・ウラジオストク・日本、日本で400点以上と展覧会、コサックの家系、アメリカでの暮らしと没地、参考文献。執筆 Myroslav Shkandrij、2005年
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - 五十殿利治「ダヴィト・ブルリュークと大正期の新興美術」来日の日付と船、各地の展覧会の会期と会場、出品目録、小笠原渡航と外務省外交史料館の報告、新聞の報道。『藝叢』筑波大学芸術学研究誌 6、1989年、113〜146ページ
発行:筑波大学 確認日:2026-09-27 - 五十殿利治「ダヴィト・ブルリュークと大正期の新興美術(承前)」1921年10月の第2回未来派美術協会展の会期と会場。『藝叢』8、1992年、93〜129ページ
発行:筑波大学 確認日:2026-09-27 - 未来派とは?答へるデ・ブルリユツク, 木下秀 著、中央美術社、大正12年、266ページ。書誌とデジタル化資料の公開範囲
発行:国立国会図書館 確認日:2026-09-27 - 「未来派の父」露国画伯来朝記!! : ブルリュークと日本の未来派書誌
発行:国立国会図書館 確認日:2026-09-27
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