スルタンが帰郷を許すオペラ『ドナウの向こうのザポロージェツ』
1863年、サンクトペテルブルクで初演された喜劇オペラ『ドナウの向こうのザポロージェツ』は、シーチを追われたコサックの物語です。作曲者は自ら主人公を歌った歌手フラク=アルテモウシキー。台本の作者、「最初のウクライナのオペラ」という言い方、史実との違いを、事典と劇場の資料から見ます。
オリュカのひとこと
「最初のウクライナ語のオペラ」とは、どの作品を指すのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
1863年、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で、一本の喜劇オペラが初めて舞台にかかりました。題は『ドナウの向こうのザポロージェツ』(Запорожець за Дунаєм)。ザポリッジャのシーチを追われ、オスマン帝国の側に移り住んだコサックたちの物語です。作曲したのは、この劇場で歌っていたバリトン歌手セメン・フラク=アルテモウシキー(Семен Гулак-Артемовський)で、初演では自ら主人公のカラシを歌いました。
以下は、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(以下ЕІУ)、『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ)、この作品をいまも上演しているウクライナ国立歌劇場(キーウ)の作品解説による内容です(2026年9月時点)。資料どうしで食い違うところは、両方を示します。
劇場で歌っていた作曲者
IEUとЕІУによれば、フラク=アルテモウシキーは1813年2月16日(旧暦4日)、いまのチェルカーシ州のホロディシチェに生まれ、1873年4月17日(旧暦5日)にモスクワで亡くなりました。ЕІУは、司祭の家に生まれ、キーウの神学校を出て、聖ソフィア大聖堂などの聖歌隊で歌っていたと書いています。1837年、宮廷の聖歌隊に歌い手を集めていた作曲家ミハイル・グリンカが、彼をサンクトペテルブルクへ連れて行きました。
その後イタリアなどで声を磨き、ЕІУによれば1842〜1864年にサンクトペテルブルクの帝室オペラの独唱者、1864〜1865年にモスクワのボリショイ劇場で歌い、1865年に舞台を退きました。グリンカの『ルスランとリュドミラ』のルスランなど、演じた役は50を超えます(IEU・ЕІУ)。IEUは彼を詩人ペトロ・フラク=アルテモウシキーの甥で、タラス・シェウチェンコの親しい友人だったとしています。ЕІУによれば、1838年にシェウチェンコと親しくなり、歌曲「水辺に立つカエデの木」(Стоїть явір над водою)を彼に献じました。
作曲家としての作品は多くありません。ЕІУは、ディヴェルティスマン『ウクライナの婚礼』(1851年)、ヴォードヴィル『イヴァン・クパーラの夜』(1852年)などを挙げています。そのなかで今日まで上演が続いているのが、『ドナウの向こうのザポロージェツ』です。
オリュカのひとこと
初演のあと、この作品はどう広がっていったのでしょう。この年表で確かめられます。
年表:初演から、ウクライナの舞台と映画へ
| 年 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1861〜1862年 | 作曲(ЕІУ「コサックの主題」の項は1862年、国立歌劇場は1861〜1862年とする) | ЕІУ、ウクライナ国立歌劇場 |
| 1863年4月14日 | サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で初演。作曲者が演出し、カラシを歌う | ウクライナ国立歌劇場(日付)、IEU・ЕІУ(年と場所) |
| 1864年10月6日 | モスクワのボリショイ劇場で上演 | ウクライナ国立歌劇場(ЕІУは1864年とだけ書く) |
| 1884年6月11日 | ミハイロ・スタールィツキーの劇団がロストフ・ナ・ドヌーで上演 | ウクライナ国立歌劇場(ЕІУは、ウクライナの劇団による最初の上演を1884年のスタールィツキーの劇団とする) |
| 1900年 | リヴィウでソロミヤ・クルシェルニツカが出演 | ЕСУ(クルシェルニツカの項) |
| 1934年12月 | キーウの劇場(いまのウクライナ国立歌劇場)で初めて上演 | ウクライナ国立歌劇場 |
| 1936年、1954年 | オデーサの劇場で上演 | ЕІУ(オデーサの劇場の項) |
| 1937年または1938年 | イヴァン・カヴァレリゼの監督で映画化 | ЕСУは1937年に撮影、IEUは1938年とする |
| 2015年2月28日 | キーウで、ミロスラフ・スコルィクの編曲による現在の版が初演 | ウクライナ国立歌劇場 |
1884年まで間があいた理由について、国立歌劇場の解説は、1876年のエムス法令ののち、舞台の作品は禁止の対象に入っていなかったものの、検閲がこのオペラを上演を許す作品の一覧から外した、と説明しています。エムス法令そのものはエムス法令と東京大学の記事で、同じ時代に作曲家ミコラ・ルィセンコのオペラが置かれた状況はルィセンコの記事で扱っています。1900年のクルシェルニツカの出演はクルシェルニツカの記事で触れています。
オリュカ
台本を書いたのは、作曲者自身なのでしょうか。
スウネ
資料によって書き方が違うと、この見出しの下のリストにあるよ。
タブリ
同じ事典の中でも意見が分かれていることが、次の段落で分かるよ。
台本を書いたのは誰か
台本の作者は、資料によって書き方が違います。
- ЕІУの作曲者の項(2004年):台本の作者は歴史家ミコラ・コストマーロウ
- ЕІУの「ウクライナと世界の音楽のコサックの主題」の項:台本を書き、初めの上演(1863〜1864年)で主役を歌ったのは作曲者自身
- IEU(1988年):作曲者がこのオペラを「書いた」とし、台本の作者を分けて書いていない
- ウクライナ国立歌劇場の上演情報:「台本 セメン・フラク=アルテモウシキー」
同じЕІУの中でも二つの項目が食い違っています。コストマーロウが何らかの形で関わったのか、関わったとすれば筋の提案なのか台本の執筆なのかは、この記事で確かめた資料からは判断できません。
筋書きと、ドナウの向こうのシーチ
国立歌劇場の解説によれば、舞台は19世紀の初め、当時トルコの領土だったドナウ川の岸辺です。コサックのイヴァン・カラシは、仲間とともに故郷へ帰ることを願っています。口うるさい妻のオダルカとの言い合いの場面が、喜劇の中心です。そこへ、身なりを変えたスルタンが現れ、コサックたちの思いを探ります。カラシの養女オクサーナと恋人のアンドリーは逃げようとして捕まりますが、最後にスルタンの命令が読み上げられ、コサックたちは故郷へ帰ることを許され、二人も許されます。
物語の背景には実在の集団があります。IEUの「ドナウの向こうのシーチ」の項(1984年)によれば、1775年にザポリッジャのシーチが壊されたあと、トルコの領土へ逃れたコサックが、ドナウ川の河口のドブルジャに住みました。一時はオーストリア領に移った人々もいましたが、1811〜1812年にドブルジャへ戻り、38のクリーニ(隊)と選挙で選ぶ首領という、もとのシーチにならった組織をつくりました。1775年までのシーチについてはシーチの220年の記事で扱っています。
ただし、実際の終わり方はオペラとは違います。IEUによれば、1828年の露土戦争のとき、首領のヨシプ・フラトキーが1,500人ほどを率いてロシア側に移り、トルコはこのシーチを壊しました。スルタンがコサックに帰郷を許して終わる筋は、オペラの創作です。
「ザポロージェツ」は人の呼び名
題名の「ザポロージェツ」(запорожець)は、地名ではなく「ザポリッジャのコサック」を指す人の呼び名です。地名ザポリッジャ(Запоріжжя)から来た語ですが、いまのザポリッジャ市や州の住民を指す言葉として使われているわけではありません。IEUは題名を英語で「Zaporozhian Cossack beyond the Danube」と訳しています。オペラの舞台になった集団は、ウクライナ語で「ザドゥナイシカ・シーチ」(Задунайська Січ、ドナウの向こうのシーチ)と呼ばれます。
オリュカ
この作品は、本当に「最初のウクライナのオペラ」なのでしょうか。
スウネ
確かめた事典は、そう書いていないと、この見出しの下にあるよ。
ヨリクネ
もっと古いウクライナ人作曲家のオペラも、この見出しの下で紹介されているよ。
「最初のウクライナ語のオペラ」と言えるのか
この作品は「最初のウクライナのオペラ」と紹介されることがあります。確かめた事典は、そう書いていません。
IEUの「Opera」の項(1993年)は、ウクライナ出身の作曲家による最も早いオペラとして、18世紀のマクシム・ベレゾウシキー『デモフォンテ』(1773年)や、ドミトロ・ボルトニャンシキー『クレオンテ』(1776年)などを挙げています。これらはイタリア語の台本によるものです。そのうえでIEUは、『ドナウの向こうのザポロージェツ』を19世紀の「注目すべきウクライナのオペラの一つ」とし、音楽がウクライナの民謡に強く影響されていると書いています。ЕІУは、この作品を、コサックの文化の伝統とウクライナの芸術家の創作を結びつけた「手本とされている」作品と書いています。
「ウクライナの作曲家による最初のオペラ」の意味なら、18世紀の作品があるので当たりません。「ウクライナ語の台本による最初のオペラ」の意味で書いている資料は、この記事で確かめた事典の中には見つかりませんでした。
カラシを歌い継いだ人たち
IEUは、このオペラが初演以来最もよく上演されるウクライナのオペラの一つになり、ウクライナ国内と国外のウクライナ人社会の劇場で上演されてきたと書いています。この作品の役を歌った人として、ミコラ・サドウシキー、パナス・サクサハンシキー、マルコ・クロプィウヌィツキー、イヴァン・パトルジンシキー、マリヤ・ザニコヴェツィカらの名前を挙げています。ЕІУは、ずっと後の時代にカラシの役で知られた歌手としてパトルジンシキーを挙げています。
映画になったのは1930年代です。ЕСУによれば、彫刻家で映画監督のイヴァン・カヴァレリゼは、1936年に『ナタールカ・ポルタウカ』を映画にしたあと、1937年にこのオペラの映画を撮りました。IEUは、この映画を1938年の作品としています。ウクライナの映画の保存についてはドヴジェンコ・センターの記事で扱っています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Hulak-Artemovsky, Semen生没年月日と生地、ペトロ・フラク=アルテモウシキーの甥、シェウチェンコとの交友、1839〜42年の留学、1842年からの独唱者、50以上の役、1863年の作品とカラシの役、ほかの作品。執筆 Wasyl Wytwycky、紙版は1988年の第2巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - ГУЛАК-АРТЕМОВСЬКИЙ Семен Степанович生没年月日、ホロディシチェ、神学校、聖歌隊、1837年のグリンカ、1842〜64年と1864〜65年の舞台、1865年の引退、台本の作者をコストマーロウとする記述、1863年のマリインスキー劇場での初演、1864年のボリショイ劇場、1884年のスタールィツキーの劇団、1838年のシェウチェンコとの交友と献呈、ほかの作品。執筆 Г. С. Брега、第2巻、2004年
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27 - КОЗАЦЬКА ТЕМАТИКА В УКРАЇНСЬКОМУ ТА СВІТОВОМУ МУЗИЧНОМУ МИСТЕЦТВІ作品を1862年とする記述、台本の作者と初めの上演〔1863〜64年〕の主役が作曲者自身とする記述、「手本とされている」という評価、パトルジンシキー。第4巻、2007年
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27 - Opera18世紀のベレゾウシキー・ボルトニャンシキーのオペラとイタリア語の台本、19世紀の注目すべきオペラの一つとしての『ドナウの向こうのザポロージェツ』、民謡の影響、1863年の初演とカラシ、歌った歌手たち。執筆 Wasyl Wytwycky、紙版は1993年の第3巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - Danubian Sich1775年以後のドブルジャへの移住、オーストリア領への移住と1811〜12年の帰還、38のクリーニ、1828年のフラトキーの離反とシーチの破壊。執筆 Bohdan Kravtsiv、紙版は1984年の第1巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - Запорожець за Дунаєм上演情報「台本 セメン・フラク=アルテモウシキー」、2015年2月28日のスコルィク版の初演、あらすじ、作曲の年〔1861〜1862年〕、1863年4月14日のマリインスキー劇場での初演、1864年10月6日のボリショイ劇場、エムス法令後の検閲、1884年6月11日のロストフ・ナ・ドヌーでの上演、1934年12月のキーウでの初上演
発行:Національна опера України 確認日:2026-09-27 - Кавалерідзе Іван Петрович1936年の『ナタールカ・ポルタウカ』と1937年の『ドナウの向こうのザポロージェツ』の映画化。執筆 В. М. Ханко、2011年
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-27 - Kavaleridze, Ivan1938年の映画化とする記述。執筆 Valerian Revutsky、紙版は1988年の第2巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - ОДЕСЬКИЙ НАЦІОНАЛЬНИЙ АКАДЕМІЧНИЙ ТЕАТР ОПЕРИ ТА БАЛЕТУオデーサでの1936年・1954年の上演。執筆 Ф. Самойлов、第7巻、2010年
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
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