1051年、洞窟から始まった修道院。キーウ・ペチェールシク大修道院
年代記は1051年の項に、キーウの丘の小さな洞窟から修道院が始まった物語を置いています。「ラヴラ」の称号を得た年、1615年の印刷所、1718年の火事、1926年の保護区、1941年の大聖堂の爆破まで、事典によって食い違う年も並べながら、年表でたどります。
オリュカのひとこと
洞窟から始まった修道院は、どうやっていまの姿になったのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
キーウのドニプロ川右岸の丘に、地下の洞窟から始まった修道院があります。キーウ・ペチェールシク大修道院(Києво-Печерська лавра)です。「ペチェールシク」は「洞窟の」という意味で、最初の修道士たちが洞窟に住んだことから、この名で呼ばれるようになりました。
ここでは年代記が伝える始まりから、印刷所、1718年の火事、国の保護区になった1926年、1941年の大聖堂の爆破までを年表にしてたどります。年や呼び名には、事典によって食い違うところがあります。そうした所は、一つに決めずに並べました。時点は2026年9月です。
年代記の「1051年」の項に書かれた始まり
キーウ・ルーシの年代記『過ぎし年月の物語』は、1051年の項で「ペチェールシク修道院がどこから名を得たか」を語っています。年代記という本そのものの成り立ちは、『過ぎし年月の物語』の記事で扱っています。ここでは、ウクライナの研究者レオニード・マフノヴェツの現代ウクライナ語訳(1989年)で筋を追います。
ヤロスラウ賢公が好んだベレストヴェ村の教会に、イラリオンという司祭がいました。イラリオンはドニプロ川のほとりの丘に通い、小さな洞窟を掘って祈っていました。のちにイラリオンは府主教になり、洞窟は空きます。そこへ、アトス山(ギリシャの修道院の山)で修道士になったアントニーが戻り、この洞窟に住み着きました。やがて12人ほどの仲間が集まって大きな洞窟と教会と僧房を掘り、アントニーはヴァルラームを院長に立てて、自分は別の丘に移ります。仲間が増えると、イジャスラウ公から丘の上の土地をもらい、地上に修道院を建てました。
同じ1051年の項には、ヤロスラウ賢公が亡くなったあとの出来事まで書かれています。1051年に起きたことだけを書いた項ではなく、修道院の始まりの物語をこの年の項にまとめて置いた、という書き方です。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』(以下、歴史研究所の事典。この項目は2007年刊)は、「1051年が洞窟の修道院の創建の年とみなされている」と書いています。国立キーウ・ペチェールシク歴史文化保護区も、沿革でこの年を創建の年としています。
アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の『Internet Encyclopedia of Ukraine』(以下、IEU。この項目は2021年更新)は、年を一つに決めず、「11世紀半ば」にアントニーが創建したと書いています。二代目の院長フェオドシイ(在任1062年ごろ〜1074年)が、コンスタンティノープルのストゥディオス修道院の規則を取り入れたことは、IEU と歴史研究所の事典が一致して挙げています。
オリュカ
この記事は呼び名や年の説明が多いね。どこから読み始めたらいいのかな。
シメロ
まずは、下の年表の見出しから読んでみよう。
タブリ
呼び名の移り変わりは、この見出しの下でたどれるよ。
名前は「ペチェールシク修道院」から「ラヴラ」へ
昔の呼び名と、いまの呼び名
年代記の中では、この修道院は「ペチェールシク修道院」(洞窟の修道院)と呼ばれています。いまの正式な呼び名には「ラヴラ(лавра)」が付きます。ラヴラは正教会の修道院の称号の一つで、歴史研究所の事典は、この称号が大きな特権と一定の自治をもたらしたと書いています。この記事では「大修道院」と訳しました。
さらに、1926年からは同じ敷地の大部分が国の保護区になり、いまは「国立キーウ・ペチェールシク歴史文化保護区」(Національний Києво-Печерський історико-культурний заповідник)と、ウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系。以下 UOC)の修道院「生神女就寝キーウ・ペチェールシク大修道院」が、同じ名前を分けて使っています。二つの正教会の名前の違いは、OCUとUOCの記事で説明しています。
「ラヴラ」になったのはいつか
ラヴラの称号をいつ得たのかは、事典によって書き方が違います。
- 歴史研究所の事典は、1169年に「ラヴラ」の称号を得たとし、1592年にコンスタンティノープル総主教からスタウロペギア(総主教に直属し、地元の府主教の管轄を受けない地位)とラヴラの格を「確認された」と書いている。さらに1688年にモスクワ総主教、1720年にロシア皇帝がこの称号を確認したとする
- IEU は、16世紀の終わりにコンスタンティノープル総主教からスタウロペギアの地位を受け、そのころ六つの修道院からなる一つの複合体になって「ラヴラとされた」と書いている
12世紀とする説明と、16世紀末とする説明が並んでいる状態です。「称号を得た」と「称号を確認された」を分けて読むと、食い違いの形が見えやすくなります。
近い洞窟と遠い洞窟
修道院の名のもとになった洞窟は、二つの地下の迷路として残っています。歴史研究所の事典によれば、最初の修道士たちの洞窟が「遠い洞窟」(フェオドシイの洞窟)、アントニーが別の丘に移って掘った洞窟が「近い洞窟」(アントニーの洞窟)と呼ばれるようになりました。
IEU は、迷路の通路は幅1.5メートル、高さは2メートルまでで、二つの迷路は400メートル離れていると書いています。壁には埋葬のくぼみがあり、多くに修道士や聖人のミイラ化した遺体が今も納められています。ユネスコの世界遺産の説明は、洞窟の複合体が600メートル以上にわたると書いています。
洞窟に葬られた修道士たちは、1643年にキーウ府主教ペトロ・モヒラによって聖人に加えられました(IEU。歴史研究所の事典は、このとき69人が加えられたとする)。保護区の沿革によれば、最終的には近い洞窟に73人、遠い洞窟に45人の聖人が数えられています。
印刷所と、コサックの時代の寄進
IEU によれば、1615年、院長エリセイ・プレテネツィキーが修道院にキーウで最初の印刷所を開きました(歴史研究所の事典は「1615年ごろ」)。1631年にはペトロ・モヒラが修道院に学校を開き、翌年、キーウの兄弟団の学校と合わせて学院にします。のちのキーウ・モヒラ・アカデミーです(キーウ・モヒラ・アカデミーの記事)。
17世紀から18世紀のはじめには、コサックのヘーチマン(首長)や将校たちが、修道院に多くの建物を寄進しました。歴史研究所の事典によれば、ヘーチマンのイヴァン・マゼーパの資金で、塔と門のある修道院の城壁(費用は100万ズウォティ〔золотий〕以上)、経済門の上の全聖人教会が建てられ、聖三位一体門上教会が修復され、生神女就寝大聖堂の丸屋根に金が貼られました。IEU は全聖人教会の建設を1696〜1698年としています。
1718年の火事と、18世紀の姿
保護区の沿革によれば、1718年4月21日から22日にかけての夜、修道院の副院長の僧房から出た火が、木造の建物をすべて焼き、石造の建物にも大きな被害を与えました。IEU は、このとき図書館と文書庫が失われたと書いています。1720年から再建が始まり、大聖堂などは「ウクライナ・バロック」と呼ばれる様式で整えられました。いま見られる建物の多くは、この再建のあとの姿です。
高さ96.5メートルの大鐘楼は、建築家ヨハン・ゴットフリート・シェーデルの設計で1731〜1744年に建てられました(IEU)。1786年、ロシア政府は修道院の土地と農奴を国のものにし、それ以後は修道院の長をキーウ府主教が兼ねるようになります。
年表:洞窟の修道院から保護区まで
| 年 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| — | — | — |
| 1051年 | 年代記がこの年の項に、洞窟の修道院の始まりを記す。この年が創建の年とみなされている | 『過ぎし年月の物語』(マフノヴェツ訳)、歴史研究所の事典、保護区 |
| 1062年ごろ | アントニーがヴァルラームを院長に立て、別の丘に移る | 歴史研究所の事典、保護区 |
| 1073〜1078年 | 生神女就寝大聖堂が建てられる | IEU、歴史研究所の事典 |
| 1169年 | ラヴラの称号を得る(歴史研究所の事典の説明) | 歴史研究所の事典 |
| 1240年 | モンゴルのバトゥの軍に荒らされる | IEU、歴史研究所の事典 |
| 1592年 | コンスタンティノープル総主教がスタウロペギアとラヴラの格を確認(IEU は「16世紀末」とする) | 歴史研究所の事典、IEU |
| 1615年 | 修道院の印刷所が開かれる(歴史研究所の事典は「1615年ごろ」) | IEU、保護区 |
| 1643年 | 洞窟に葬られた修道士たちが聖人に加えられる | IEU、歴史研究所の事典 |
| 1696〜1698年 | マゼーパの資金で全聖人教会が建てられる | IEU |
| 1718年 | 4月21日から22日にかけての夜の火事 | 保護区、歴史研究所の事典 |
| 1731〜1744年 | 大鐘楼が建てられる | IEU |
| 1786年 | 修道院の土地が国のものになる | IEU、歴史研究所の事典 |
| 1926年 | 9月29日の決定で、国の歴史文化保護区になる | 保護区、IEU |
| 1941年 | 11月3日、生神女就寝大聖堂が爆破される | IEU、歴史研究所の事典、保護区 |
| 1990年 | ユネスコの世界遺産一覧表に記載される | ユネスコ世界遺産センター |
| 1996年 | 保護区が「国立」の地位を得る(3月13日の大統領令) | 保護区、IEU |
| 2000年 | 再建された生神女就寝大聖堂が8月に聖別される | 保護区 |
オリュカのひとこと
閉じられた年は、資料によって違うようです。この見出しで見比べられます。
保護区になった年、修道院が閉じられた年
1917年の革命のあと、ソ連の政府は修道院の財産を取り上げていきます。保護区の沿革によれば、1926年9月29日、ソ連ウクライナの中央執行委員会と人民委員会議が「旧キーウ・ペチェールシク大修道院を歴史文化国家保護区と認め、全ウクライナ博物館街に改める」決定を出しました。敷地には博物館、修復工房、科学アカデミーの印刷所、文書庫、図書館が置かれました。
修道院が閉じられたのは1926年か、1929年か、1930年か
保護区ができた年は資料が一致していますが、修道院としての活動が止められた年は、資料によって違います。
- IEU は、1926年にソ連ウクライナの政府が修道院を完全に閉じ、敷地を国の博物館保護区にした、と書いている
- 歴史研究所の事典は、キーウ管区の執行委員会が1929年11月18日に修道院を閉じる決定をしたと書いている
- 保護区の沿革は、1930年の初めに修道院が閉じられ、修道士たちが追い出されたと書いている
1926年から数年のあいだ、保護区と修道士の共同体が同じ敷地にあったことは、保護区の沿革も認めています。「保護区ができた年」と「修道院が閉じられた年」を別の出来事として読むと、三つの年の関係が分かりやすくなります。
1941年11月3日の爆破と、2000年の再建
1941年11月3日、ドイツ軍が占領していたキーウで、生神女就寝大聖堂が爆破されました。誰が爆破したのかについて、資料の書き方は分かれています。IEU は、ドイツ軍の進撃から退いたソ連軍が大聖堂に爆薬を仕掛け、ドイツ軍の占領後に爆発した、と書いています。歴史研究所の事典は「最終的には解明されていない事情のもとで」爆破されたと書き、保護区の沿革は爆破の主体を書いていません。ユネスコは、大聖堂が南東の塔を除いてほぼ完全に失われたと記しています。
大聖堂は、1995年11月9日の大統領令にもとづいて再建され、2000年8月に聖別されました(保護区の沿革)。再建の期間は、IEU が1998〜2000年、ユネスコが1999〜2000年と書いています。なお1920年代から30年代には、修道院の宝物の取り上げに加えて、修道士たちへの弾圧もありました(歴史研究所の事典)。
2023年以降の大修道院
保護区は、2023年4月6日から生神女就寝大聖堂の中の展示室で展示を開くと発表しました。一方、ウクライナ国家民族政策・良心の自由庁(以下、国家庁)は、UOCのキーウ府主教区の解散を求める裁判を起こしています。国家庁の2026年9月24日の発表によれば、最高裁判所は9月22日、この事件で府主教区が出した上訴の手続きを始めました。2026年9月時点で、この事件は終わっていません。法律と手続きの経緯はOCUとUOCの記事にまとめています。
世界遺産としての扱いは、聖ソフィア大聖堂と一つの物件(1990年記載)になっていて、2023年に危機遺産リストに加えられました。この経緯はウクライナの街と世界遺産の記事と聖ソフィア大聖堂の記事で扱っています。
10フリヴニャ紙幣の裏の大聖堂
生神女就寝大聖堂は、ウクライナ国立銀行の10フリヴニャ紙幣(2006年の様式)の裏面に描かれてきました。表はヘーチマンのマゼーパの肖像です。国立銀行によれば、この様式を含む2003〜2007年の様式の10フリヴニャ紙幣は、2026年3月2日で支払いに使えなくなりました。2020年6月3日から出回っている10フリヴニャ硬貨には、裏面にマゼーパの肖像が描かれています。通貨の成り立ちはフリヴニャの記事で扱っています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Kyivan Cave Monastery11世紀半ばの創建、ヴァルラームとフェオドシイ、16世紀末のスタウロペギアとラヴラ、1615年の印刷所、1718年の火事、1786年の世俗化、洞窟の寸法、1643年の列聖、1926年の保護区、1941年11月3日の爆発、1996年の国立保護区、1998〜2000年の再建、全聖人教会1696〜98年、大鐘楼1731〜44年・96.5m。執筆 Vadym Pavlovsky、2021年更新
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所) 確認日:2026-09-26 - КИЄВО-ПЕЧЕРСЬКА ЛАВРА1051年を創建の年とみなすこと、近い洞窟と遠い洞窟の名、1073年の大聖堂、1169年のラヴラの称号、1592年・1688年・1720年の確認、1615年ごろの印刷所、1643年の69人、マゼーパの寄進、1718年の火事、1929年11月18日の閉鎖の決定、1941年11月3日の爆破「за нез'ясованих остаточно обставин」。執筆 Мицик Ю.А., Федорова Л.Д.、第4巻 2007年
発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-26 - Історія Києво-Печерської Лаври та заповідника:XI–XIV ст.(1051年の創建、1062年の移動)、XV–XVIII ст.(1615年の印刷所、1718年4月21日から22日の夜の火事、マゼーパの城壁)、XIX–XXI ст.1926年9月29日の決定、1930年初めの修道院の閉鎖、1941年11月3日の爆破、1990年の世界遺産、1996年3月13日の国立の地位、1995年11月9日の大統領令と2000年8月の聖別、聖人の数
発行:Національний Києво-Печерський історико-культурний заповідник 確認日:2026-09-26 - 同沿革 XV–XVIII ст.
発行:Національний Києво-Печерський історико-культурний заповідник 確認日:2026-09-26 - 同沿革 XIX–XXI ст.
発行:Національний Києво-Печерський історико-культурний заповідник 確認日:2026-09-26 - У Національному заповіднику “Києво-Печерська лавра” відкрилася нова виставка2023年4月6日から生神女就寝大聖堂の展示室で展示
発行:Національний Києво-Печерський історико-культурний заповідник 確認日:2026-09-26 - Літопис руський1051年〔6559年〕の項。ペチェールシク修道院の名の由来。レオニード・マフノヴェツ訳、キーウ、Дніпро、1989年
発行:Ізборник(電子版) 確認日:2026-09-26 - Kyiv: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kyiv-Pechersk Lavra1990年の記載、洞窟の複合体600m以上、1999〜2000年の大聖堂の再建、南東の塔を除く破壊
発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-26 - Оголошення про відкриття апеляційного провадження за апеляційною скаргою Київської Митрополії Української Православної Церкви2026年9月24日。最高裁の9月22日の決定、事件番号855/11/25
発行:Державна служба України з етнополітики та свободи совісті 確認日:2026-09-26 - Банкноти в обігу/Вилучені з обігу(2003〜2007年様式の10フリヴニャ紙幣が2026年3月2日から支払いに使えないこと)、10 гривень зразка 2006 року表マゼーパ・裏 生神女就寝大聖堂
発行:Національний банк України 確認日:2026-09-26 - 10 гривень зразка 2018 року2020年6月3日から流通、裏面にマゼーパ
発行:Національний банк України 確認日:2026-09-26
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