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文化・歴史/解説

貴族と商人の寄付で1805年に開いた、ハルキウのカラジン大学

ハルキウ国立大学は、1804年に設立が認められ、1805年に開学した、ロシア帝国が支配したウクライナの土地で最初の大学です。貴族と商人に寄付を説いた創設者カラジン、自治と検閲の揺れ、ウクライナ語の講義、名前の移り変わり、「最も古い」をめぐる書き方の違い、2022年からの被害をまとめます。

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オリュカのひとこと

人口の多くない町に、なぜ大学が置かれたのでしょう。貴族と商人の寄付の話を本文でたどれます。

1804年11月17日(当時のロシアの暦で11月5日)、ハルキウに大学を置くことを認める文書(Стверджувальна грамота)に署名がされました。翌1805年1月29日(同1月17日)に開かれたこの大学は、いまのハルキウ国立大学(カラジン名称)です。ロシア帝国が支配したウクライナの土地で最初の大学でした。

ヴァシリ・カラジンという人

大学の名前になっているヴァシリ・カラジン(Василь Каразін)は、Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS。以下IEU)によれば、1773年2月10日にスロボダ・ウクライナのボホドゥヒウ近くで生まれ、1842年11月16日にミコライウで亡くなりました。サンクトペテルブルクで鉱山学と冶金学を学び、ひそかに西ヨーロッパへ渡って学びを続けた人です。

IEUによれば、カラジンは皇帝や高官に手紙や意見書を送り、立憲君主制と農奴制の廃止を説きました。1801〜04年には国民教育省で学校の制度を西欧にならって改めることに取り組み、スロボダ・ウクライナの貴族と商人を説いて、ハルキウに大学をつくり、その資金を出させました。のちに考えが疎まれ、1820〜21年にはシュリッセリブルク要塞に投獄されています。気象の観測所をつくり、農業機械も考案するなど、学問の幅の広い人でもありました。

大きくない町に、なぜ大学を

大学のサイトによれば、カラジンは1802年5月2日、ハルキウの司祭に宛てた手紙で大学の構想を書いています。当時、大学の候補地としてはキーウ、スームィ、ポルタヴァ、チェルニーヒウなども挙がり、ハルキウの人口はオフティルカより少ないほどでした。カラジン自身もハルキウを「人の多くない、県都のなかでも最もささやかな町の一つ」と書いています。

それでも1802年夏の終わり、スロボダ・ウクライナの貴族の集まりでカラジンが計画を示すと、貴族たちは寄付を集めることを約束し、商人も続きました。1803年1月に大学を置くことが決まり、大学を中心にしたハルキウ教育管区もつくられます。大学が開かれる前から、植物園(1804年)や図書館、印刷所の準備も進められました。大学のサイトによれば、植物園はウクライナで最も古い植物園です。

ハルキウには、それより前から学びの場がありました。大学のサイトは、1726年にベルホロドから移ってきた学校(のちのハルキウ・コレギウム)を「未来の大学の人材を育てた鍛冶場」と呼び、哲学者フルィホリー・スコヴォロダが1759年にここで教えたことを紹介しています(スコヴォロダの記事)。

オリュカのひとこと

開学したころの大学では、教授を誰が選んでいたのでしょう。自治と検閲の揺れをこの節でたどれます。

開学から最初の30年

IEUによれば、初めの大学は広い自治をもち、教授会が学長とすべての教授を選びました。管区の監督にはポーランドの貴族セヴェリン・ポトツキが就き、初代学長は言語学者のイヴァン・リシキーでした。最初の10年の教授の多くは外国、とくにドイツから招かれた学者です。大学は四つの部門(倫理・政治、言語・文学、物理・数学、医学)で始まりました(大学の年表)。

大学のまわりには、ウクライナ東部で最初の定期刊行物が生まれました。IEUは、1812年の『ハルキウ週報』、1816〜19年の『ウクライナ通報』などを挙げています。1830年代には、大学の教授や学生がウクライナの民謡や伝承に関心を寄せた「ハルキウ・ロマン主義派」をつくりました。IEUは、最初の30年の大学は、西欧の考えを持ち込み、ウクライナの民俗の文化的な意味を認めた、重要な文化の力だったと書いています。

自治は長く続きませんでした。1835年の新しい規則で中央の官僚の力が強まり、1848年までにはすべての出版物と講義までが検閲を受けるようになりました。1863年の規則で教授会の権限は戻り、IEUはこの時期を研究の「黄金時代」と呼んでいます。

ウクライナ語の講義と、教えた人たち

IEUによれば、1905年、教授のミコラ・スムツォウ、ドミトロ・バハリーらの働きかけで、教授会はウクライナ語の出版物への検閲をやめるよう求める意見書を出しました。同じ年、大学は歴史家ミハイロ・フルシェフシキーと作家イヴァン・フランコに名誉博士号を贈っています(イヴァン・フランコの記事)。1906年に国民教育省がウクライナ史とウクライナ語の講座の新設を退けたあと、翌1907年、スムツォウはウクライナ語で講義を始めました。

IEUが1917年より前の主な教授として挙げる人には、言語学者のイズマイル・スレズネフスキーとオレクサンドル・ポテブニャ、民俗学者のアムヴロシー・メトリンシキー、数学者のアレクサンドル・リャプノフらがいます。作曲家ミコラ・ルィセンコも、ここで自然科学を学んだ一人です(ルィセンコの記事)。

ノーベル賞の受賞者について、大学のサイトは「ウクライナで唯一、3人のノーベル賞受賞者が学び、働いた大学」として、生物学者イリヤ・メチニコフ、経済学者サイモン(セメン)・クズネッツ、物理学者レフ・ランダウを挙げています。IEUの書き方はもう少し細かく、メチニコフはここで学び、ランダウはここで働いた、クズネッツはハルキウ大学か、大学の教員の多くが教えていたハルキウ商業学院のどちらかで学んだ、としています。

名前が変わり続けた大学

年できごと
1805年ハルキウ帝国大学として開学
1920年いくつかの学院に分けられる(1921年から国民教育学院など)
1933年学院をまとめ、ハルキウ国立大学(ХДУ)として再建
1936年作家マクシム・ゴーリキーの名が付く
1993年ゴーリキーの名を外し、ハルキウ国立大学に
1999年大統領令で「国立(ナショナル)大学」の地位と、創設者カラジンの名
2003年自治をもつ国立の高等教育機関の地位
IEU「Kharkiv National University」(2021年改訂)と、大学のサイトの年表による。

ソ連の時代、ハルキウはソ連ウクライナの首都でした。IEUによれば、1920年代にはウクライナの歴史、文学、言語の研究が盛んになりましたが、1920年代末から1930年代初めにかけて、ウクライナ研究の学者のほとんどが逮捕され、ウクライナ文化史の講座(研究所)だけで25人が弾圧されました。1936年にゴーリキーの名が付いたことについて、IEUは、ゴーリキーはこの大学とまったく関わりがなかったと書いています。1965年には、講師777人のうちウクライナ語で講義をしていたのは104人(13%)でした。

  1. オリュカ

    「一番古い」という言い方は、言う人によって変わるのかな。

  2. スウネ

    IEUと大学のサイト、事典の三つの書き方を、この見出しの下で見比べられるよ。

  3. タブリ

    キーウの学院の話は、モヒラ・アカデミーの記事に戻って確かめられるよ。

「最も古い」をめぐる書き方

ハルキウ大学を紹介する言葉は、主体によって違います。

  • IEU:「ウクライナで最も古く重要な大学の一つ」、ロシア帝国が支配したウクライナの土地で最初の大学
  • 『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ):リヴィウの大学に次いで、ウクライナで最も古い大学
  • 大学のサイト:東ヨーロッパで最も古い大学の一つ

どの学校を「大学」と数えるかで答えは変わります。キーウには17世紀に学院(アカデミー)が開かれていました(キーウ・モヒラ・アカデミーの記事)。ハルキウ大学は、ロシア帝国の大学の規則のもとで、ウクライナの土地に開かれた最初の近代的な大学、と整理できます。

2022年からの被害

大学のサイトによれば、ロシアによる全面侵攻が始まった最初の1か月のうちに、ミロノシツカ通りの経済学部の建物がミサイルで破壊されました。本館と北館、物理工学部の建物、寮、自然博物館、中央図書館の旧館も被害を受け、大学は2022年3月1日から18日までの被害の日付を記録しています。大学のサイトによれば、授業は3月末に再開されました。

出典と記事の記録出典 7件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Kharkiv National UniversitySerhiy Bilenky、Vasyl Markus執筆、2021年改訂。1805年の設立、自治、ポトツキとリシキー、外国人教授、定期刊行物、ハルキウ・ロマン主義派、1835年・1848年・1863年、1905〜07年、主な教授、1920年と1933年、弾圧、1936年、1965年の講義言語、ノーベル賞受賞者、1999年と2003年
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  2. Karazyn, Vasyl初出1989年。生没年月日と場所、教育省での仕事、大学の設立、投獄、気象観測
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  3. Харківський національний університет імені В. Н. Каразіна1804年11月17日の設立、1805年1月29日の開学、リヴィウの大学に次いで古い
    発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-24
  4. Історія університету設立と開学の日、3人のノーベル賞受賞者、植物園1804年、図書館、1999年と2003年の地位
    発行:Харківський національний університет імені В. Н. Каразіна 確認日:2026-09-24
  5. Історія заснування Каразінського університету1802年5月2日の手紙、候補地、ハルキウの規模、1802年の貴族の集まり、1803年1月の決定、1804年11月17日(旧暦5日)の文書、ハルキウ・コレギウムとスコヴォロダ
    発行:Харківський національний університет імені В. Н. Каразіна 確認日:2026-09-24
  6. Хронологія1726年、1805年の四つの部門、1907年、1920〜1936年、1993年、1999年
    発行:Харківський національний університет імені В. Н. Каразіна 確認日:2026-09-24
  7. Університет під час війни2022年の被害を受けた建物と日付、授業の再開
    発行:Харківський національний університет імені В. Н. Каразіна 確認日:2026-09-24

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