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ウクライナの人・文化・社会・未来を、日本と世界につなぐ

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ソ連の時代

ホロドモール、「処刑されたルネサンス」、第二次世界大戦、チョルノービリ。ソ連の一共和国だった約70年の記事です。

記事44本

  1. 文化・歴史/解説

    ウクライナ映画ベスト100の18位、キーウのアニメ『ヴルンゲリ船長の冒険』

    『ヴルンゲリ船長の冒険』は、キーウの撮影所キーウナウクフィルムのアニメーション部門で作られた全13話のシリーズです。監督ダヴィド・チェルカスキーの経歴、監督が足したギャングの筋、資料ごとに違う作品の年、日本では『ほらふき船長航海記』の題で訳された原作、ロシア語の言葉遊びを見ていきます。

  2. 文化・歴史/解説

    枕の下の贈り物と、冬と春の二人のミコラ ── ウクライナの聖ミコライの日

    ウクライナでは、聖ミコライの日の前の夜に子どもの枕の下へ贈り物を置く家があります。二つの大きな教会の暦では、この日は2023年9月から12月19日ではなく12月6日になりました。4世紀の司教の伝説、冬と春の言い伝え、贈り物の習わしの由来をめぐる事典の書き方の違い、ソ連の時代のディド・モローズとの関係を、事典と教会の暦から見ていきます。

  3. 文化・歴史/解説

    公開まで20年待った『短い出会い』と、監督キーラ・ムラトワ

    1967年にオデーサ映画撮影所で完成した『短い出会い』は、およそ20年ほとんど上映されず、1971年の『長い見送り』とともに1987年に公開されました。監督キーラ・ムラトワの生涯を、事典、大統領令、ベルリン国際映画祭の記録で追い、資料ごとに違う年も並べます。

  4. 文化・歴史/解説

    キーウの黄金の門と、1982年の「1500年祭」

    キーウの黄金の門は、年代記の1037年の項に初めて現れるヤロスラウ賢公の町の正門です。いま見える塔と教会は、1982年の「キーウ建設1500年」に合わせて廃墟の上に建てられた覆い屋です。事典ごとの呼び方と、「1500年」が何を数えたのかを見ます。

  5. 社会を知る/解説

    ルメイとウルム、マリウポリに住みついたクリミアのギリシャ系の人々

    マリウポリとその周りの村は、1778年にクリミアを出たキリスト教徒が住みついてできました。子孫のギリシャ系の人々は、ギリシャ語の流れをくむ言葉を話すルメイと、テュルク系の言葉を話すウルムに分かれます。移住の年と人数、二つの呼び名、1920年代の言語政策、2001年の国勢調査の数字を、事典と統計で並べます。

  6. 文化・歴史/解説

    33本の学生映画から始まった、キーウの映画祭「モロジスト」

    キーウの国際映画祭「モロジスト」は、1970年に演劇大学の映画学部の学生作品を2日間で33本見せる上映会として始まりました。1993年に国際映画製作者連盟(FIAPF)に国際映画祭として登録され、2025年秋に第54回を開いています。始まりの経緯、「国際」になった時期、2020年の延期と2022年12月の開催まで、主催者と事典の記録から並べます。

  7. 文化・歴史/解説

    歌、映画、音楽祭、記念日。「チェルヴォナ・ルータ」の56年

    作曲家ヴォロディーミル・イヴァシュクの歌「チェルヴォナ・ルータ」は、1970年9月、チェルニウツィーのテレビ番組で初めて放送されました。1971年には同じ題の音楽映画が作られ、1989年には歌の名を付けた音楽祭がチェルニウツィーで始まっています。2026年5月、最高会議はこの音楽祭の日にちなむ「ウクライナ音楽の日」を定めました。

  8. 日本とのつながり/解説

    『羅生門』から『羊をめぐる冒険』まで。日本の小説のウクライナ語訳

    1971年、キーウで芥川龍之介の短編集が日本語からウクライナ語に訳されて出ました。1920年代のハルキウの日本研究から、物理学者で翻訳者のイヴァン・ジューブ、辞書をつくったイヴァン・ボンダレンコまで、日本の文学をウクライナ語にしてきた人たちを百科事典と図書館の目録からたどります。

  9. 社会を知る/解説

    ウクライナの国勢調査は2001年が最後。予定は5回動いて取り消された

    ウクライナで最後に国勢調査が行われたのは2001年12月5日です。次の調査の予定は、内閣の決定で2011年から2012年、2013年、2016年、2020年、2023年と5回動き、2023年10月に取り消されました。1897年からの国勢調査の年表と、戒厳令のあいだは行わないと定めた法律の条文を並べます。

  10. 社会を知る/解説

    ヴォリーニ地方に来たチェコ人。6万5千人から5,917人へ

    19世紀の後半、ロシア帝国で農奴制が廃止されたあと、チェコの農民がウクライナ北西部のヴォリーニ地方に村をつくりました。20世紀の初めに約6万5千人いたウクライナのチェコ人は、2001年の国勢調査では5,917人です。移住の経過と人数の移り変わり、1947年と1990年代の移住を、二つの事典とチェコの統計局・議会の記録で追います。

  11. 社会を知る/解説

    1918年、ヘーチマンの法律で生まれたウクライナの科学アカデミー

    ウクライナ国立科学アカデミーは、1918年11月14日にヘーチマンのスコロパツキーが署名した法律から始まりました。13日後の最初の総会で、地質学者ヴェルナツキーが総裁に選ばれています。名前は4回変わり、2026年3月時点で159の研究機関を抱えます。設立の日の数え方、名前と総裁の年表、職員の数を並べます。

  12. 社会を知る/解説

    原発で働く人のために1986年に計画された町、スラヴティチ

    スラヴティチは、チョルノービリ原発の事故のあと、発電所の職員と家族が暮らす町として1986年10月に建設が決まりました。ソ連の八つの共和国が建設に加わり、町は14の街区に分かれています。発電所への通勤、人口の移り変わり、2022年3月の占領までを、市と発電所、統計局の資料でたどります。

  13. ビジネス・復興/解説

    1934年に生まれたキーウの溶接研究所と、全溶接のパトン橋

    キーウのドニプロ川に架かるパトン橋は、1953年11月5日に開通した長さ約1.5kmの全溶接の橋です。橋の名は、溶接の研究所を1934年に立ち上げた橋の技師イェウヘン・パトンから来ています。研究所の歩み、「世界初」という言い方の出どころ、研究から生まれた事業、70年を過ぎた橋の状態を並べます。

  14. 文化・歴史/解説

    22年公開されなかった『渇いた者の井戸』と、ウクライナの詩的映画

    1965年に撮られたユーリー・イリエンコ監督の『渇いた者の井戸』は「思想的な逸脱」を理由に棚に置かれ、公開は1987年でした。『火の馬』のあと、キーウの撮影所で続いた「詩的映画」の主な作品と、事典と所蔵機関で食い違う製作年、1974年に閉じられた経緯、そして「詩的映画」という呼び名の出どころをまとめます。

  15. 社会を知る/解説

    スルジクを話すのは1割か2割か。数え方で変わる、混ざった言葉

    ウクライナ語とロシア語が混ざった話し言葉「スルジク」。名前は混ぜた穀物の粉に由来します。話す人の割合は、調査員が聞いて判定すると11〜18%、本人に尋ねると「両方を同じくらい」が2割近く。辞典と事典の説明、調査の数字が分かれる理由、評価の違い、文学と舞台での使われ方を並べます。

  16. 文化・歴史/解説

    ほとんど台詞のない三人のコサック。アニメ『コサックたち』

    フライ、オコ、トゥルの三人のコサックが、粥を煮て、サッカーをして、花嫁を救い出す。1967年にキーウの撮影所で始まったヴォロディーミル・ダフノ監督のアニメーション『コサックたち』の作品一覧、資料で食い違う本数と最終作の年、編集台帳に残る言葉、撮影所の名前の移り変わりを、ドヴジェンコ・センターの資料と事典からまとめました。

  17. 文化・歴史/解説

    1932年10月、ハルキウの研究所がリチウムの原子核を壊した

    ハルキウ物理技術研究所は1928年に生まれ、1932年10月10日、加速した陽子でリチウムの原子核を壊す実験に成功しました。同じ年のケンブリッジの実験との関係、ランダウの理論部門、1930年代の逮捕、「中性子源」施設の2022年からの被害までを、事典とIAEAの発表でたどります。

  18. 社会を知る/解説

    役人は1年でウクライナ語を。1923年に始まった「ウクライナ化」

    1923年8月1日、ソ連ウクライナ政府は、職員に1年でウクライナ語とロシア語を身につけるよう命じ、できなければ解雇すると定めました。ソ連全体の「現地化」の一部として始まったウクライナ化の決定の中身、首都ハルキウでの進み方、学校や新聞の数字、1930年代初めに方針が覆るまでをたどります。

  19. 社会を知る/解説

    カルパティアの山のウクライナ人、フツル・ボイコ・レムコ

    フツル、ボイコ、レムコは、カルパティア山地に暮らしてきたウクライナ人の民族誌的な集団です。東から西へ並んで住み、畑の少ないフツル地方は放牧で暮らしてきました。最も西のレムコ地方は大部分がいまのポーランドとスロバキアにあり、1944〜1947年の移住で多くの人がウクライナの平野部やポーランドの各地へ移されました。

  20. ビジネス・復興/解説

    ミサイルの設計局から宇宙ロケットへ、ドニプロの「ピウデンネ」

    ドニプロの設計局「ピウデンネ」は、1954年に工場の中につくられ、ソ連の戦略ミサイルから宇宙ロケット「コスモス」「ツィクロン」「ゼニート」、米国のロケット「アンタレス」の第1段までを手がけてきました。設計局と工場の成り立ち、宇宙ロケットの系譜、ブラジルとの計画の中止をたどります。

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