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ウクライナの人・文化・社会・未来を、日本と世界につなぐ

Ukrainavi Ukrainavi

文化・歴史/解説

ロシア帝国でウクライナ語の出版が禁じられた翌年、日本では東京大学が開かれた

1876年のエムス法令は、ロシア帝国の中でウクライナ語の本の印刷を禁じました。翌1877年の4月、日本では東京大学が開設されています。禁じられる前に出ていた『エネイーダ』(1798年)と『コブザール』(1840年)から書き起こし、ペリー来航から1919年までを、二つの国の暦の違いに注意しながら並べます。

古い本の見開き。左ページにコブザを弾く老人と少年の版画、右ページに詩の冒頭
1840年刊の『コブザール』初版の見開き。左はヴァシーリー・シテルンベルクの版画。この詩集はサンクトペテルブルクで刊行された 画像:ヴァシーリー・シテルンベルク(Vasily Sternberg)/Wikimedia Commons(パブリックドメイン

Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行)の Ems Ukase 項目は、エムス法令の結果、1877年にはウクライナ語の本が一冊も印刷されなかったと書いています。同じ事典の Book publishing 項目は、ロシア支配下のウクライナで1875年に30点あったウクライナ語の本が、1877年には2点に落ちたとしています。オーストリア領のガリツィアでは、1875年の時点で、ロシア支配下のウクライナより多くのウクライナ語の本が出ていました(同項目)。同じ1877年の4月、日本では東京大学が開設されています(国立公文書館「日本のあゆみ」年表)。

二つの帝国に分けられたあと、禁じられる前に

その前に、土地の帰属が変わっています。1772年、1793年、1795年の三度のポーランド分割です。IEU の Poland 項目は、この分割でロシアがポーランド領だったウクライナの土地の大部分を得て、ガリツィアはオーストリア帝国に併合されたと書いています。Galicia 項目によれば、ガリツィアがオーストリア領になったのは1772年の第一次分割で、その支配は1918年まで続きました。Podilia 項目は、ポディリャの西部が1772年にオーストリアへ、東部が1793年の第二次分割でロシアへ移ったとしています。この記事の後半に出てくる「オーストリア領のガリツィア」は、この第一次分割に始まります。

印刷が止められる前に、ウクライナ語の文学はすでに本の形で出ていました。IEU の Kotliarevsky, Ivan 項目によれば、イヴァン・コトリャレウシキーはウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』を戯作に書き換えた『エネイーダ』を1794年に書き始め、その最初の3部が1798年にサンクトペテルブルクで刊行されました。刊行の費用を出したのはマクシム・パルプラです。第4部は1809年に出ました。第5部と第6部は1820年ごろに書き上げられましたが、全6部がそろった最初の版が出たのは作者の死後、1842年のハルキウでした。

「Малороссийская Енеида」と印刷された古い本の扉
コトリャレウシキー『エネイーダ』初版の扉(1798年、サンクトペテルブルク)。最初の3部はこの年に刊行された 画像:イヴァン・コトリャレウシキー『エネイーダ』初版(1798年)より/Wikimedia Commons(パブリックドメイン

IEU の Shevchenko, Taras 項目によれば、タラス・シェウチェンコは1838年5月5日に身柄を買い取られて自由になり、サンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーに入りました。1840年、最初の詩集『コブザール』が同じサンクトペテルブルクで刊行されます。8編の詩を収めた本でした。同項目は、この詩集をウクライナ文学と近代ウクライナ語の発展にとって新しい時代の始まりと位置づけています。

同じ Book publishing 項目は、ロシア支配下のウクライナで出たウクライナ語の本を、1848年に3点、1862年に41点と数えています。そのあと1863年にヴァルーエフ通達が出され、1865年と1870年には5点に落ちたとしています。

秘密の勅令で、印刷が止まる

IEU によれば、エムス法令は1876年5月30日、ロシア皇帝アレクサンドル2世がドイツの保養地エムスで出した秘密の勅令で、ロシア帝国内でのウクライナ語出版物の印刷と配布を止めることを狙ったものでした。これは内務大臣ピョートル・ヴァルーエフが1863年に出した通達の延長線上にあります。通達の日付は、同じ IEU でも Ems Ukase 項目が6月20日、Petr Valuev 項目が7月30日としていて一致しません。

同項目によれば、法令はウクライナ語による創作と翻訳の印刷を禁じ、歴史文書は元の正書法で印刷できるが文芸作品はロシア語正書法でしか出せないとしました。国外からのウクライナ語出版物の持ち込み、ウクライナ語による演劇と公開朗読、楽曲へのウクライナ語の歌詞を印刷することも禁じられ、許される原稿もすべて事前検閲を受けることになりました。

IEU はさらに、この法令が通常の立法過程を回避して出され、国家評議会にも閣僚評議会にもかけられず、正式に撤回されることもなかったと記しています。同じ時期にキーウの帝国ロシア地理協会南西支部とロシア語新聞『キエフスキー・テレグラフ』(Kievskii telegraf。当時のロシア語表記による紙名)が閉鎖され、ミハイロ・ドラホマノウら数名の教授がキーウ大学から追放されました。

同じころ、日本の年表は日付を二つ持っていた

国立国会図書館「史料にみる日本の近代」の年表は、明治より前の出来事に日付を二つ並べています。嘉永6年の6月3日(7月8日)にペリー率いる米国東インド艦隊が浦賀に来航、嘉永7年の3月3日(3月31日)に日米和親条約調印、安政5年の6月19日(7月29日)に日米修好通商条約調印、慶応3年の10月14日(11月9日)に徳川慶喜が大政奉還を上表、という具合です。

括弧の外が太陰太陽暦、中が西暦です。国立公文書館の年表によれば、日本が太陽暦を採用したのは明治5年(1872年)11月でした。それ以前の日付を西暦で書くときは、必ず換算が入っています。

ロシア帝国の暦も西欧とは違いました。IEU の Calendar 項目によれば、ウクライナで民間の暦がグレゴリオ暦に切り替わったのは1918年、中央ラーダによってです。ただし IEU は、エムス法令の1876年5月30日を含め、個々の日付がどちらの暦によるものかを明記していません。二つの国の年表を並べるとき、日付の桁が揃って見えても、同じ物差しで測られているとは限りません。

ペリーが浦賀に来た1853年、黒海の側ではクリミア戦争が始まっていました。IEU の Crimean War 項目(紙版は1984年刊行の第1巻が初出)によれば、ロシアは1853年6月にモルダヴィアとワラキアを占領し、翌1854年9月には英仏などの連合軍がクリミアに上陸して、1855年9月2日にセヴァストポリが陥落しました。戦争は1856年3月30日のパリ講和条約で終わります。同項目は、ウクライナが後方であると同時に一部は戦場にもなり、経済に大きな損害を受けたと書いています。ロシア帝国で農奴が解放されたのは、その5年後の1861年2月19日です(IEU の Serfdom 項目)。

1868年から1890年の日本

国立公文書館の年表によれば、1868年1月に鳥羽・伏見の戦いが起き、3月に五箇条の御誓文が出されました。1872年8月に学制が公布され、同年11月に太陽暦が採用されます。1877年1月に西南の役、4月に東京大学の開設。

国立国会図書館の年表によれば、1889年2月11日に大日本帝国憲法が公布され、1890年7月1日に第1回衆議院総選挙、11月29日に第1回帝国議会の開院式が行われました。

戦争の年と、その先

国立公文書館の年表によれば、1894年8月に日清戦争が始まり(宣戦ノ詔勅)、1895年4月に下関条約が結ばれました。1904年2月に日露戦争が始まり、1905年9月にポーツマス条約。1910年8月に韓国併合条約が結ばれています。1914年8月に日本はドイツへ宣戦布告し、1915年1月に対華21か条要求を行いました。

日露戦争のさなかの1905年1月、ロシア帝国では革命が始まりました。IEU の Revolution of 1905 項目(紙版は1993年刊行の第4巻が初出)によれば、4月半ばまでに帝国全体で約81万人の労働者がストライキに入り、そのうち17万人がウクライナでした。同年3月には、サンクトペテルブルクの科学アカデミーが、ウクライナ語はロシア語の方言ではなく独立したスラヴ語だとして、ヴァルーエフ通達とエムス法令による制限の撤廃を勧めています。10月30日の皇帝の詔書のあと、ハルキウ、キーウ、ポルタヴァ、オデーサなどでウクライナ語の新聞や雑誌が出始め、1906年には18の定期刊行物が出ました。同項目は、1906年末から当局の干渉でウクライナ語の出版がふたたび大きく制限されたとも書いています。

日本とウクライナの人の行き来について、IEU の Japan 項目(紙版は1988年刊行の第2巻が初出)は、両者の関係を20世紀に始まったものとし、最初の接触を日露戦争の時期に置いています。かつてキーウ大学の医学生だったM・スジロウシキーがハワイから日本へ渡り、捕虜となったロシア帝国軍の将兵(同項目によれば多くがウクライナ人)の救援を組織しました。1916年には、コスチャンティン・カルメリューク=カメンシキーの劇団が東京、神戸、横浜、鎌倉で公演しています。1917年7月初めには在ペトログラードの日本大使館の館員がキーウの中央ラーダを訪れ、11月には日本がキーウに軍事使節団を置きました。

1917年3月17日、キーウ

IEU の Central Rada 項目(執筆はアルカディー・ジュコウシキー。紙版は1984年刊行の第1巻が初出)によれば、中央ラーダは1917年3月17日にキーウで、ウクライナ進歩主義者協会の発意により他の政党も加わって設立されました。ミハイロ・フルシェウシキーが不在のまま議長に選ばれています。同年4月17日から21日の全ウクライナ国民大会のあと、ラーダは政党・職能団体・文化団体・県代表から選ばれた150名で構成され、フルシェウシキーが議長、セルヒー・イェフレモウとヴォロディーミル・ヴィンニチェンコが副議長となりました。

キーウ市街の丸屋根を持つ石造りの建物
キーウの教育博物館の建物(2021年撮影)。Commonsの説明では、中央ラーダがここで活動した。中央ラーダは1917年3月17日にキーウで設立された 写真:Akva 1984/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0

同項目は、ラーダが四つのウニヴェルサール(布告)によってウクライナを自治から独立へ導いたとし、第四ウニヴェルサールがウクライナ人民共和国を独立した主権国家と宣言したと記しています。同じ IEU の Universals of the Central Rada 項目によれば、この布告は1月22日の日付で出されましたが、実際に小ラーダで採択されたのは1月25日でした。

日本では、国立公文書館の年表によれば1918年8月にシベリア出兵が宣言され、同じ月に米騒動が全国へ広がり、9月に原敬内閣が成立しました。1919年6月にベルサイユ条約が調印されています。

同じ年月に並ぶ出来事

ウクライナ地域・ロシア帝国日本
1853年クリミア戦争が始まる(1856年3月のパリ講和条約まで)6月3日(7月8日)、ペリーが浦賀に来航
1861年2月19日、農奴解放
1863年ヴァルーエフ通達
1867年10月14日(11月9日)、大政奉還の上表
1868年1月、鳥羽・伏見の戦い/3月、五箇条の御誓文
1872年8月、学制公布/11月、太陽暦採用
1876年5月30日、エムス法令
1877年ウクライナ語の本の点数は、IEU の項目により0点と2点に分かれる1月、西南の役/4月、東京大学開設
1889年2月11日、大日本帝国憲法公布
1890年7月1日、第1回衆議院総選挙/11月29日、第1回帝国議会開院式
1894年から95年8月に日清戦争開戦、翌年4月に下関条約
1904年から05年1905年1月、ロシア帝国で革命が始まる/10月30日、皇帝の詔書2月に日露戦争開戦、翌年9月にポーツマス条約
1910年8月、韓国併合条約
1914年8月、ドイツへ宣戦布告
1916年カルメリューク=カメンシキーの劇団が東京・神戸・横浜・鎌倉で公演
1917年3月17日、キーウで中央ラーダ設立/4月17日から21日、全ウクライナ国民大会7月初め、在ペトログラード日本大使館の館員が中央ラーダを訪問/11月、キーウに軍事使節団を置く
1918年第四ウニヴェルサールで独立を宣言(1月22日付、採択は25日)8月、シベリア出兵宣言と米騒動/9月、原敬内閣成立
1919年6月、ベルサイユ条約調印
出典:ウクライナ地域・ロシア帝国は Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)の Ems Ukase、Book publishing、Central Rada、Crimean War、Serfdom、Revolution of 1905 各項目。1916年と1917年の日本とウクライナの接点は同事典の Japan 項目。日本は国立公文書館「年表/日本のあゆみ」と国立国会図書館「史料にみる日本の近代」の年表。2026年9月23日に確認。ロシア帝国・ウクライナ側の月日は IEU の記載どおりで換算していない。日本側は1872年11月より前が太陰太陽暦(括弧内が西暦)。「—」はこの記事で確認した資料に該当する記述がないもの。

並べただけでは言えないこと

この記事の表には「—」が多く並びます。片方の資料にしか書かれていない年だからです。空欄は、その年にその地域で何も起きなかったという意味ではありません。

出典・参考資料

  1. Ems Ukase
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS) 確認日:2026-09-23
  2. Book publishing(紙版は1984年刊行の第1巻が初出。執筆:Bohdan Kravtsiv, Andrew Turchyn)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  3. Valuev, Petr(紙版は1993年刊行の第5巻が初出。執筆:Roman Senkus)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  4. Calendar(紙版は1984年刊行の第1巻が初出。執筆:Viktor Pavlovsky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  5. Central Rada(紙版は1984年刊行の第1巻が初出。執筆:Arkadii Zhukovsky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  6. Universals of the Central Rada(紙版は1993年刊行の第5巻が初出。執筆:Arkadii Zhukovsky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  7. 年表/日本のあゆみ
    発行:国立公文書館 確認日:2026-09-23
  8. 年表(史料にみる日本の近代)
    発行:国立国会図書館 確認日:2026-09-23
  9. Kotliarevsky, Ivan(紙版は1988年刊行の第2巻が初出。執筆:Pavlo Petrenko)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  10. Shevchenko, Taras(2004年改訂。執筆:Myroslav Antokhii, Daria Darewych, Marko Robert Stech, Danylo Husar Struk)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  11. Poland(紙版は1993年刊行の第4巻が初出。執筆:B. Kravtsiv, V. Kubijovyč, O. Ohloblyn, I. Lysiak Rudnytsky, M. Zhdan)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  12. Galicia(2014年改訂。執筆:Volodymyr Kubijovyč, Yaroslav Pasternak, Illia Vytanovych, Arkadii Zhukovsky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  13. Podilia(紙版は1993年刊行の第4巻が初出、2020年に一部改訂。執筆:Volodymyr Kubijovyč, Ihor Stebelsky, Mykhailo Zhdan)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  14. Crimean War(紙版は1984年刊行の第1巻が初出。執筆:Lubomyr Wynar)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  15. Serfdom(紙版は1993年刊行の第4巻が初出。執筆:Illia Vytanovych)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  16. Revolution of 1905(紙版は1993年刊行の第4巻が初出。執筆:John-Paul Himka)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23
  17. Japan(紙版は1988年刊行の第2巻が初出。執筆:Arkadii Zhukovsky)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-23

訂正・更新の記録

  • 『エネイーダ』(1798年)と『コブザール』(1840年)の刊行、それ以前のウクライナ語の本の点数についての記述を追加しました。
  • ポーランド分割(1772年・1793年・1795年)と、それによるガリツィア・ポディリャの帰属の変化についての記述を追加しました。
  • クリミア戦争(1853〜56年)、農奴解放(1861年)、1905年の革命、日露戦争期から1917年までの日本とウクライナの接点についての記述を追加しました。表の1877年の欄を、IEU の項目の間で点数が食い違っていることがわかる書き方に改めました。

記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。