キーウの黄金の門と、1982年の「1500年祭」
キーウの黄金の門は、年代記の1037年の項に初めて現れるヤロスラウ賢公の町の正門です。いま見える塔と教会は、1982年の「キーウ建設1500年」に合わせて廃墟の上に建てられた覆い屋です。事典ごとの呼び方と、「1500年」が何を数えたのかを見ます。
オリュカのひとこと
黄金の門は、いつ記録に現れたのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
キーウの中心部、ヴォロディーミルスカ通りのそばに、塔の上に小さな教会を載せた建物が立っています。「黄金の門」(ウクライナ語でゾローティ・ヴォロータ、Золоті ворота)です。けれども、いま目に入る塔と教会は11世紀のものではありません。1982年、「キーウ建設1500年」の記念に合わせて、11世紀の門の廃墟を覆うように建てられたものです。
ウクライナの『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ)によれば、建物の壁には「黄金の門。11世紀の建築記念物の再現された姿。工事はキーウ市1500年祭までに行われた。1982年5月」と記した銅板が掛かっています。以下、年代記、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(以下ЕІУ)、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、ВУЕの記述によって、門の成り立ちと、1982年の建物と「1500年」がそれぞれ何を指しているのかを見ていきます(2026年9月時点)。
年代記の1037年の項
黄金の門が初めて文字に現れるのは、キーウ・ルーシの年代記『過ぎし年月の物語』の6545年(西暦1037年)の項です。1926年に刊行された校訂本(『ロシア年代記全集』第1巻、ラヴレンチー写本)は、この項を次のように始めています。
「ヤロスラウは大きな町を築いた。その町には黄金の門がある。また聖ソフィア、府主教の教会を築き、そのあとで黄金の門の上に聖なる生神女の福音(受胎告知)の教会を建てた」
ラヴレンチー写本、6545年の項(校訂本第151段)。歴史家レオニード・マフノヴェツのウクライナ語訳(1989年、イパーチー写本による)と照らしてこの記事で訳したもの
「ヤロスラウ」はキーウ大公ヤロスラウ賢公です。マフノヴェツ訳が底本にしたイパーチー写本の同じ項には、門の上の教会が石造りだったこと、町に福音の喜びをもたらすために建てた、という説明も加わっています。年代記という本そのものの成り立ちは『過ぎし年月の物語』の写本の記事で扱っています。
「1037年に建てた」と「1037年の項に出てくる」
資料によって、1037年という年の書き方は少しずつ違います。IEUは門を「1037年に建て始めた」と書きます。ЕІУは「『過ぎし年月の物語』の1037年の項で初めて言及される」とし、ВУЕは「おおよそ1037年」に建てられたとしています。年代記の1037年の項は、町と聖ソフィア大聖堂と門の教会をまとめて書いた項で、マフノヴェツは注で、イパーチー写本のこの項を、ヤロスラウ賢公の60歳を記念する項だとみています。同じ項に出てくる聖ソフィア大聖堂の建立年も1011年説と1037年説に分かれていて、聖ソフィア大聖堂の記事で扱っています。
ヤロスラウの町の正門
ЕІУ「キーウ」によれば、ヤロスラウ賢公は、父ヴォロディーミルの時代のおよそ10ヘクタールの町よりはるかに大きな城塞の町を築きました。「ヤロスラウの町」の城壁は木の胸壁を含めて高さ16メートルに達し、長さは3.5キロメートルを超え、およそ80ヘクタールを囲んでいました。門は三つあり、そのうちの正門が黄金の門でした。
ЕІУ「キーウの黄金の門」は、門の両側に木と土の土塁が迫り、門の外には二重の堀が掘られ、主な堀の幅は15メートルあったと書きます。門の上には四本柱の福音教会が載り、発掘で見つかった品からモザイクとフレスコで飾られていたことが分かっています。IEUとЕІУはどちらも、この門が、いまのロシアのウラジーミルにアンドレイ・ボゴリュプスキー公が建てた「黄金の門」(IEUによれば1160年代)の手本になったと書いています。
オリュカ
「黄金の門」という名前は、どこから来たのかな。
スウネ
事典ごとに由来の書き方が違うことが、この見出しの下に並べてあるよ。
タブリ
門が町のどこにあったかは、ひとつ上の見出しの本文に戻れば読めるよ。
「黄金」の名はどこから来たのか
名前の由来は、事典によって書き方が違います。
- IEU:由来は分かっていないとしたうえで、教会の屋根が金で覆われていた可能性、門扉の銅の金具や金めっき、コンスタンティノープルの黄金の門にならった可能性の三つを挙げる
- ЕІУ:ビザンツの伝統にならった名である可能性が最も高いとする。ビザンツの大きな町では、十字行などの儀式の行列が通る門を「黄金」と呼んだ。門に金めっきの跡は見つかっておらず、文字の資料にも金めっきの記録はない
- ВУЕ:ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの正門から名を借りたと書く
廃墟から覆い屋まで
門はその後、町の歴史の出来事の舞台になり、やがて土に埋められ、掘り出され、1982年に新しい建物で覆われました。三つの事典の記述を年の順に並べると次のようになります。
| 年 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1037年 | 年代記の6545年の項に、ヤロスラウの町と黄金の門、門の上の福音教会が出てくる | ラヴレンチー写本(校訂本)、ЕІУ |
| 1160年代 | ウラジーミルに黄金の門が建てられる。キーウの門が手本とされる | IEU(年も)、ЕІУ(年は書かない) |
| 1240年 | モンゴルの軍勢によって一部が壊される | IEU、ВУЕ |
| 1648年 | ボフダン・フメリニツキーの軍が、ポーランド軍に勝ったのち門を通ってキーウに入る | IEU、ВУЕ |
| 1651年 | オランダの画家アブラハム・ファン・ヴェステルフェルトが、教会の残る廃墟を描く | IEU、ЕІУ、ВУЕ |
| 1750年 | 保存のため、技師ダニイル・デボスケトの案で土に埋め、通路は横に移す(ВУЕは「18世紀半ば」) | ЕІУ、IEU、ВУЕ |
| 1832年 | 考古学者キンドラト・ロフヴィツキーが掘り出す(ЕІУは1832〜1833年) | IEU、ЕІУ、ВУЕ |
| 1835〜1837年 | 控え壁や鉄のつなぎで補強し、屋根と鉄柵を設ける | ВУЕ |
| 1915年・1927年・1948年 | 部分的な発掘 | ЕІУ |
| 1972〜1973年 | 考古学者セルヒー・ヴィソツキーが大規模な調査を行う | ЕІУ |
| 1982年 | 廃墟の上に、11世紀の姿を推定した建物を建てる | ЕІУ、ВУЕ、IEU |
門がいつまで門として使われていたかは、事典で書き方が違います。IEUは16世紀半ばまで通路として使われたと書き、ЕІУは18世紀半ばまで町の正門として働き、番兵が詰め、通行税を取っていたと書いています。ВУЕは、16〜17世紀の資料が門を廃墟の状態で記録していると書きます。
1982年の建物は「復元」なのか
1982年に建った建物を何と呼ぶかは、資料によって違います。建物の中身は同じでも、呼び方が指しているものが違います。
オリュカ
いまの建物は、復元された門と呼んでいいのかな。
ヨリクネ
事典ごとの呼び方と、それが何を指しているかが、この見出しの下にあるよ。
スウネ
残っている壁の寸法も事典で違うことは、次の見出しの表で見比べられるよ。
「復元された門」と「保存のための覆い屋」
- IEU:写真の説明で「復元された黄金の門」、項目の本文で「1980年代初めに最後に修復された」、「キーウ」の項で「1982年に復元された」と書く
- ЕІУ:「1982年、遺構の上に古代ルーシの時代の推定の形で覆い屋(パヴィリオン)を建てた」と書き、設計者として建築家イェウヘニア・ロプシンシカ、ヴィソツキー、ミコラ・ホロステンコの名を挙げる。11世紀の本物の部分は新しい建物の重さを受けていない
- ВУЕ:「保存のための覆い屋」と呼び、その形は門の11世紀の「仮定の」姿を再現したもの、とする。覆い屋は独立した基礎を持ち、鉄筋コンクリートの構造は本物の遺構に載っていない。そして「1982年に建てた覆い屋は、文化財ではない」と明記する
銅板にある「再現された姿」という言い方は、ВУЕの説明と同じ向きです。覆い屋の中は、国立保護区「ソフィア・キーウスカ」の一部門の博物館になっています(ЕІУ、ВУЕ)。
残っている11世紀の壁の寸法
11世紀の門で残っているのは、平行に並ぶ二つの壁(塔の脚にあたる部分)です。その寸法は、事典によって数字が違います。測った場所や基準が違うためとみられますが、どの資料もその基準までは書いていません。
| 項目 | IEU | ЕІУ(2005年) | ВУЕ(2021年) |
|---|---|---|---|
| 残る二つの壁の長さ | 記載なし | 東25m、西12m | 24mと13m |
| 通路の幅 | 最大7.5m | 6.5m(柱形のあいだ) | 7.5m |
| 通路の高さ | 12m | 中央の天井まで11m超(11世紀の地面から) | 14m |
| 通路の長さ | 記載なし | 約26m | 25m |
| いま残る部分の高さ | 記載なし | 8m(いまの地面から) | 記載なし |
オリュカのひとこと
町の始まりの年は、どう決められたのでしょう。この見出しで確かめられます。
「キーウ1500年」は何を数えたのか
1982年の工事が目指した「キーウ1500年」は、年代記に年が書かれている出来事ではありません。年代記はキーウの町の起こりを、ポリャーネの人々の公キイと兄弟のシチェク、ホルィウ、妹のリービジの話として、年を付けずに語っています(『過ぎし年月の物語』の写本の記事)。
IEU「Kyiv」(2017年更新)は、「ソビエトの歴史学によれば、キーウは5世紀後半か6世紀初めに創建され、1982年に1500年祭が公式に祝われた」と書いています。ЕІУ「キーウ」(2007年)は、考古学と文字の資料から、古いキーウの途切れない発展の始まりを5世紀末から6世紀前半とする根拠が歴史家にあると書き、その中心は城山(ザムコヴァ・ホーラ)だったとしています。ВУЕの黄金の門の項は、1982年の工事を「いわゆる1500年祭」に合わせたものと書いています。
1982年から1500年をさかのぼると482年になります。しかし、この記事で使った三つの事典のどれも「482年」という年を挙げていません。事典が書いているのは「5世紀後半から6世紀初め」「5世紀末から6世紀前半」という幅で、1982年という祝いの年は、その幅の中から選ばれたものです。
世界遺産との関係
ユネスコの世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築群、キーウ・ペチェールシク大修道院」(1990年登録)について、ユネスコの物件ページは、聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築群、ベレストヴェの救世主教会を含むキーウ・ペチェールシク大修道院の二つの構成資産からなると説明しています。黄金の門は、構成資産の名前には挙がっていません。ВУЕは、2005年に聖ソフィア側の緩衝地帯が広げられ、2021年に二つの構成資産を合わせた一つの緩衝地帯(476.08ヘクタール)が定められたと書いています。ウクライナの世界遺産の一覧はウクライナの街と世界遺産の記事にまとめています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Лаврентьевская летопись(Полное собрание русских летописей. Т. 1、1926〜1928年)第150〜151段、6544年・6545年の項黄金の門、聖ソフィア、門の上の福音教会
発行:Академия наук СССР(電子版:Ізборник) 確認日:2026-09-27 - Літопис руський за Іпатським списком, переклав Леонід Махновець(1989年)の6545年(1037年)の項と注1ヤロスラウの60歳の記念の項とみる注
発行:Дніпро(電子版:Ізборник) 確認日:2026-09-27 - ЗОЛОТІ ВОРОТА в Києві執筆 Г. Ю. Івакін、第3巻、2005年。1037年の項、名の由来、土塁と堀、18世紀半ばまでの正門、1750年の埋め戻し、1832〜1833年の発掘、遺構の寸法、1972〜1973年の調査、1982年の覆い屋と設計者、ソフィア・キーウスカの一部門
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27 - КИЇВ執筆 П. П. Толочко、Г. Ю. Івакін、Я. В. Верменич、第4巻、2007年。キイの伝説、5世紀末〜6世紀前半の発展の始まり、ヤロスラウの町の城壁と三つの門
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27 - Золоті ворота в Києві執筆 В. В. Вечерський、2021年12月31日公開。1037年ごろの建設、名の由来、1648年、18世紀半ばの埋め戻し、1832年の発掘と1835〜1837年の補強、遺構の寸法、1982年の覆い屋は文化財ではないこと、銅板の文言
発行:Велика українська енциклопедія(Державна наукова установа «Енциклопедичне видавництво») 確認日:2026-09-27 - Київ: собор Святої Софії та прилеглі монастирські будівлі, Києво-Печерська лавра執筆 В. В. Вечерський、2024年公開・同年更新。緩衝地帯の2005年の拡張と2021年の一本化、476.08ha
発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-27 - Golden Gate1037年の着工、通路の高さと幅、名の由来の三つの可能性、ウラジーミルの門、1240年、16世紀半ばまでの使用、1648年、1651年の絵、1750年、1832年、1980年代初めの修復
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - Kyiv2017年更新。キイ・シチェク・ホルィウ、ソビエトの歴史学による5世紀後半〜6世紀初めの創建と1982年の1500年祭、「1982年に復元された」黄金の門
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - Kyiv: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kyiv-Pechersk Lavra二つの構成資産、1990年登録、緩衝地帯476.08ha
発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-27
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