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文化・歴史/解説

チェルニーヒウの救世主変容大聖堂と、1036年の年代記

チェルニーヒウ公ムスティスラウが建て始めた救世主変容大聖堂は、1036年の年代記の項に「馬上で手の届く高さ」まで積み上がっていたと書かれています。仕上がった年、「最も古い」という言い方の条件、18世紀の改築と20世紀の保護を、事典と年代記から見ます。

イメージ画像

オリュカのひとこと

この大聖堂は、誰が建て始めたのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

キーウ・ルーシの年代記『過ぎし年月の物語』のラヴレンチー写本は、6544年(西暦1036年)の項に、チェルニーヒウ公ムスティスラウの最期を書いています。狩りに出て病にかかり、亡くなった。人々は彼を、自分で建て始めた聖スパス(救世主)の教会に葬った。その教会は、彼の存命中に「馬の上に立って手を伸ばして届くほどの高さ」まで積み上がっていた、と。

この教会が、いまもチェルニーヒウの旧市街の中心に立つ救世主変容大聖堂(スパソ・プレオブラジェンシキー大聖堂)です。事典はこの建物を、ウクライナに残る最も古い建物の一つとして書いています。ただし「最も古い」の言い方は事典によって少しずつ違います。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(以下ЕІУ)、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、『大ウクライナ百科事典』(以下ВУЕ)、年代記の校訂本、ユネスコの記録によって、建てた人、建った年、「最古」の条件を見ていきます(2026年9月時点)。

建て始めた人、ムスティスラウ・ヴォロディーミロヴィチ

IEUによれば、ムスティスラウはキーウ大公ヴォロディーミル(聖公)の子で、ヤロスラウ賢公の異母兄弟です。988年に父からトムタラカン(黒海の北東岸の町)を与えられ、1024年にチェルニーヒウ公になりました。同じ年、チェルニーヒウ近くのリストヴェンの戦いでヤロスラウの軍を破り、その後はペレヤスラウを除くドニプロ川の左岸を治めます。1026年からは兄弟は和解し、ともに遠征もしています。

チェルニーヒウは、年代記には907年に初めて出てくる古い町です(IEU、ВУЕ)。IEUによれば、11〜13世紀にはチェルニーヒウ公国の都で、その最初の公がムスティスラウでした。大聖堂は町の中心の城塞(ディティネツ)のまんなかに建てられ、ЕІУによれば、チェルニーヒウ主教区ができてから1919年まで主教座聖堂でした。ムスティスラウのほか、スヴャトスラウ・ヤロスラヴィチ、イーホル・オレホヴィチらの公や、府主教、大主教が葬られています(ЕІУ)。

亡くなったのは1034年か、1036年か

ムスティスラウの死の年は、写本によって置かれた項が違います。ラヴレンチー写本の校訂本(1926年)では6544年(1036年)の項にあり、歴史家レオニード・マフノヴェツがイパーチー写本から訳したウクライナ語訳(1989年)では、同じ話が6542年(1034年)の項に置かれています。IEUは没年を「1034年または1036年」と書き、ЕІУとВУЕは1036年としています。

  1. オリュカ

    この大聖堂は、いつ仕上がったのかな。

  2. スウネ

    事典ごとの仕上がりの書き方が、この見出しの下の表に並んでいるよ。

  3. タブリ

    建て始めがいつになるかの読み方も、表のすぐ後の段落にあるよ。

いつ建ち、いつ仕上がったのか

建て始めた年を年代記ははっきり書いていません。分かるのは、ムスティスラウが亡くなったとき、壁が「馬上で手の届く高さ」まで来ていたことだけです。ЕІУはこれを「およそ4メートル」、ВУЕは「4メートルまで」と言い換えています。仕上がった年は、事典によって次のように分かれます。

資料建て始め仕上がり
IEU「Transfiguration, Cathedral of the」(1993年の紙版の再録)1036年に、ムスティスラウの治世に始まったおよそ30年後、スヴャトスラウ2世ヤロスラヴィチの治世
ЕІУ「チェルニーヒウの救世主大聖堂」ムスティスラウが据えた。1036年の死のとき壁は約4m遅くとも11世紀半ば
ВУЕ「チェルニーヒウの救世主変容大聖堂」(2020年公開)ムスティスラウが据えた。1036年の時点で壁は4mまで1041年に完成し、聖別された
各事典の記述をそのまま並べたもの。2026年9月に確認。

IEUは着工を1036年としていますが、ЕІУとВУЕは1036年の時点ですでに壁が4メートル前後まで積まれていたとしているので、この二つの事典に従えば、建て始めはそれより前になります。

オリュカのひとこと

「最も古い」という言い方には、条件があるようです。この見出しで確かめられます。

「最も古い」は何を数えているのか

三つの事典の言い方

  • IEU:「ウクライナで最も古い石造建築の一つであり、中世のチェルニーヒウ公国の、現存する最も優れた記念物」
  • ЕІУ:「残っている古代ルーシの石造の教会で、最も古い二つのうちの一つ(もう一つはキーウの聖ソフィア大聖堂)」
  • ВУЕ:「公国時代のウクライナ=ルーシ、そして東スラヴ全体(ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの地)で、年代が分かり、よく保たれた、本来の建物として最も古い」

ВУЕの言い方には、「年代が分かる」「よく保たれた」「本来の建物」という三つの条件が付いています。ЕІУも、建物は「ほぼ全体が今日まで残った」と書いています。

キーウの聖ソフィア、十分の一教会とどう比べるのか

比べる相手になるのは、キーウの聖ソフィア大聖堂です。聖ソフィアの建立年は、1011年とする見方と1037年とする見方に分かれています(聖ソフィア大聖堂の記事)。1011年をとれば聖ソフィアのほうが古く、1037年をとれば、1036年に壁が立ち上がっていたチェルニーヒウの大聖堂のほうが先に建ち始めたことになります。ЕІУが「二つのうちの一つ」と書き、どちらが先かを決めていないのはこのためと読めます。

もっと古い石造の教会もありました。IEUによれば、キーウの十分の一教会は989〜996年に建てられたキーウで最初の石造の教会ですが、1240年のモンゴルの攻撃で壊され、19世紀に建てられた別の教会も1935年に取り壊されて、いまは基礎しか残っていません。「最古」の言い方に「残っている」「保たれた」という条件が付くと、こうした建物は数に入らなくなります。

建物の移り変わり

いま見える二つの尖塔と丸い屋根は、11世紀の形ではありません。事典の記述を年の順に並べます。

年出来事典拠
1036年ムスティスラウが亡くなり、建設中の教会に葬られる。壁は約4m年代記、ЕІУ、ВУЕ
1041年完成し、聖別される(IEUは「およそ30年後」、ЕІУは「遅くとも11世紀半ば」)ВУЕ
1239年モンゴルの軍勢がチェルニーヒウを攻め、丸天井と、ドームの一部が崩れるВУЕ
15〜16世紀傷みが直されるВУЕ(ЕІУは16〜17世紀の修理)
1611年ポーランド軍のチェルニーヒウ攻撃で壊されるВУЕ
1675年チェルニーヒウ連隊長ヴァシーリ・ドゥーニン=ボルコウシキーの費用で直し、バロック様式のドームを載せる(ЕІУは「バロックの装飾」)ЕІУ、ВУЕ
1750年火事で聖障や屋根が焼けるЕІУ、ВУЕ
1791〜1798年大きな改築。付属の礼拝堂を取り壊し、北の階段塔を高くし、南にもう一つの塔を建てる(IEUは1791〜1799年)ВУЕ、IEU
1790年代いまの聖障がつくられる(IEUは1793〜1798年、ЕІУは1795〜1798年、ВУЕは1798年)IEU、ЕІУ、ВУЕ
1818年入口の前に風除けの室を足すЕІУ、ВУЕ
1923〜1924年研究が始まり、礼拝堂の跡や大理石の柱、11世紀のフレスコが見つかるВУЕ(フレスコの年代はIEU)
1967年チェルニーヒウの建築・歴史保護区の一部になるIEU、ЕІУ、ВУЕ
IEU、ЕІУ、ВУЕの各項目から作成。2026年9月に確認。

IEUとВУЕによれば、11世紀の部分では、合唱席の手すりに使われた彫刻のある粘板岩の板、11世紀のフレスコの断片、ビザンツの大理石の柱と柱頭、床の板などが残っています。ВУЕは、礼拝堂の跡とともに1920年代に見つかった聖テクラのフレスコが第二次世界大戦中に失われ、写しだけが残っていると書いています。

「聖スパス」と「救世主変容」

年代記は、この教会を「聖スパス(救世主)の教会」と呼んでいます。いまのウクライナ語の名は、「救世主の大聖堂」を意味するスパシキー大聖堂と、キリストの変容の祝日に献げられたことを示すスパソ・プレオブラジェンシキー大聖堂の二つがあり、ЕІУは両方を見出しに並べています。英語ではIEUのように「変容の大聖堂」(Cathedral of the Transfiguration)と訳されます。

同じ町に残るほかの中世の聖堂

チェルニーヒウの城塞には、ボリス・フレブ大聖堂も立っています。ЕІУによれば、1175年の記録によってチェルニーヒウ公ダヴィド・スヴャトスラヴィチが建てたとする研究者がいる一方、11世紀後半、12世紀半ば、12世紀後半とする研究者もいて、建立年は一つに決まっていません。1941年の爆撃で傷み、戦後の調査をもとに「本来の姿」に建て直されました。

町の広場の近くのピャトニツカ教会(聖パラスケヴァ・ピャトニツャの教会)は、ЕІУによれば12世紀末から13世紀初めの建物です。第二次世界大戦で壊れ、1962年に、ロシアの修復家ピョートル・バラノフスキーの設計で「想定される本来の姿」に修復されました。この二つの聖堂は、いまの姿の多くが20世紀の修復によるものです。救世主変容大聖堂が「最も古い」と書かれるとき、年代の古さに加えて、本来の建物が残っていることが条件になっているのは、このためと読めます。

保護区と、世界遺産の暫定一覧

ЕІУによれば、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国閣僚会議の1967年2月20日の決定などで、キーウの「ソフィア博物館」の分館としてチェルニーヒウに保護区がつくられました。1978年に独立し、1998年に国立の地位を得て、いまは国立建築・歴史保護区「チェルニーヒウ・スタロダーウニー」(古いチェルニーヒウ)と呼ばれています。救世主変容大聖堂、ボリス・フレブ大聖堂、ピャトニツカ教会はどれもこの保護区に入っています。

チェルニーヒウは世界遺産ではありません。ユネスコの暫定一覧(各国が将来の推薦を考えている候補の一覧)に、1989年9月13日付で「チェルニーヒウの歴史地区、9〜13世紀」として載っています。説明には「ボリス・フレブ大聖堂(12世紀)、救世主変容大聖堂(11世紀)」とあり、挙げている基準は(i)(ii)(iv)です。

教会としての使われ方

ЕІУによれば、大聖堂は1926年まで教会として使われ、1942〜1961年にも礼拝が行われました。同じЕІУは、1980年代末にモスクワ総主教庁系のウクライナ正教会の信徒の集まりが大聖堂を「占拠した」(захоплений)と書いています。ВУЕは1990年に正教会の信徒の集まりに引き渡されたと書き、2020年の時点でモスクワ総主教庁系の教会の礼拝が行われているとしています。二つの正教会の違いと2024年の法律は二つの正教会の記事で扱っています。

2022年以降のチェルニーヒウ

ユネスコは2024年4月の発表で、チェルニーヒウの歴史地区が、ロシアによるウクライナへの全面侵攻の最初の数か月にロシア連邦の攻撃で大きな影響を受けたとし、2024年3月にユネスコとICOMOSの専門家が保護区の大聖堂や教会を含む文化財を訪れて、復旧計画づくりを支えていると書いています。

出典と記事の記録出典 13件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Лаврентьевская летопись(Полное собрание русских летописей. Т. 1、1926〜1928年)第150段、6544年(1036年)の項ムスティスラウの死と聖スパスの教会、「馬上で手の届く高さ」
    発行:Академия наук СССР(電子版:Ізборник) 確認日:2026-09-27
  2. Літопис руський за Іпатським списком, переклав Леонід Махновець(1989年)の6542年(1034年)の項
    発行:Дніпро(電子版:Ізборник) 確認日:2026-09-27
  3. СПАСЬКИЙ СОБОР у Чернігові, Спасо-Преображенський собор執筆 Д. Я. Вортман。最古の二つの一つ、1036年に壁約4m、11世紀半ばまでの完成、1919年まで主教座、葬られた人、1675年・1750年・18世紀末・1795〜98年・1818年・1820年、1926年まで・1942〜61年の礼拝、1967年、1980年代末
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  4. ЧЕРНІГІВ СТАРОДАВНІЙ – історико-культурний заповідник執筆 І. М. Ігнатенко、第10巻、2013年。1967年2月20日の閣僚会議の決定、1978年、1998年の国立の地位、構成
    発行:Енциклопедія історії України 確認日:2026-09-27
  5. БОРИСОГЛІБСЬКИЙ СОБОР у Чернігові執筆 В. П. Коваленко、第1巻、2003年。建立年の諸説、1941年、戦後の再建
    発行:Енциклопедія історії України 確認日:2026-09-27
  6. П'ЯТНИЦЬКА ЦЕРКВА в Чернігові執筆 В. В. Вечерський。12世紀末〜13世紀初め、第二次世界大戦の破壊、1962年のバラノフスキーによる修復
    発行:Енциклопедія історії України 確認日:2026-09-27
  7. Спасо-Преображенський собор у Чернігові執筆 В. В. Вечерський、2020年5月13日公開。1036年に約4m、1041年の完成と聖別、1239年、1611年、1675年、1750年、1791〜1798年、1798年の聖障、1818年、1923〜1924年の研究と聖テクラのフレスコ、1967年、1990年、「最も古い」の言い方
    発行:Велика українська енциклопедія(Державна наукова установа «Енциклопедичне видавництво») 確認日:2026-09-27
  8. Transfiguration, Cathedral of the執筆 Sviatoslav Hordynsky。紙版は1993年の第5巻。1036年の着工、約30年後の完成、1791〜1799年の改築、1793〜1798年の聖障、残る11世紀の部分、1967年
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  9. Mstyslav Volodymyrovych紙版は1993年の第3巻。988年のトムタラカン、1024年、リストヴェンの戦い、1026年、1034年または1036年の死
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27
  10. Chernihiv紙版は1984年の第1巻。907年の初出、公国の都、11世紀前半の大聖堂
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27
  11. Church of the Tithes紙版は1993年の第5巻。989〜996年、1240年、1935年
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27
  12. Historic Centre of Tchernigov, 9th -13th centuries暫定一覧、1989年9月13日、基準(i)(ii)(iv)
    発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-27
  13. Ukraine: UNESCO paves the way for the rehabilitation of Chernihiv’s historic centre2024年4月9日
    発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-27

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