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文化・歴史/解説

シーチが築かれてから壊されるまでの220年、日本は戦国から江戸へ

ドニプロ川にシーチが築かれた1552年ごろから、最後のシーチが破壊された1775年までの約220年を、同じ時期の日本と並べます。シーチは一つの場所ではなく八つありました。ペレヤスラウの合意は原本が残っていません。ポルタヴァの戦いには日付が二つあります。

ドニプロ川に浮かぶ岩の多い島と川面
ザポリッジャのドニプロ川にあるマラ・ホルティツャ島(2016年撮影)。IEUによれば、最初のシーチは1552年ごろこの島に築かれた 写真:Yedmitry/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0

Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行)の Zaporozhian Sich 項目によれば、最初のシーチは1552年ごろ、ドミトロ・ヴィシュネヴェツキー公によってドニプロ川のマラ・ホルティツャ島に築かれました。その三年前の1549年8月15日、フランシスコ・ザビエルらを乗せたポルトガル船が鹿児島の港に入っています(Encyclopaedia Britannica)。さらに6年さかのぼる1543年には、ポルトガル人が種子島に上陸し、鉄砲とサトウキビを初めて日本に伝えました(Britannica の Ōsumi Archipelago 項目)。

ザポリッジャのシーチは、一つの場所ではない

日本語の解説では「ザポリッジャのシーチ」が一つの拠点のように書かれることがありますが、IEU(執筆はアルカディー・ジュコウシキー。紙版は1993年刊行の第5巻が初出)は、シーチをドニプロ川沿いに置かれた複数のコサックの城塞の総称として説明し、八つを列挙しています。うち五つは川の氾濫原かその近くにありました。

同項目によれば、最初のシーチは1558年にクリミア・タタールに包囲されて破壊され、南へ60キロの島に築かれたトマキウカのシーチも1593年に同じく破壊されました。ミキティン・リーフのシーチは1628年に初めて記録に現れ、1648年にヘーチマンのボフダン・フメリニツキーがこれを押さえます。1652年に築かれたチョルトムリクのシーチは1709年5月25日にロシア軍によって破壊されました。コサックはその後もカミヤンカ、オレシキ、そして1734年の新シーチと拠点を移しています。

シーチは一か所に建てられて長く続いた拠点ではなく、壊されては場所を移して築き直された拠点の連なりでした。

1569年のルブリンと、1600年10月21日の関ヶ原

Britannica によれば、1569年のルブリン合同はポーランドとリトアニアを一つの国家に統合する協定でした。IEU の Kyiv 項目は、この合同の規定によってキーウとキーウ県がポーランドの統治下に入り、ポーランド・リトアニア共和国の一部になったと記しています。1471年から続いたリトアニア代官の統治はここで終わります。

IEU の Church Union of Berestia 項目(紙版は1984年刊行の第1巻が初出)によれば、1596年、ポーランドとリトアニアのルーシ(ウクライナ・ベラルーシ)の正教会が、教皇を教会の首長と認める合同を宣言しました。日本語ではブレスト合同とも呼ばれます。同年10月16日から20日にベレスチャで開かれた教会会議は、ローマとの合同に賛成する側と反対する側に割れ、二つの会議が並行して開かれています。

日本では、Britannica によれば1600年10月21日に関ヶ原の戦いが起き、豊臣秀吉の遺臣が徳川家康と衝突しました。同じ Britannica は江戸(徳川)時代を1603年から1867年までとしています。

1635年から1667年にかけて

Britannica の sakoku 項目は、江戸幕府が外部との関係を絞っていった過程を年ごとに整理しています。キリスト教は1614年に禁じられ、1624年にスペインが追放され、1635年に徳川家光が日本人の海外渡航と帰国を禁じました。1637年から38年の島原の乱ののち、すべての日本人が寺院への登録を求められ、1639年にポルトガル船の来航が禁じられて一連の命令が完成します。同項目は、オランダ人が長崎湾の出島に限って残されたこと、そしてこれを完全な孤立ではなく限られた接触の継続として説明しています。

長崎湾を鳥瞰した絵。湾内にオランダ船、左に扇形の出島
川原慶賀による長崎湾の図(1820年ごろ)。鎖国の命令のもとで、オランダ人は長崎湾の出島に限って残された 画像:川原慶賀/Wikimedia Commons(パブリックドメイン

同じころのウクライナ地域では、1648年にフメリニツキーの蜂起が始まりました。IEU の Pereiaslav Treaty of 1654 項目(執筆はオレクサンデル・オフロブリン。紙版は1993年刊行の第3巻が初出)によれば、交渉は1654年1月にペレヤスラウで始まり、4月にモスクワで結ばれました。条約は二つの文書から成り、ツァーリがザポリッジャ軍に与えた4月6日付の特許状と、軍事・政治・技術の細目を定めた11か条でした。

楕円の枠に描かれたボフダン・フメリニツキーの肖像
ボフダン・フメリニツキーの肖像(サミーロ・ヴェリチコの年代記より)。1648年に蜂起が始まり、同年フメリニツキーはミキティン・リーフのシーチを押さえた 画像:作者不明(サミーロ・ヴェリチコの年代記)/Wikimedia Commons(パブリックドメイン

この合意が統合だったのか同盟だったのか臣従だったのかは長く論じられてきましたが、IEU は議論の前提になる事実を先に書いています。原本は保存されておらず、残っているのは特許状の翻訳と草案だけです。同項目は、条約の形式と性格が不完全で、条文の一部は体系的に整理されておらず内容も曖昧だったとも述べています。

IEU の Andrusovo, Treaty of 項目(紙版は1984年刊行の第1巻が初出)によれば、1654年に始まったポーランドとモスクワ国家の戦争は、1667年1月13日にスモレンスク近郊のアンドルソヴォ村で調印された講和条約で終わりました。ドニプロ川の左岸はモスクワ国家の支配下に残り、右岸はポーランドへ移されます。キーウは2年間だけモスクワ側に残す取り決めでしたが、モスクワはそのまま手放しませんでした。ザポリッジャのシーチは両国の共同の保護下に置かれています。同項目は、これを「ウクライナの最初の分割」と呼んでいます。

1709年7月8日、あるいは6月27日

ポルタヴァの戦いについて、Britannica は日付を「1709年6月27日(新暦7月8日)」と書いています。当時のロシアはユリウス暦を使っており、同じ一日に二つの日付が付きます。IEU は同じ戦いを新暦の7月8日で書いています(Poltava, Battle of 項目)。同じ年の5月25日というチョルトムリクのシーチ破壊の日付がどちらの暦によるものかは、同事典は明記していません。

日本側の日付にも同じ問題があります。国立公文書館の年表によれば、日本が太陽暦を採用したのは明治5年(1872年)11月で、それ以前の日付は太陰太陽暦です。Britannica が関ヶ原の戦いを「1600年10月21日」と書くのは、日本の記録に残る日付そのものではなく、換算した結果です。

この記事の表では、日本側は関ヶ原の戦いとザビエルの鹿児島入港を除き、年だけを書いています。

自治の制度が消えるまで

IEU の Hetman state 項目(執筆はレウ・オキンシェヴィチとアルカディー・ジュコウシキー。紙版は1989年刊行の第2巻が初出)によれば、エカチェリーナ2世の治世(1762年から96年)にウクライナの自治は段階的に解体され、ヘーチマン職は1764年にロシア政府によって最終的に廃止され、その職務は小ロシア参議会に移されました。1782年には連隊が代官区に置き換えられています。

Zaporozhian Sich 項目によれば、最後の新シーチは1775年6月15日から16日にかけてロシア軍に破壊されました。ポルタヴァの戦いから66年後です。

その8年後の1783年、ロシア帝国はクリミア・ハン国を併合しました(Britannica の khanate of Crimea 項目、IEU の Crimea 項目)。IEU の Crimean Khanate 項目によれば、ハン国は15世紀後半からオスマン帝国の宗主権下にありましたが、1774年からはロシアの保護下に置かれていました。Crimea 項目は、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約でオスマン帝国がクリミアの独立を認めたことを、併合に至るロシアの外交上の成果として挙げています。

同じ18世紀の日本について、Britannica の sakoku 項目は、1716年に徳川吉宗のもとで西洋書の研究が再開され、蘭学が重要な学問分野になったこと、幕府自身がオランダ語文献を翻訳する機関を設けたことを記しています。

Britannica によれば、徳川吉宗は1716年に8代将軍となり、1745年まで在職しました。のちに享保の改革と呼ばれる施策を始めたのは吉宗です。同じ Britannica は、天明年間の1783年から87年に広い範囲で飢饉が起き、多くの人が餓死したこと、そして1787年から93年に松平定信が幕府の財政と規律の立て直しを図る一連の施策(寛政の改革)を進めたことを記しています。

同じ年月に並ぶ出来事

ウクライナ地域日本
1543年ポルトガル人が種子島に上陸し、鉄砲を伝える
1549年8月15日、ザビエルらを乗せたポルトガル船が鹿児島に入る
1552年ごろマラ・ホルティツャ島に最初のシーチ戦国時代
1569年ルブリン合同。キーウ県がポーランドの統治下に入る戦国時代
1596年ブレスト(ベレスチャ)の教会合同
1600年10月21日、関ヶ原の戦い
1603年江戸(徳川)時代が始まる
1635年徳川家光が日本人の海外渡航と帰国を禁じる
1637年から38年島原の乱
1639年ポルトガル船の来航禁止で一連の命令が完成
1648年フメリニツキーがミキティン・リーフのシーチを押さえる江戸時代
1654年1月にペレヤスラウで交渉開始、4月にモスクワで成立江戸時代
1667年1月13日、アンドルソヴォ条約。ドニプロ左岸はモスクワ国家、右岸はポーランドへ江戸時代
1709年5月25日にチョルトムリクのシーチ破壊、6月27日(新暦7月8日)にポルタヴァの戦い江戸時代
1716年徳川吉宗が8代将軍となる(享保の改革)。吉宗のもとで西洋書の研究が再開される
1764年ヘーチマン職が廃止される江戸時代
1775年6月15日から16日、新シーチが破壊される江戸時代
1782年連隊が代官区に置き換えられる江戸時代
1783年ロシア帝国がクリミア・ハン国を併合天明年間の飢饉(1783年から87年)
1787年松平定信の寛政の改革(1793年まで)
出典:ウクライナ地域は Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)の Zaporozhian Sich、Hetman state、Pereiaslav Treaty of 1654、Kyiv、Church Union of Berestia、Andrusovo, Treaty of、Crimea の各項目と Encyclopaedia Britannica の Union of Lublin、Battle of Poltava、khanate of Crimea。日本は Encyclopaedia Britannica の sakoku、Battle of Sekigahara、Tokugawa period、Saint Francis Xavier、Ōsumi Archipelago、Tokugawa Yoshimune、Temmei era、Kansei reforms。2026年9月23日に確認。ウクライナ地域の月日は IEU と Britannica の記載どおりで換算していない(ポルタヴァは Britannica の旧暦・新暦を併記)、日本の年は元号年からの西暦換算で、1600年10月21日は Britannica による換算値。「—」はこの記事で確認した資料に該当する記述がないもの。

並べただけでは言えないこと

この記事は、同じ時期に別々の場所で起きた出来事を年で並べたものです。ここで使った資料には、両者の間の接触や影響を示す記述はありません。

出典・参考資料

  1. Zaporozhian Sich(紙版は1993年刊行の第5巻が初出。執筆:Arkadii Zhukovsky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS) 確認日:2026-09-23
  2. Hetman state(紙版は1989年刊行の第2巻が初出。執筆:Lev Okinshevych, Arkadii Zhukovsky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  3. Pereiaslav Treaty of 1654(紙版は1993年刊行の第3巻が初出。執筆:Oleksander Ohloblyn)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  4. Kyiv(2017年更新)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  5. Battle of Poltava
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  6. Union of Lublin
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  7. sakoku
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  8. Battle of Sekigahara
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  9. Tokugawa period
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  10. Saint Francis Xavier
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  11. Shimabara Rebellion
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  12. 年表/日本のあゆみ
    発行:国立公文書館 確認日:2026-09-23
  13. Poltava, Battle of(2008年更新。執筆:Theodore Mackiw)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  14. Church Union of Berestia(紙版は1984年刊行の第1巻が初出。執筆:Atanasii Velyky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  15. Andrusovo, Treaty of(紙版は1984年刊行の第1巻が初出)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  16. Crimea(2022年更新)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  17. Crimean Khanate
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  18. khanate of Crimea
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  19. Ōsumi Archipelago
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  20. Tokugawa Yoshimune
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  21. Kyōhō reforms
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  22. Temmei era
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  23. Kansei reforms
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23

訂正・更新の記録

  • 1543年の鉄砲伝来、1596年のブレスト合同、1667年のアンドルソヴォ条約、1783年のクリミア・ハン国併合、享保・寛政の改革と天明の飢饉についての記述を追加しました。

記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。