1921年の『夜明け前の歌』。日本語で童話を書いたエロシェンコ
1921年、東京の叢文閣から、目の見えない詩人ヴァスィリー・エロシェンコの童話集『夜明け前の歌』と『最後の溜息』が出ました。1914年から7年間日本にいた彼の日本語の本、中村彝らが描いた肖像、生まれた場所と晩年の経歴で事典が食い違う点を、書誌と事典から見ます。
オリュカのひとこと
エロシェンコは、日本語でどんな作品を書いたのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
1921年7月、東京の出版社・叢文閣から『夜明け前の歌』という本が出ました。副題は「エロシエンコ創作集」、編者は劇作家の秋田雨雀です。国立国会図書館の目録によれば316ページで、「狭い籠」「魚の悲しみ」「鷲の心」「幸福の船」など14編の童話・物語が収められています。
作者は、目の見えない詩人ヴァスィリー・エロシェンコ(Василь Єрошенко、1890〜1952年)。1914年から1921年まで日本にいて、日本語とエスペラントで作品を書きました。以下は、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、ウクライナ国立科学アカデミーの『ウクライナ現代百科事典』(ЕСУ)、国立国会図書館の書誌、文化庁の文化遺産オンライン、新宿中村屋の沿革による内容です(2026年9月時点)。資料どうしで食い違うところは、両方を示します。
どこで生まれた人か
IEUによれば、4歳で視力を失いました。ЕСУは、モスクワの盲人の保護・教育の団体が営む学校で1899年から1908年まで学び、盲人のオーケストラでバイオリンを弾き、1912年の夏にはロンドン郊外の盲人のための王立の学校で学んだと書いています。学校にいたころにエスペラントに出会った、というのは中村屋の沿革の説明です。
オリュカ
生まれた場所は、どの資料でも同じ書き方なのでしょうか。
スウネ
郡の名前は、二つの事典で違うと、この見出しの下の表にあるよ。
タブリ
亡くなった日と場所は、二つの事典で一致していると、この見出しのすぐあとに書いてあるよ。
生まれた場所の書き方は、資料によって違う
生まれた日と場所は、資料ごとに書き方が少しずつ違います。
| 資料 | 生まれた日 | 生まれた場所の書き方 |
|---|---|---|
| ЕСУ(2009年の刊行) | 1889年12月31日(ロシア帝国で使われていた暦)=1890年1月12日 | クルスク県スタールイ・オスコル郡のオブホフカ村。いまはロシア連邦ベルゴロド州の村 |
| IEU(1993年の紙版の再録) | 1890年1月13日 | クルスク県ベルゴロド郡のオブホフカ |
| 新宿中村屋の沿革 | 1890年 | 「ウクライナに生まれました」 |
二つの事典は、生まれた村がいまロシア連邦のベルゴロド州にあることで一致しています。郡の名前はЕСУとIEUで違い、どちらが正しいかはこの記事では決めていません。日本の資料には「ウクライナ生まれ」と書くものがありますが、事典の記述とは合いません。亡くなったのは二つの事典とも1952年12月23日で、場所は生まれた村です。
それでも、ウクライナの事典は彼を項目に立てています。ЕСУが挙げるウクライナとのつながりは、ウクライナ語訳の作品集『正義の花』(Квітка справедливості、キーウ、1969年)、リヴィウにある彼の名の通り、2007年にキーウでできた慈善基金「エスペロ」、1991年のウクライナの記録映画です。IEUの「Japan」の項目は、ウクライナと日本の関わりの一人として彼の名を挙げ、東京で教え(1914〜1921年)、日本語で詩・物語・童話・劇を書いたとしています。
日本での7年
来日と追放、劇作家の秋田雨雀との交流は、ウクライナと日本の関係の記事で触れています。ここでは作品に関わることだけを足します。
中村屋の沿革によれば、秋田雨雀がエロシェンコに出会ったのは1915年の初春で、同じ年の9月には、エスペラントでの東京大学での講演を秋田が通訳しました。その帰りに、中村屋の創業者の相馬黒光が一行を店に呼び入れ、以後、黒光はエロシェンコの暮らしの面倒を見ます。1916年にいったん東南アジア・南アジアへ渡り、1919年に日本へ戻りました。ЕСУは、1914年から1921年まで日本で学び、教え、エスペラントの運動に加わったとまとめています。
オリュカのひとこと
日本語で出た本は、どんな内容だったのでしょう。この見出しの一覧で確かめられます。
日本語で出た3冊
日本語の本は、滞在の終わりから数年のうちに3冊出ています。国立国会図書館の書誌とЕСУの記述を並べます。
| 書名 | 刊行 | 版元 | 編者 | ページ数 |
|---|---|---|---|---|
| 『夜明け前の歌』(エロシエンコ創作集) | 1921年(大正10年)7月 | 叢文閣 | 秋田雨雀 | 316 |
| 『最後の溜息』 | 1921年(大正10年) | 叢文閣 | 秋田雨雀 | 327 |
| 『人類の為めに』(創作集第三) | 1924年(大正13年)10月 | 東京刊行社 | ЕСУは「フクオカ・セイイチ」とする | — |
国立国会図書館のデジタルコレクションに入っている『夜明け前の歌』の目次は、次の14編です。数字は目次にある始まりのページです。
- 狭い籠(1)、魚の悲しみ(35)、学者の頭(55)、沼のほとり(69)、一本の梨の木(81)
- 鷲の心(105)、松の子(125)、春の夜の夢(145)、変り猫(179)
- 木星の人間神(195)、恩寵の濫費(209)、無宗教者の殉死(231)、幸福の船(249)、カナリヤの死(289)
ЕСУは、3冊に収められたのは象徴的な童話と風刺の童話、それに神秘劇『桃色の雲』だとし、作品はたとえ話に近く、多くはリズムのある言葉で書かれていると説明しています。影響を受けたものとして、ロシアの象徴主義、トルストイ、エスペラントを考えたザメンホフ、クロポトキンの思想、南ロシアの民衆文化、東洋の文学などを挙げています。
昔の表記「エロシエンコ」、いまの表記「エロシェンコ」
1921年の2冊は、国立国会図書館の書誌で著者名が「ワシリー・エロシエンコ」、副題も「エロシエンコ創作集」です。戦後の本は「エロシェンコ」と書くものが多く、この記事もそれに合わせました。名前の「ワシリー」はロシア語の読み方に近い書き方で、ウクライナ語ではヴァスィリーと読みます。
オリュカ
日本語の原稿は、本人がそのまま書き上げたのでしょうか。
スウネ
口で述べたのか、誰がどこまで手を入れたのかは、この見出しの下では分かっていないようだよ。
ヨリクネ
この人物とのほかのつながりは、関連記事でも読めるよ。
「日本語で書いた」とはどういうことか
IEUは、彼の作品は日本語とエスペラントで書かれたとし、日本語を身につけて、詩・物語・劇を日本の新聞や雑誌に発表し始めたと書いています。ЕСУは、3冊が日本語で東京で出たこと、はじめの2冊は秋田雨雀の編集によることを書いています。目の見えない彼が日本語の原稿をどう仕上げたのか、つまり自分で書いたのか、口で述べたものを誰かが書き取ったのか、どこまで手が入ったのかは、この二つの事典には書かれていません。
1920年の2枚の肖像
エロシェンコは、日本の近代洋画の2枚の絵のモデルにもなりました。東京国立近代美術館の作品解説によれば、画家の鶴田吾郎が目白駅で一人で立っている彼を見かけてモデルを頼み、1920年9月6日から、友人の中村彝の画室で二人が並んで描きました。8日間、午後いっぱい描き続けたとされています。
| 作品 | 画家 | 所蔵 | 記録 |
|---|---|---|---|
| 《エロシェンコ氏の像》(1920年、油彩) | 中村彝 | 東京国立近代美術館 | 1920年の第2回帝展に出品。1977年6月11日に重要文化財に指定 |
| 《盲目のエロシェンコ》(1920年) | 鶴田吾郎 | 中村屋(中村屋の沿革による) | 同じ第2回帝展に出品(中村屋の沿革による) |
文化庁の解説は、中村彝の絵が2年後にパリの日仏美術交換展にも出品されて好評を得たと書いています。中村屋の沿革によれば、エロシェンコとの出会いをきっかけに、店員の制服を彼が好んで着ていたロシアの上着ルパシカにし、1927年にはボルシチを売り出しました。
1921年、日本を離れる
エロシェンコは1921年に日本から追放されました。中村屋の沿革は、社会主義の運動の人たちとの交わりから、当時の日本が警戒していたボルシェビキの疑いをかけられたと説明しています。
中国語への翻訳
ЕСУによれば、日本を離れたあとは、1922年から1923年まで北京大学でエスペラントとロシア語を教えました。作品は中国語にも訳され、上海で魯迅の訳による『エロシェンコ童話集』(1922年ほか)と『桃色の雲』(1922年ほか)が出たと、ЕСУは書いています。北京大学でエスペラントで行った講義の記録も、1924年に本になりました。中村屋の沿革は、北京へは魯迅に招かれて渡ったとしています。
その後、ЕСУによれば、1923年から1924年にヨーロッパを回り、1924年から1928年まではモスクワの東方勤労者共産大学で日本語のグループの講師と通訳を務めました。
ソ連に戻ってからの経歴は、二つの事典で食い違う
1920年代の終わりから後の経歴は、二つの事典で大きく違います。
ЕСУ(2009年)は、1928〜1929年に全ロシア盲人協会の中央の役員会で働き、1930〜1932年にニジニ・ノヴゴロドの盲人の職業学校で教え、1934〜1945年にはトルクメニスタンで初めての盲児の寄宿施設をつくって率いたと書きます。トルクメン語の点字の案を出し、1934年に最もよい案と認められた、ともしています。その後はモスクワ近郊や、ウズベキスタンのタシケントで盲人に教えたという経歴が続きます。
IEU(1993年の紙版)は、1929年に逮捕され、チュクチの収容所に5年、トルクメニスタンに11年いて1945年に釈放され、そののちNKVD(内務人民委員部)の通訳の仕事を断ったためにふたたび拘束され、1951年まで出られなかったと書いています。
どちらの記述が正しいのかは、この記事では確かめられていません。
戦後の日本で
日本では戦後、高杉一郎の編集で『エロシェンコ全集』全3巻(みすず書房、1959年。第3巻は伝記)が出ました。国立国会図書館の書誌によれば、1974年には同じ高杉の編訳で『エロシェンコ作品集』2巻(第1巻『桃色の雲』、第2巻『日本追放記』)が同じ版元から出ています。1921年の『夜明け前の歌』は、国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Yeroshenko, Vasyl生没年月日と場所、4歳で失明、モスクワの盲学校とロンドンの学校、日本語とエスペラントの作品、1929年以降の逮捕と収容所の記述、1959年の3巻本。紙版は1993年の第5巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - Japanエロシェンコが東京で教え、日本語で詩・物語・童話・劇を書いたこと
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - Єрошенко Василь Якович生没年月日と場所、学歴、1914〜21年の日本、日本語の3冊と編者、魯迅の中国語訳、1922年以降の職歴、ウクライナ語訳、リヴィウの通り、基金、記録映画。執筆 М. В. Ващишин、Ю. В. Патлань、第9巻、2009年12月
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-27 - 夜明け前の歌 : エロシエンコ創作集叢文閣、大正10年、316p、秋田雨雀編
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-27 - 夜明け前の歌刊行1921年7月
発行:大阪府立中央図書館国際児童文学館の書誌(国立国会図書館サーチ経由) 確認日:2026-09-27 - 夜明け前の歌 : エロシエンコ創作集目次の14編と始まりのページ、公開の状態
発行:国立国会図書館デジタルコレクション 確認日:2026-09-27 - 最後の溜息叢文閣、大正10年、327p、秋田雨雀編
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-27 - 人類の爲めに東京刊行社、1924年10月
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-27 - エロシェンコ全集 第3巻 伝記みすず書房、1959年、高杉一郎編
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-27 - エロシェンコ作品集 1(桃色の雲)・2(日本追放記)みすず書房、1974年、高杉一郎編訳
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-27 - エロシェンコ像〈中村彝筆 一九二〇年/油絵 麻布〉重要文化財の指定日1977年6月11日、第2回帝展、パリの日仏美術交換展
発行:文化遺産オンライン(文化庁) 確認日:2026-09-27 - エロシェンコ氏の像東京国立近代美術館の作品データ。制作の経緯、1920年9月6日から8日間
発行:文化遺産オンライン(東京国立近代美術館) 確認日:2026-09-27 - 創業者ゆかりの人々 ワシリー・エロシェンコ生年と生地の書き方、1916年と1919年、1921年の追放の経緯、ルパシカとボルシチ、北京へ
発行:新宿中村屋 確認日:2026-09-27 - 創業者ゆかりの人々 鶴田吾郎目白駅での出会い、2枚の競作、第2回帝展、《盲目のエロシェンコ》の所蔵
発行:新宿中村屋 確認日:2026-09-27 - 創業者ゆかりの人々 秋田雨雀1915年初春の出会い、1915年9月の東京大学での講演と通訳
発行:新宿中村屋 確認日:2026-09-27
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