1011年か1037年か。キーウの聖ソフィア大聖堂が建った年
キーウの聖ソフィア大聖堂は、ヤロスラウ賢公の時代に建てられ、11世紀のモザイクとフレスコを今に残しています。ただし建った年は、1037年とする事典と、2011年に創建1000年を祝ったウクライナ政府とで26年違います。バロックの外観の由来、1934年の博物館化、2023年の危機遺産入り、2025年の損傷までをたどります。
オリュカのひとこと
1011年と1037年、26年の違いはどこから来るのでしょう。事典と大統領令、それぞれの根拠を見比べてみましょう。
2025年6月10日、ロシアによる攻撃のあと、キーウの聖ソフィア大聖堂の東側の外壁に損傷が見つかりました。翌11日、ユネスコは「重大な懸念」を表明し、現地を訪れたユネスコのウクライナ代表による予備的な点検で、東のファサードの損傷が確認されたと発表しています。ユネスコはこの建物を「11世紀初めにさかのぼる、東方キリスト教の建築と記念碑的芸術の礎」と呼んでいます。
聖ソフィア大聖堂は、キーウ・ルーシの首都の中心の教会として建てられ、ウクライナで最初にユネスコの世界遺産に登録された建物の一つです。いつ建ったのか、中に何が残っているのか、なぜ外観がバロック様式なのか、そして戦争のなかでどう扱われているのかを、ユネスコの記載と『Internet Encyclopedia of Ukraine』(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS)の項目からたどります。
建てられた年は、資料によって違う
大聖堂を建てたのがキーウ大公ヤロスラウ賢公(ヤロスラウ・ムードルィイ)であることは、どの資料でも一致しています。ユネスコは、地元の建設者とビザンツの職人が加わり、ヤロスラウ賢公の治世にキーウ・ルーシの首都の主要な教会として建てられた、と書いています。
ところが、何年に建てられたかは一つに決まっていません。『Internet Encyclopedia of Ukraine』の項目(1993年刊行の紙版が初出)は、建設を1037年から1044年とし、「1017〜37年とする説もある」と添えています。
一方、ウクライナ政府は2011年に「創建1000年」を祝いました。2010年6月11日の大統領令第682/2010号「ソフィア大聖堂創建1000年の記念について」は、2011年に創建1000年を記念するというユネスコ総会第35回会期の決議に触れたうえで、記念行事、国際学術会議、大聖堂の落書き(グラフィティ)の全集の刊行、ドームの金箔の修復などを内閣に指示しています。逆算すると創建は1011年になり、1037年とは26年の開きがあります。
つまり、11世紀前半のヤロスラウ賢公の時代という点では一致しつつ、年については研究上の議論が続いている、というのが現在の状態です。ユネスコは、登録の説明で「11世紀初め」と書くにとどめています。
11世紀のモザイクとフレスコ
ユネスコが世界遺産としての価値の第一に挙げるのは、内部の装飾です。大聖堂は11世紀の内装を保っており、同時代のモザイクとフレスコの保存数としては最大の集まりだとユネスコは書いています。代表作として挙げられているのは、全能者ハリストス(パントクラトール)、祈りの聖母(オランタ)、使徒の聖体拝領、デイシス、受胎告知です。階段塔には、宗教画ではない世俗の場面を描いたフレスコも残っています。
『Internet Encyclopedia of Ukraine』によると、建物は十字形の平面に5つの身廊をもち、中央の大きなドームと周りの12の小さなドームの計13のドームがピラミッドのように積み上がる形でした。中央の後陣の聖母オランタは「不壊の壁」とも呼ばれ、最も有名なモザイクだとされています。外壁はれんがと石を交互に積む工法で造られていました。
同項目は、建築の源流をめぐる学説も紹介しています。ビザンツの型をそのまま写したとする説、ロマネスクやアルメニア・ジョージアの影響を見る説がある一方、ドームの数の多さや高さを目指す形、奥行きより幅が広い本体、モザイクとフレスコの併用などはキーウ・ルーシより前の建物にはほとんど見られず、在地の伝統とビザンツの伝統が混ざって生まれたとする説に説得力がある、と書いています。名前は同じでも、コンスタンティノープルのアヤ・ソフィアから借りたものは名前といくつかの一般的な特徴くらいだ、というのが同項目の見方です。
壁にはフレスコのほかに、中世の人々が刻んだ落書きも残っています。前述の大統領令が全集の刊行を求めたのはこの落書きです。大聖堂の11世紀のフレスコに描かれた弦楽器は、バンドゥーラの系統の楽器の最も古い記録とされています(旅をした目の見えない歌い手コブザールと、楽器バンドゥーラ)。
『Internet Encyclopedia of Ukraine』は、ヤロスラウ賢公がこの大聖堂にウクライナで最初の図書館を設け、自身もここに葬られたと書いています。その石棺は今も残っています。
オリュカのひとこと
11世紀の建物なのに、外から見るとバロック様式なのはなぜでしょう。修復の時代をこの節で確かめましょう。
外観がバロックなのは、17〜18世紀の修復のため
今の大聖堂の白い壁と洋梨形のドームは、11世紀の姿ではありません。『Internet Encyclopedia of Ukraine』によると、1169年にスーズダリの公アンドレイ・ボゴリュプスキーがキーウを略奪してから、町と大聖堂は460年にわたる衰退の時代に入り、1585年には屋根が壊れるほど傷んでいました。この時期のキーウの略奪については平安京から応仁の乱まで、キーウでは何が起きていたかでも触れています。
1610年から33年の短い期間、大聖堂はユニエイト(東方典礼カトリック)の教会のもとにありました。その後、正教会のキーウ府主教ペトロ・モヒーラが管理を取り戻し、24年にわたって大規模な修復を行いました。
決定的だったのは、1690年から1707年にかけてヘトマン(コサックの国家の首長)イヴァン・マゼーパが資金を出した修復です。建物の一部がかさ上げされ、壁は漆喰で塗られて白くなり、新しく6つを加えたすべてのドームが洋梨形の屋根で覆われ、中央のドームには金箔が施されました。同項目は、これが発展したばかりのウクライナ・バロックの様式によるもので、現在の外観をつくったと書いています。18世紀半ばには府主教ラファイル・ザボロウシキーのもとで木彫りの聖障(イコノスタス)が据えられ、敷地の壁にはザボロウシキー門(1746〜48年)が造られました。
ユネスコも、大聖堂を囲む鐘楼、府主教の館、食堂、ザボロウシキー門などの修道院の建物を「17〜18世紀のウクライナ・バロック様式」と説明しています。11世紀の内部と17〜18世紀の外観が一つの建物に重なっている点が、この大聖堂の特徴です。
1934年に博物館になる
『Internet Encyclopedia of Ukraine』によると、1934年に大聖堂での宗教活動はすべて打ち切られ、博物館に変えられました。重要な品の多くは国に没収され、その多くが破壊されたり、失われたり、国外へ売られたりしました。1941年から43年には、キーウの博物館や図書館に保管されていた没収品の大半が、ナチス・ドイツによって略奪されています。
ユネスコの記載では、大聖堂と修道院の建物群は1934年に国の歴史文化保護区に指定されました。修復の仕事は1987年に「歴史的記念物保護のためのヨーロッパ金メダル」を受けています。現在は国立保護区「ソフィア・キーウスカ」が管理し、教育のための博物館として、また国家行事の場として使われています。2018年12月15日には、ウクライナ正教会(OCU)を設立した「統一公会」もこの大聖堂で開かれました(どちらも直訳は「ウクライナ正教会」。OCUとUOC、そして2024年の法律)。
世界遺産から危機遺産へ
大聖堂は1990年、キーウ・ペチェールシク大修道院とあわせて一つの世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築群、キーウ・ペチェールシク大修道院」として登録されました。二つの離れた場所からなる物件で、登録基準は(i)〜(iv)の四つ、資産の面積は28.52ヘクタールです。
| 年月日 | 出来事 |
|---|---|
| 1990年 | 世界遺産一覧表に登録 |
| 2022年2月24日 | ロシアによるウクライナへの全面侵攻 |
| 2023年9月15日 | リヤドで開かれた世界遺産委員会が、リヴィウの歴史地区とともに危機遺産リストに記載 |
| 2025年6月10日 | ロシアの攻撃のあと、大聖堂の東のファサードの損傷をユネスコが確認 |
| 2026年6月15日 | 同じ世界遺産の構成要素であるキーウ・ペチェールシク大修道院への攻撃が報じられ、ユネスコが非難 |
危機遺産リストに加えた理由として、世界遺産委員会は、顕著な普遍的価値の保護を完全に保証する最適な条件がもはや満たされず、戦争による潜在的な危険にさらされていると述べました。直接の攻撃だけでなく、市内への爆撃による衝撃波にも弱いとされています。ウクライナ全体の世界遺産と危機遺産の一覧はウクライナの街と世界遺産にまとめています。
2026年6月15日の声明でユネスコは、大修道院の中心である生神女就寝大聖堂の外部と内部に大きな被害が出たと報じられている、としています。この大聖堂は第二次世界大戦でほぼ全壊し、1999〜2000年に再建された建物です。ユネスコの声明は被害を「報じられている」と書いており、被害の程度を独自に確認したとは書いていません。
日本もこの保護に関わっています。ユネスコは2025年6月の発表で、2022年以降、日本の支援によって、保護区「ソフィア・キーウスカ」の緊急時の備えの計画づくり、建物の高度なデジタル記録、保存担当の職員の緊急対応の訓練を支えてきたと書いています。あわせて、世界遺産基金を通じて大聖堂の壁画の修復も支援しているとしています。
千年近く前の壁画が残る建物は、いまも空襲の衝撃波の届く範囲にあります。2026年9月時点で、大聖堂は危機遺産リストに載ったままです。
出典・参考資料
- Kyiv: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kyiv-Pechersk Lavra(物件ページ。登録1990年、基準(i)〜(iv)、28.52ha、顕著な普遍的価値の説明(ヤロスラウ賢公、地元の建設者とビザンツの職人、代表的なモザイク、階段塔の世俗のフレスコ、17〜18世紀のウクライナ・バロックの修道院建築)、1934年の保護区指定、1987年のヨーロッパ金メダル、博物館と国家行事での使用、生神女就寝大聖堂の1999〜2000年の再建、危機遺産2023年〜)
発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-24 - Ukraine: UNESCO sites of Kyiv and L’viv are inscribed on the List of World Heritage in Danger(2023年9月15日。リヤドの委員会、記載の理由、衝撃波)
発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-24 - Kyiv: UNESCO is deeply concerned about threats to World Heritage in Ukraine’s capital(2025年6月11日。6月10日の攻撃、東のファサードの損傷、日本の支援による2022年以降の協力、世界遺産基金による壁画修復の支援)
発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-24 - UNESCO statement on Ukraine(2026年6月15日。キーウ・ペチェールシク大修道院への攻撃、生神女就寝大聖堂の被害が報じられていること)
発行:UNESCO 確認日:2026-09-24 - Saint Sophia Cathedral(執筆:Walter Daschko。紙版は1993年刊行の第4巻が初出。建設年1037〜44年と1017〜37年説、平面とドーム、オランタ、学説、1169年以降の衰退、1610〜33年、モヒーラ、マゼーパの修復、ザボロウシキー門、1934年の博物館化、図書館と石棺)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS) 確認日:2026-09-24 - Указ Президента України № 682/2010 «Про відзначення 1000-річчя заснування Софійського собору»(2010年6月11日。ユネスコ総会第35回会期の決議への言及、2011年の創建1000年、落書き全集の刊行ほか)
発行:Президент України(zakon.rada.gov.ua) 確認日:2026-09-24
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