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文化・歴史/解説

平安京から応仁の乱まで、キーウでは何が起きていたか

794年の平安京遷都から1477年に応仁の乱が終わるまで、同じ年月にキーウとその周辺で何が起きていたかを並べます。キーウ・ルーシの始まりとされる882年は、出来事から二百数十年あとに編まれた年代記に依る年号です。日本史の時代区分も、資料によって始まりの年が違います。

『源氏物語絵巻』の一場面。室内の貴族の男女を斜め上から描く
『源氏物語絵巻』「宿木」の一場面(12世紀)。紫式部の『源氏物語』は11世紀の作品 画像:作者不明(12世紀の宮廷絵師)/Wikimedia Commons(パブリックドメイン

Encyclopaedia Britannica の Heian period 項目によれば、日本の都が奈良から平安京(京都)へ移ったのは794年で、平安時代はそこから1185年までを指します。同じ Britannica の Kyivan Rus 項目によれば、ノヴゴロドの支配者だったオレフが882年にスモレンシクとキーウを奪い、ドニプロ川に面した立地からキーウがキーウ・ルーシの首都になりました。平安京ができた88年後にあたります。

882年という年号の出どころ

Britannica は、この882年を『原初年代記』に示された伝統的な説明として紹介しています。同項目はあわせて、キーウ国家の起源も「ルーシ」という名の由来も歴史家の間で議論が続いていると明記し、その『原初年代記』は12世紀にキーウで編まれたものだとしています。882年は、出来事から二百数十年あとに書かれた記録に基づく年号です。

年代記はオレフについて、地域のスラヴ系とフィン系の集団を統合し、ハザールを破り、911年にコンスタンティノープルと通商協定を結んだと伝えています(Britannica)。

988年の受洗のころ、平安京では

Britannica によれば、キーウのキリスト教受容は988年で、ビザンツ皇帝バシレイオス2世が軍事支援とキリスト教の採用と引き換えに妹を嫁がせるという取り決めから生まれたものでした。

同じころの平安京について、Britannica の Heian period 項目は、9世紀半ばから藤原氏が娘を皇位継承者に嫁がせる形で宮廷を支配し、その影響力は995年から1027年に宮廷を主導した藤原道長のもとで頂点に達したと記しています。988年はその少し手前です。紫式部の『源氏物語』は11世紀の作品で、貴族社会の記録として読まれてきました(同項目)。

1240年12月のキーウと、1274年・1281年の日本

モンゴルの軍勢がこの地域に初めて現れたのは、キーウが略奪される17年前です。Encyclopaedia Britannica の Battle of the Kalka River 項目によれば、1223年5月31日、ジェベとスブタイの率いる軍が、ルーシの諸公とクマン人の連合軍をカルカ川のほとりで破りました。同項目は、カルカ川をアゾフ海に注ぐ現在のウクライナ南東部のカルチク川とみています。Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行。以下 IEU)の Kalka River 項目(紙版は1989年刊行の第2巻が初出)も、1223年に三日間の戦いののちキーウ・ルーシの軍が敗走したと書いています。同じ IEU の Batu Khan 項目によれば、バトゥは1237年にルーシへ侵入し、1239年にペレヤスラウとチェルニーヒウを、1240年にキーウを略奪しました。

IEU の Kyiv 項目(2017年更新)は、1240年12月にバトゥ・ハンのモンゴル・タタール軍がキーウを略奪し、人口を激減させたと記しています。同項目によれば、13世紀後半のキーウは金帳汗国の従属公のもとで一度立ち直り、1362年から63年にリトアニア大公アルギルダスがキーウ地方を自らの版図へ組み入れました。

Britannica の Kamakura period 項目は、モンゴルによる二度の遠征(1274年と1281年)が退けられたこと、そしてその防衛にかかった財政負担が鎌倉幕府の内部的な弱さを悪化させたことを記しています。同項目はそのまま1331年の後醍醐天皇の挙兵と、1333年の幕府崩壊まで続けて書いています。

どちらもモンゴルの軍勢による出来事ですが、経過は別々です。キーウは略奪されたのち金帳汗国の従属公のもとに置かれ、日本は二度の遠征を退けて、その防衛の費用を負いました。二つの地域の間に連絡があったことを示す記述は、ここで使った資料にはありません。

応仁の乱の十年と、リトアニア統治下のキーウ

Britannica によれば、応仁の乱は1467年に始まり1477年まで続き、戦場の多くは京都の市中でした。同項目は、この戦いが足利幕府の力を実質的に断ち、おおむね1467年から1600年までの戦国時代につながったとしています。

IEU の Kyiv 項目によれば、アルギルダスの子孫は1470年までキーウを治め、1471年から1569年まではリトアニアの代官が統治し、1471年にキーウはキーウ県(voivodeship)の中心になりました。1494年から97年にかけて市全体がマクデブルク法の適用を受けています。一方で1482年には、モスクワ大公イヴァン3世と同盟していたクリミア・ハンのメングリ・ギレイがキーウを略奪し、聖ソフィア大聖堂から持ち去った聖杯などをモスクワへ送りました。同項目は、上町がその後百年以上にわたって荒廃したままだったと書いています。

緑の屋根と金色のドームが並ぶキーウの聖ソフィア大聖堂
キーウの聖ソフィア大聖堂(2019年撮影)。IEUによれば、1482年にキーウを略奪したメングリ・ギレイは、この大聖堂から聖杯などを持ち去った 写真:Maksym Kozlenko/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0

キーウを襲ったクリミア・ハン国は、成立して数十年の国でした。成立の年は資料によって異なり、Britannica の khanate of Crimea 項目は1443年、IEU の Crimea 項目(2022年更新)は1449年としています。オスマン帝国の宗主権を認めた年も、Britannica は1475年、IEU は1478年と書いていて一致しません。どちらの年も、応仁の乱が終わった1477年の前後にあたります。

時代の区切りは、資料によって違う

日本史の時代区分は、資料によって始まりの年が違います。

時代日本芸術文化振興会「日本博」コロンビア大学 Asia for EducatorsEncyclopaedia Britannica
縄文前13,000年ごろから前4000年ごろから記載なし
弥生前900年ごろから前300年ごろから記載なし
奈良710年ごろから710年から814年710年から784年
平安794年ごろから794年から1185年794年から1185年
鎌倉1190年ごろから1185年から1333年1192年から1333年
室町1333年ごろから1336年から1573年1338年から1573年
出典:日本芸術文化振興会「日本博」A Timeline of Japanese History、コロンビア大学 Asia for Educators「Japan: Timeline of Historical Periods」、Encyclopaedia Britannica の各項目。いずれも2026年9月23日に確認。「から」で止めているものは、その資料が終期を示していないもの。

鎌倉時代の始まりが1185年か1190年ごろか1192年かは、何をもって始まりとするかの違いです。Britannica は、1185年の壇ノ浦の戦いのあと源頼朝が独自の軍事行政(幕府)を作り、1192年に将軍の位を与えられて権威が公認されたと書き分けたうえで、時代区分としては1192年を採っています。Asia for Educators は1185年を採っています。

西暦何年に何があった、という形に整えると、この違いは見えなくなります。別の地域の歴史と突き合わせるときに、片方の区分がもう片方より確かだと思い込まないほうが安全です。

同じ年月に並ぶ出来事

ウクライナ地域日本
882年オレフがキーウを支配下に置く(『原初年代記』による)平安京遷都(794年)から88年目
988年キーウでキリスト教を受容藤原道長が宮廷を主導する時期(995年から1027年)の直前
1223年5月31日カルカ川の戦いで、ルーシの諸公とクマン人の連合軍がモンゴルの軍に敗れる鎌倉時代
1240年12月バトゥ・ハンの軍がキーウを略奪鎌倉時代(Britannica は1192年から1333年とする)
1274年・1281年金帳汗国への従属が続くモンゴルの二度の遠征を退ける
1362年から63年リトアニア大公アルギルダスがキーウ地方を併合室町幕府の時期
1467年から77年リトアニア代官の統治下。1471年からキーウ県の中心応仁の乱
1475年または1478年クリミア・ハン国がオスマン帝国の宗主権下に入る(年は Britannica と IEU で異なる)応仁の乱の終わる前後
1482年クリミア・ハンのメングリ・ギレイがキーウを略奪戦国時代の初期
出典:ウクライナ地域は Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)の Kyiv、Kalka River、Crimea 各項目と Encyclopaedia Britannica の Kyivan Rus、Battle of the Kalka River、khanate of Crimea 各項目、日本は Encyclopaedia Britannica の各項目。2026年9月23日に確認。年はいずれも西暦。

並べただけでは言えないこと

この記事は、同じ年月に別々の場所で起きた出来事を並べたものです。並んでいることは、影響し合っていたことを意味しません。モンゴル帝国の拡大のように一つの動きが両方に届いた例はありますが、その場合でも、結果はそれぞれの地域で別々に記録されています。

出典・参考資料

  1. Heian period
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  2. Kamakura period
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  3. Muromachi period
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  4. Onin War
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  5. Kyivan Rus
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  6. Kyiv(2017年更新)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS) 確認日:2026-09-23
  7. A Timeline of Japanese History(文:Mari Hashimoto)
    発行:日本芸術文化振興会「日本博」 確認日:2026-09-23
  8. Japan: Timeline of Historical Periods
    発行:Columbia University Asia for Educators 確認日:2026-09-23
  9. Battle of the Kalka River
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  10. khanate of Crimea
    発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-23
  11. Kalka River(紙版は1989年刊行の第2巻が初出)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  12. Batu Khan
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  13. Crimea(2022年更新)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23

訂正・更新の記録

  • 1223年のカルカ川の戦いと1237年からのバトゥの侵入、クリミア・ハン国の成立とオスマン帝国の宗主権についての記述を追加しました。

記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。