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ウクライナの人・文化・社会・未来を、日本と世界につなぐ

Ukrainavi Ukrainavi

文化・歴史/解説

ソ連の共和国だった七十年と、その間の日本

ウクライナがソ連の一共和国だった時期のうち、1932年の飢饉から1991年の独立までを、同じ年月の日本と並べます。390万人、33,771人、約20万人という数字が、それぞれ誰によってどう数えられたものかを添えています。

チョルノービリ原子力発電所の敷地を横に見渡したパノラマ。左に建設途中の新しい閉じ込め構造物、中央付近に4号機
チョルノービリ原子力発電所(2013年6月撮影)。1986年4月26日に事故が起きた 写真:Ingmar Runge/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0

1932年から33年にかけてウクライナで起きた飢饉(ホロドモール)について、2015年に査読誌 Canadian Studies in Population に載った人口学の論文(著者5名のうち4名はキーウのプトゥーハ人口・社会研究所の所属)は、1932年から34年のウクライナでの超過死亡を390万人、出生の喪失を60万人と推計しています。数えているのは当時のソヴィエト・ウクライナの領域の住民全体で、民族別の数ではありません。同じ論文は、人口学的な推計には260万人から500万人までの幅があるとも書いており、確定値ではありません。同じ1932年から33年、日本では国立公文書館の年表によれば1933年3月に国際連盟からの脱退が通告されています。

題の「七十年」は、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国がソ連の構成共和国だった期間です。Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行。以下 IEU)の Ukrainian Soviet Socialist Republic 項目(紙版は1993年刊行の第5巻が初出)によれば、この共和国は1922年12月30日にソ連に加わり、1991年8月24日、共和国の最高会議がウクライナの独立を宣言したときに消滅しました。

数字には、誰が数えたかが付いている

この記事で扱う期間には、桁の大きな数字がいくつも出てきます。そのたびに、誰がどうやって数えたのかを書く必要があります。

キーウ郊外のバビン・ヤールについて、米国ホロコースト記念博物館(USHMM)は、1941年9月29日から30日にかけて起きたことを、ドイツ占領下ヨーロッパで最大規模の銃殺の一つと説明しています。よく引かれる33,771人という数字について、同館は「ベルリンのアインザッツグルッペン本部へ送られた報告によれば」と明記しています。加害側が自ら本部へ報告した数であって、独立に検証された集計ではありません。同館は、その後も1943年にソ連軍がキーウを奪還する直前まで、この場所でユダヤ人のほかロマなどの殺害が続いたと記しています。

燭台メノーラーをかたどった金属製の記念碑
キーウのバビン・ヤールにある記念碑「メノーラー」(2020年撮影)。USHMMは、1941年9月29日から30日にかけてここで起きたことを、ドイツ占領下ヨーロッパで最大規模の銃殺の一つとしている 写真:Dmitri Semenovsky/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0

クリミア・タタール人の強制移住について、Britannica は、スターリンが約20万人のクリミア・タタール人を対独協力の廉で告発し、ウズベキスタンとカザフスタンへ集団移送したこと、移住先ではタタール語の使用が禁じられたこと、1956年のフルシチョフの脱スターリン化で市民権は回復したがクリミアへの帰還は許されなかったことを記しています。多くが実際に戻れるようになったのは1990年代初頭でした。

1954年のクリミアと、そのときの日本

Britannica の Crimean Tatar 項目によれば、クリミアがウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に編入されたのは1954年です。

同じ1954年前後の日本について、国立公文書館の年表は、1951年9月にサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が調印されたこと、1956年10月に日ソ共同宣言が調印されて国交が正常化したことを記録しています。

国際連合が公開している加盟国の推移の一覧によれば、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国は、1945年の原加盟51か国に、ソ連とは別に記載されています。日本の加盟は1956年で、国立公文書館の年表では同年12月です。

戦後の日本の年表

国立公文書館の年表によれば、1945年3月に東京大空襲、8月に広島・長崎への原子爆弾投下とポツダム宣言の受諾、9月に降伏文書への調印、12月に衆議院議員選挙法が改正されて女性の参政権が認められました。1946年11月に日本国憲法が公布され、1947年4月に労働基準法・独占禁止法・地方自治法が制定され、5月に第1回国会が開かれています。

1964年は4月に経済協力開発機構(OECD)へ加盟し、10月に東海道新幹線が開通した年です。1972年5月に沖縄が返還されました。

経済企画庁の『昭和44年 年次経済報告』は、1968年の日本の国民総生産を1,419億ドル(速報)とし、西ドイツを抜いてアメリカに次ぐ自由世界第2位になったと書いています。同じ報告は、1968年の1人当たり国民所得(1,110ドル)ではなお20位前後だったことも記しています。

1986年4月26日

IEU の Chornobyl 項目(2017年更新)によれば、1986年の時点でチョルノービリ市の人口は12,500人、キーウ州の地区中心でした。1986年4月26日のチョルノービリ原発事故のあと、住民の大半が避難し、市はゴーストタウンになったと同項目は記しています。Britannica も事故の発生を1986年4月26日としています。

1990年7月16日から1991年12月1日へ

Britannica によれば、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の立法機関は1990年7月16日に主権を宣言し、1991年8月24日に独立を宣言しました。これは1991年12月1日の国民投票で承認されています。同年12月のソ連解体によってウクライナは完全な独立を得ました。

外務省の「ウクライナ基礎データ」によれば、日本がウクライナを国家承認したのは1991年12月28日、外交関係を開設したのは翌1992年1月26日です。

Britannica は同時に、完全に独立したウクライナが生まれたのは20世紀の終わりになってからであり、それ以前は長くポーランド・リトアニア、ロシア、ソ連の支配が続いたこと、1918年から20年に短い独立の時期があったこと、両大戦間期には西部の一部がポーランド、ルーマニア、チェコスロヴァキアの統治下にあったことを記しています。

同じ年月に並ぶ出来事

ウクライナ日本
1922年12月30日、ソ連に加わる
1932年から33年飢饉(ホロドモール)。1932年から34年のウクライナの超過死亡を390万人とする人口学の推計がある(民族別の数ではない)1933年3月、国際連盟からの脱退を通告
1937年7月、盧溝橋事件
1941年9月29日から30日、バビン・ヤールでの銃殺
1944年約20万人のクリミア・タタール人がウズベキスタンとカザフスタンへ強制移送される
1945年国際連合の原加盟国となる3月に東京大空襲、8月に原爆投下とポツダム宣言受諾、9月に降伏文書調印、12月に女性参政権
1946年11月、日本国憲法公布
1947年4月に労働基準法・独占禁止法・地方自治法、5月に第1回国会
1951年9月、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約の調印
1954年クリミアがウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国へ編入される
1956年クリミア・タタール人の市民権が回復される(帰還は許されず)10月、日ソ共同宣言の調印/12月、国際連合に加盟
1964年4月にOECD加盟、10月に東海道新幹線開通
1968年国民総生産がアメリカに次ぐ自由世界第2位に(経済企画庁、速報値)
1972年5月、沖縄返還
1986年4月26日、チョルノービリ原発事故
1990年7月16日、主権宣言
1991年8月24日に独立宣言、12月1日の国民投票で承認12月28日、ウクライナを国家承認
出典:ウクライナは Encyclopaedia Britannica の Holodomor、Crimean Tatar、Ukraine 各項目、米国ホロコースト記念博物館「Kyiv and Babyn Yar」、Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)Chornobyl、Crimean Tatars、Ukrainian Soviet Socialist Republic 各項目。日本は国立公文書館「年表/日本のあゆみ」、経済企画庁『昭和44年 年次経済報告』、外務省「ウクライナ基礎データ」。国際連合への加盟は国際連合「Growth in United Nations membership」。2026年9月23日に確認。「—」はこの記事で確認した資料に該当する記述がないもの。

並べただけでは言えないこと

この表の日本側は国立公文書館の年表から、ウクライナ側は Britannica、米国ホロコースト記念博物館、IEU の項目から取っています。日本側に条約・法律・制度の項目が多く、ウクライナ側に飢饉・銃殺・強制移住・原発事故が多く並ぶのは、この記事がそれぞれの側で選んだ資料と項目の違いでもあります。表から二つの社会の違いを読み取ることはできません。空欄は、その年にその地域で何も起きなかったという意味ではありません。

出典・参考資料

  1. Holodomor
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  2. Crimean Tatar
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  3. Ukraine
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  4. Kyiv and Babyn Yar(Holocaust Encyclopedia)
    発行:United States Holocaust Memorial Museum 確認日:2026-09-23
  5. Chornobyl(2017年更新)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS) 確認日:2026-09-23
  6. Chernobyl disaster
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  7. 年表/日本のあゆみ
    発行:国立公文書館 確認日:2026-09-23
  8. Crimean Tatars(2014年更新)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  9. Ukrainian Soviet Socialist Republic(紙版は1993年刊行の第5巻が初出。執筆:Vasyl Markus, Ihor Stebelsky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  10. Growth in United Nations membership
    発行:国際連合 確認日:2026-09-23
  11. 昭和44年 年次経済報告 第2部1(1)「高度成長の定着と国際的地位の向上」
    発行:経済企画庁(内閣府ウェブサイト掲載) 確認日:2026-09-23
  12. 昭和44年 年次経済報告 第2部1(2)「“2位と20位”の意味」
    発行:経済企画庁(内閣府ウェブサイト掲載) 確認日:2026-09-23
  13. ウクライナ基礎データ
    発行:外務省 確認日:2026-09-23
  14. Rudnytskyi, O., Levchuk, N., Wolowyna, O., Shevchuk, P., Kovbasiuk (Savchuk), A.「Demography of a man-made human catastrophe: The case of massive famine in Ukraine 1932-1933」Canadian Studies in Population 42(1-2), 53-80, 2015(総損失450万人=超過死亡390万人+出生喪失60万人、直接損失の90%が1933年、他の人口学的推計が260万〜500万人の幅にあること、Vallin et al. 2002 の260万人・110万人という数字を、PDF全文を取得して確認。著者5名のうち4名はウクライナ国立科学アカデミー・プトゥーハ人口社会研究所、1名はノースカロライナ大学チャペルヒル校)
    発行:University of Alberta Libraries(誌の発行元) 確認日:2026-09-23

訂正・更新の記録

  • 1922年のソ連加入、1945年の国際連合原加盟と1956年の日本の加盟、1968年の日本の国民総生産、1991年12月28日の日本による国家承認についての記述を追加しました。
  • ホロドモールの推計390万人を「ウクライナ人」の数として書いていた箇所を訂正しました。推計のもとになった2015年の論文では、当時のソヴィエト・ウクライナの領域の住民全体の超過死亡で、民族別の数ではありません。

記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。