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社会を知る/解説

ルメイとウルム、マリウポリに住みついたクリミアのギリシャ系の人々

マリウポリとその周りの村は、1778年にクリミアを出たキリスト教徒が住みついてできました。子孫のギリシャ系の人々は、ギリシャ語の流れをくむ言葉を話すルメイと、テュルク系の言葉を話すウルムに分かれます。移住の年と人数、二つの呼び名、1920年代の言語政策、2001年の国勢調査の数字を、事典と統計で並べます。

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オリュカのひとこと

マリウポリの周りの村は、どう生まれたのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

ウクライナで2001年に行われた国勢調査では、ギリシャ人と答えた人は9万1,500人でした。そのうち7万7,500人がドネツィク州に住んでいました。多くは、18世紀の終わりにクリミアからアゾフ海の北の岸へ移ってきたキリスト教徒の子孫です。港町マリウポリは、この人々が住みついたときに町として形を整えました。

同じ「ギリシャ系」でも、話してきた言葉は二つに分かれます。ギリシャ語の流れをくむ言葉を話す人々は自分たちを「ルメイ」、テュルク系の言葉を話す人々は「ウルム」と呼んできました。事典によれば、「ウルム」は「ビザンツの人」「キリスト教徒」を意味する語で、ギリシャ語を話す人々の自称をテュルク語に写したものです。移住の経緯、二つの言葉、20世紀の言語政策、国勢調査の数字を、事典と統計局の資料からたどります。

1778年、クリミアのキリスト教徒が北へ移った

ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』(ЕІУ)は、この移住を「1778〜1780年のクリミア・ハン国のキリスト教徒の北アゾフ地方への移住」という項目で扱っています(執筆 N・バツァク)。事典によれば、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約のあと、ロシア軍が駐留するクリミア・ハン国では内紛と飢えが広がっていました。ロシア帝国の政府は、ハン国のキリスト教徒をまとめて自国の領内へ移すことで、ハン国の経済を弱めようとしました。

1778年3月9日、エカチェリーナ2世は、クリミアに住むギリシャ人、グルジア人、アルメニア人、ワラキア人の移住を命じる勅書に署名しました。移住を率いた一人が、クリミアのキリスト教徒の長だったゴティア・カッファの府主教イフナティー(イグナティオス)です。最初の一団は1778年7月28日に出発し、9月18日にはほぼ終わりました。事典は、その年の終わりまでの不完全な公式の記録として、クリミアを出たキリスト教徒を3万1,386人、うちギリシャ人を1万8,395人と書いています。

移った人々は、すぐに住む土地を与えられたわけではありません。1778年から翌年の冬を仮の土地で過ごし、1779年秋から1780年春にかけての政府の決定で、ギリシャ人、グルジア人、ワラキア人に、西はベルダ川、東はカリミウス川、北はヴォウチャ川に囲まれた土地が割り当てられました(アルメニア人はドン川の下流に移っています)。ЕІУ は、ここに町マリウポリと21の村ができたと書いています。IEU によれば、村にはマンフシュ、サルタナ、スタルイ・クルイム、ヤルタなど、人々が出てきたクリミアの土地の名が付けられました。

「移住」と「強制移住」、事典の書き方

この出来事の書き方は、事典によって違います。カナダ・ウクライナ研究所の『インターネット版ウクライナ百科事典』(IEU)の項目「Greeks」(1989年の紙の版の再録)は、「1774〜83年に1万8,400人のギリシャ人がクリミアからアゾフ県へ強制的に移住させられた」と書きます。ЕІУ のバツァクの項目は、移住の勧誘には偽の情報や脅しによる直接・間接の強制がともなったとする一方で、多くのキリスト教徒は政情の不安から逃れ、外国人入植者としての特典を得るために、進んでロシアの臣民になることを選んだとも書いています。年の幅も、IEU は1774〜83年、ЕІУ は1778〜1780年と、数えている期間が違います。

年表:クリミアからマリウポリへ、そして20世紀

年出来事典拠
1771年イフナティーがゴティアの府主教としてクリミアのカッファ(いまのフェオドシヤ)に着くЕІУ(イフナティー)
1778年3月9日エカチェリーナ2世が、クリミアのキリスト教徒の移住を命じる勅書に署名ЕІУ(移住)
1778年7月28日〜9月18日移住の一団がクリミアを出る。年末までの記録でキリスト教徒3万1,386人、うちギリシャ人1万8,395人ЕІУ(移住)
1779年5月25日移住者の自治などの条件を認める皇帝の証書に署名(11月に府主教に渡る)ЕІУ(イフナティー)
1779年9月/1780年パウロウシクの町にマリウポリの名が与えられる(年は事典で分かれる。下の節)ЕІУ(マリウポリ)、IEU
1780年8月15日マリウポリの町の創設(ЕІУ の移住の項目の日付)ЕІУ(移住)
1781年マリウポリ郡のギリシャ人は1万4,483人ЕІУ(移住)
1870年代1779年に認められた学校と自治の権利を失うIEU
1897年エカテリノスラフ県にギリシャ人6万9,400人。大半がマリウポリ周辺IEU
1926〜1938年学校などを現代ギリシャ語(ディモティキ)に切りかえる「ヘレン化」の政策ЕІУ(ヘレン化)
1937年12月〜1938年はじめNKVD がでっち上げた組織の事件で、ギリシャ系の文化・教育の関係者が逮捕されるЕІУ
2001年12月5日国勢調査。ギリシャ人9万1,500人、うちドネツィク州7万7,500人国家統計委員会
ЕІУ はウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所『ウクライナ史百科事典』の各項目(移住=N・バツァク、イフナティー=M・ジャルキフ〈2021年〉、マリウポリ=O・バジャン〈2009年〉、ヘレン化=L・ヤクボヴァ〈2005年〉)。IEU は『インターネット版ウクライナ百科事典』の「Greeks」「Mariupol」。2026年9月確認。

マリウポリの始まりは1779年か1780年か

町の始まりの年は、項目によって書き方が違います。ЕІУ の項目「マリウポリ」(2009年)は、1778年にカリミウスの要塞の近くに郡の町パウロウシクが置かれ、1779年9月にポチョムキンの指示でマリウポリの名が与えられた、と書きます。同じ事典の移住の項目は「1780年8月15日にマリウポリの町が創設された」とし、IEU の項目「Mariupol」は「1780年にパウロウシクがマリウポリと改名された」と書いています。どの出来事を町の始まりと数えるかで、年が変わります。

移ったあとの最初の冬

ЕІУ によれば、1781年の公式の記録ではマリウポリ郡のギリシャ人は1万4,483人で、クリミアを出たときより3,912人少なくなっていました。IEU は、最初の二つの冬に寒さと食料・住まいの不足、病気で4,655人が亡くなったと書いています。

オリュカのひとこと

この人々の言葉には、系統の違う群があるそうです。この見出しで確かめられます。

ルメイとウルム:二つの言葉

アゾフ海沿岸のギリシャ系の人々は、住んだ村ごとに違う言葉を話してきました。IEU は、ギリシャ系の村のうち12がギリシャ語の方言を話す人々の村、10がタタール語に似た言葉を話す人々の村だったと書いています。

  • ルメイ(румеї):ギリシャ語の流れをくむ言葉を話す人々。『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ)の項目「Греки」(L・シュクリャル、2006年)は、この言葉を「ギリシャ語(現代ギリシャ語)の変化した形」と書いています。
  • ウルム(уруми):テュルク系の言葉を話す人々。ЕІУ の項目「ウルム」(M・アラジオニ、2021年)によれば、自分たちの言葉を「ウルムディリ(ウルム語)」と呼び、マリウポリ周辺のウルムの言葉にはオグズ系とキプチャク系が混じった四つの方言があります。

ЕІУ の同じ項目は、「ウルム」という名前は「ビザンツの人」「キリスト教徒」を意味し、ギリシャ語を話す人々が自分たちを呼ぶ「ルモイ」「ロミオス」をテュルク語に写したものだと説明しています。ウルムは自分たちを民族としてのギリシャ人と考えている、とも事典は書いています。ЕІУ によれば、ウルムはマリウポリの町と10の村をつくり、いまのスタロベシェヴェ、ヴェルイカ・ノヴォシルカ(ルメイと一緒に)、スタルイ・クルイム、マンフシュなどがその村にあたります。

  1. オリュカ

    二つの群は、昔はどんな名前で呼ばれていたのかな。

  2. タブリ

    昔の呼び名と自称が、この見出しの下の表に並んでいるよ。

  3. スウネ

    昔の区分がのちに使われなくなったことは、表の前の段落にあるね。

昔の呼び名/今の呼び名

20世紀の初めには、ウルムの言葉は「ギリシャ・タタール語」と呼ばれ、話す人々は「ギリシャ・タタール人」と呼ばれました。ЕІУ によれば、ウルム自身がロシア語やウクライナ語で外の人に説明するときにこの言い方を使い、研究者の一部もそれにならったため、ウルムの祖先をタタール人とする説や、ソ連で「ギリシャ・タタール人」という別の民族を立てる動きが生まれました。この区分は、のちに人為的なものとして使われなくなりました。ЕСУ も二つの群を「いわゆるギリシャ・タタール人」と「いわゆるギリシャ・ヘレン人、またはルメイ」と並べて書いています。

群20世紀の資料での呼び名自称(いまの呼び名)言葉
ギリシャ語系ギリシャ・ヘレン人(греки-елліни。ЕСУ はいまもこの呼び名を併記)ルメイ(румеї)ギリシャ語の流れをくむ言葉(ルメイカ)
テュルク語系ギリシャ・タタール人(греко-татари)ウルム(уруми)ウルム語(урумділі)。四つの方言
ЕІУ「ウルム」(2021年)、ЕСУ「Греки」(2006年)の記述から作成。2026年9月確認。

二つの群の成り立ちは、どう説明されてきたか

ウルムの成り立ちについて、ЕІУ は、アラン人、ゴート人、キリスト教化したテュルク系の人々などを祖先とする説が並び、長く議論が続いたと書いています。そのうえで、いまいちばん根拠のある説明は、ビザンツ時代のクリミアのキリスト教徒が、クリミア・ハン国の時代にクリミア・タタール人やトルコ人の言葉を使うようになった、というものだとしています。ЕСУ は、ルメイの群をウルムより「後から現れた群」と書いています。ここは研究者のあいだで説明が分かれてきた所で、この記事ではどちらとも決めません。

1920〜30年代の「ヘレン化」と言葉の選び方

ソ連のウクライナでは、1920年代に少数民族の言葉で学校や新聞をつくる政策が進められました。ЕІУ の項目「ヘレン化」(L・ヤクボヴァ、2005年)によれば、ギリシャ系の人々については、1926年から1938年にかけて、学校などを現代ギリシャ語の口語(ディモティキ)に切りかえる政策がとられました。ところが、方針を示した政府のギリシャ人部会の長S・ヤリ自身が、マリウポリのギリシャ語の方言と現代ギリシャ語は同じではないと書いていました。

事典によれば、1926/27年度に小学校の15の試行クラスで始まり、1929年からはマリウポリの教員養成の学校が教員を育てました。1930年には新聞『コレフティヴィスティス』が創刊され、マリウポリのギリシャ語の方言の調査も行われています。一方で、教科書はいつも足りず、住民の側も言葉の切りかえに備えができていなかった、と事典は書きます。事典は、1933年にウクライナの教育人民委員ザトンシキーが、この政策には同化の向きがあったと認めたことも挙げています。

1937〜1938年の逮捕

ЕІУ の項目(L・ヤクボヴァ、2004年)によれば、1937年12月から1938年はじめにかけて、NKVD はでっち上げた「ギリシャ人の反ソ組織」の事件を理由に、マリウポリ、スターリノ(いまのドネツィク)、ハルキウ、オデーサ、キーウで、ヘレン化の政策とギリシャ系の学校や文化の機関にかかわった人々をほぼすべて逮捕しました。

国勢調査の数字

ギリシャ系の人々の数は、調査の回と、どの範囲を数えたかで大きく違います。事典と統計局の数字を並べます。

調査ギリシャ人の数範囲と出どころ
1897年6万9,400人エカテリノスラフ県。IEU
1926年10万5,000人/約12万4,000人ソ連のウクライナ。前者は IEU、後者は ЕСУ(どちらもマリウポリ周辺が中心)
1959年10万4,400人ソ連のウクライナ。うちドネツィク州9万3,000人。IEU
1979年10万4,100人ソ連のウクライナ。IEU
1989年9万9,000人ソ連のウクライナ。ЕСУ
2001年9万1,500人ウクライナ。うちドネツィク州7万7,500人(州の人口の1.6%)。国家統計委員会
IEU「Greeks」(1989年の紙の版の再録)、ЕСУ「Греки」(2006年)、ウクライナ国家統計委員会「全ウクライナ国勢調査2001年 民族構成」。2026年9月確認。
  1. オリュカ

    同じ年の調査なのに、数が二つあるのはどうしてだろう。

  2. スウネ

    二つの事典の数と、差の理由が書かれていないことが、この見出しの下にあるよ。

  3. タブリ

    ほかの年の調査の数は、ひとつ上の見出しの表に戻れば並べて見られるよ。

1926年の数が二つあるのはなぜか

1926年の数は、IEU では10万5,000人(うちマリウポリ地方6万4,200人)、ЕСУ では約12万4,000人(うちマリウポリ地方9万7,000人)です。IEU は「ソ連のウクライナ」、ЕСУ は「ウクライナ」の数として書いていますが、どちらも差の理由を説明していないため、どこで差が出たのかは資料からは分かりません。

母語の数字も変わってきました。IEU によれば、1926年には81%がギリシャ語を母語としていましたが、1959年には8%でした。2001年の国勢調査では、ギリシャ人のうち自分の民族の言葉を母語とした人は6.4%、ウクライナ語は4.8%、ロシア語は88.5%です(国家統計委員会)。統計局の表は「自分の民族の言葉」を一つの項目にまとめており、ルメイの言葉とウルムの言葉、現代ギリシャ語を分けていません。

マリウポリとギリシャ系の人々

町の名前は、パウロウシク(1778〜1779年)からマリウポリになり、1948年から1989年まではソ連の政治家ジダーノフにちなんでジダーノフと呼ばれ、1989年1月にマリウポリに戻りました(ЕІУ)。IEU によれば、2001年の町の住民のうちギリシャ人は4.3%でした。

独立後、ギリシャとの結びつきは町の機関にも表れています。ЕІУ によれば、1991年に開いた人文系の学校が2005年にマリウポリ国立人文大学となり、ギリシャ系の文化の中心になりました。1997年にはギリシャの総領事館が開かれています。風景画家アルヒープ・クインジ(1842〜1910年)はマリウポリの生まれで、IEU は「ギリシャ系の風景画家」と書いています。料理では、クリミア・タタールの揚げパイ、チェブレキがマリウポリのギリシャ系の人々のあいだでは「チル=チル」と呼ばれることを、ウクライナの食卓の記事で紹介しています。19世紀にアゾフ海沿岸へ移ったブルガリア系の人々はブジャクのブルガリア系とガガウズの記事にあります。

2022年からのマリウポリ

マリウポリは、ロシアによる全面侵攻のなかで、IEU によれば2022年5月16日までウクライナ軍が守り、ウクライナ政府の一覧では同年5月21日からロシアの一時的な占領下にあります(2026年9月時点)。

出典と記事の記録出典 14件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. ПЕРЕСЕЛЕННЯ ХРИСТИЯН КРИМСЬКОГО ХАНАТУ ДО ПІВНІЧНОГО ПРИАЗОВ'Я 1778–1780背景、1778年3月9日の勅書、7月28日〜9月18日、31,386人・18,395人、割り当ての土地の範囲、1780年8月15日、21の村、1781年の14,483人と3,912人、強制と自発の両面。執筆 Н. І. Бацак
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  2. ІГНАТІЙ, Ігнатій Маріупольський1771年のカッファ到着、1778年7月16日の「クリミアのキリスト教徒の決定」、1779年5月25日の証書、1786年の死去。執筆 М. І. Жарких、2021年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  3. МАРІУПОЛЬパウロウシク1778〜79年、1779年9月の命名、1780年7〜8月の移住者の到着、ジダーノフ1948〜89年、1991年の人文系の学校と2005年の大学、1997年のギリシャ総領事館。執筆 О. Г. Бажан、2009年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  4. УРУМИ, самоназва тюркомовних греків України名の意味、マリウポリと10の村、ウルムディリ、四つの方言、ギリシャ・タタール人の呼び名、成り立ちの説。執筆 М. А. Араджиони、2021年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  5. ЕЛЛІНІЗАЦІЯ ГРЕЦЬКОГО НАСЕЛЕННЯ УКРАЇНИ 1926–1938ディモティキ、ヤリの論文、1926/27年度の15の試行クラス、1929年の教員養成、1930年の新聞、1933年のザトンシキー。執筆 Л. Д. Якубова、2005年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  6. «ГРЕЦЬКА АНТИРАДЯНСЬКА КОНТРРЕВОЛЮЦІЙНА ПОВСТАНСЬКА ШПИГУНСЬКА ПІДПІЛЬНА ОРГАНІЗАЦІЯ» 1937–1938でっち上げの事件、1937年12月〜1938年はじめの逮捕、町の名。執筆 Л. Д. Якубова、2004年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  7. ГРЕКИ В УКРАЇНІ2001年の91.5千人・ドネツィク州77.5千人、1778年以前のクリミアと1780年以後のマリウポリの共同体。執筆 Н. О. Терентьєва、2004年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  8. Греки二つの群〈いわゆるギリシャ・タタール人と、ギリシャ・ヘレン人またはルメイ〉、1926年の約12万4,000人、1989年の9万9,000人、2001年の数と6.4%。執筆 Л. Є. Шкляр、第6巻 2006年
    発行:Енциклопедія Сучасної України 確認日:2026-09-27
  9. Greeks1774〜83年の18,400人の強制移住、最初の二つの冬の4,655人、23の集落・12と10、1870年代の自治の喪失、1897・1926・1959・1979年の数と母語
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)。初出 Encyclopedia of Ukraine vol. 2(1989) 確認日:2026-09-27
  10. Mariupolパウロウシク、1780年の改名、2001年の町のギリシャ人4.3%、2022年5月16日
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)。2022年更新 確認日:2026-09-27
  11. Kuindzhi, Arkhyp1842年マリウポリ生まれ、1910年没、ギリシャ系の風景画家
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27
  12. 全ウクライナ国勢調査2001年 民族構成ギリシャ人91.5千人・0.2%、ドネツィク州77.5千人・1.6%
    発行:ウクライナ国家統計委員会 確認日:2026-09-27
  13. 全ウクライナ国勢調査2001年 言語構成ギリシャ人の母語:自分の民族の言葉6.4%、ウクライナ語4.8%、ロシア語88.5%、ほか0.3%
    発行:ウクライナ国家統計委員会 確認日:2026-09-27
  14. Перелік територій, на яких ведуться (велися) бойові дії або тимчасово окупованих Російською Федерацієюドネツィク州マリウポリ市:「Тимчасово окупована Російською Федерацією територія України」、開始日 21.05.2022、終了日なし。命令 № 376〈2025年2月28日〉の一覧、№ 987〈2026年5月26日〉による版の添付ファイル
    発行:Міністерство розвитку громад та територій України(最高会議の法令データベース掲載) 確認日:2026-09-28

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