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文化・歴史/解説

1946年に消され、43年後に地上へ戻ったギリシャ・カトリック教会

東方の典礼を守りながらローマ教皇と結ぶウクライナ・ギリシャ・カトリック教会は、1596年の合同から始まりました。1946年のソ連による「公会」で解体され、地下で礼拝を続け、1989年に再び認められるまでの歩みと、2025年の調査に表れた信徒の広がりをまとめます。

オリュカのひとこと

東方の典礼を守りながらローマ教皇と結ぶとは、どういうことでしょう。1596年の合同の節から見てみましょう。

ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会(Українська греко-католицька церква、略してУГКЦ、英語ではUGCC)は、礼拝の形は正教会と同じ東方(ビザンティン)の典礼を守りながら、ローマ教皇の権威を認めてカトリック教会と交わりを持つ教会です。Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU、アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS)の「Ukrainian Catholic church」の項は、こうした東方典礼のカトリック教会を、位階・教会法・典礼・文化の面で自治を持つ「固有の教会」と説明しています。

民間の調査機関ラズムコフ・センターが2025年11月に行った世論調査では、「ギリシャ・カトリック」を自分の宗教と答えた人は回答者全体の11.8%で、西部では39.8%にのぼりました。ほかの地域では0.4〜2.5%です。西部に信徒が集まっているのは、この教会がたどってきた歴史と深く結びついています。

1596年、ベレスチャの合同

教会の出発点は、1596年のベレスチャ(ブレスト)の教会合同です。IEUの「Church Union of Berestia」の項によれば、ポーランド・リトアニアにあったルーシ(ウクライナ・ベラルーシ)の正教会は、教皇を教会の首長と認め、その代わりに教皇は東方の典礼と、キーウ府主教区の行政上の権利と自治を保つことを認めました。

合同は、1595年12月23日の教皇勅書と、翌1596年2月23日の勅書「Decet Romanum Pontificem」で権利が定められ、同年10月16日から20日にベレスチャで開かれた教会会議で宣言されました。ただ、この会議は合同に賛成する側と反対する側に割れ、二つの会議が並行して開かれています。府主教と5人の主教が合同を受け入れた一方、反対派は正教会にとどまり、互いを破門しました。ルーシの教会はここから二つに分かれます。キーウ・ルーシから16世紀までの流れはキーウ・ルーシから16世紀までで扱っています。

合同の教会が根づいたのは、のちにオーストリア領となるガリツィア(ハールィチナ)などの西部でした。リヴィウの主教区は1700年に合同に加わっています。反対に、ロシア帝国に組み込まれた地域では、合同の教会は力で廃止されました。IEUは、右岸ウクライナとヴォルィーニではエカテリーナ2世のもとで、残りの地域ではニコライ1世のもとで(1839年)、ホルム地方ではアレクサンドル2世のもとで(1875年)と書いています。ガリツィアとザカルパッチャの教会は、オーストリア=ハンガリーの統治下(1772〜1918年)で生き残りました。

第二次世界大戦の前後

20世紀前半の教会を率いたのは、アンドレイ・シェプティツキー府主教です。IEUによれば、1901年1月にハールィチの府主教に就き、1944年11月1日にリヴィウで亡くなるまでその地位にありました。ナチス・ドイツの占領下では、1942年の初めにハインリヒ・ヒムラーへ手紙を送ってユダヤ人の扱いに抗議し、ユダヤ人をかくまったことも記されています。教会の公式サイトも、リヴィウの聖ユーラ大聖堂や修道院に数百人のユダヤ人がかくまわれたと書いています。

当時の規模について、IEUの「Lviv Sobor of 1946」の項は、1938年の統計でハールィチ府主教区に2,354人の教区・修道司祭と340万人の信徒がいたとしています。教会の公式サイトは、1939年の時点で2,387の教区と360万人の信徒がいたとしています。数え方の年と範囲が違うため、数字は一致しません。

1946年3月の「リヴィウ公会」

戦後、ソ連の支配が西部に戻ると、教会は解体されます。IEUによれば、1945年4月11日、シェプティツキーの後継者ヨシフ・スリピー府主教とほかの主教たちが逮捕され、1946年6月に「祖国への裏切り」とドイツ占領軍への協力の罪で強制労働収容所への長い刑を言い渡されました。教会の公式サイトは、ソ連の治安機関が「ドイツへの協力」の事件をでっち上げたと書いています。

主教のいない教会で、当局の後押しを受けた「発起グループ」が、ロシア正教会との「再合同」を進めました。IEUによれば、逮捕された主教が誰も正教への移籍に応じなかったため、モスクワ総主教庁は1946年2月、グループの指導者2人を正教の主教に叙階しています。

そして1946年3月8日から10日、リヴィウの聖ユーラ大聖堂で「公会」が開かれました。IEUによれば、聖職者216人と信徒19人が「招かれ」、議題は開会まで知らされず、初日にベレスチャの合同を廃止してロシア正教会に「戻る」決議が、討論のないまま挙手で「全会一致」で採択されました。IEUはこの会議を「入念に演出された見せ物」と書き、教会の公式サイトは「偽りの公会」と呼んで、教会法上も国の法律上も正当なものではなかったとしています。同じ手法で、ザカルパッチャ(1949年)とチェコスロバキアのプレショウ(1950年)の教会も吸収されました。

地下の教会

公会のあと、正教への移籍を拒んだ司祭や修道者は弾圧を受けました。教会の公式サイトによれば、1945年から1946年だけで800人を超える司祭が逮捕され、10年から25年の刑を言い渡されました。拘束された主教の多くは、収容所や監獄で亡くなっています。

それでも教会は地下で続きました。公式サイトの記述では、礼拝は個人の家や閉ざされた教会のそばで、多くは夜、戸を閉めカーテンを引いて行われ、集まるのは数人から数十人でした。司祭の養成も秘密に続けられ、1945年から1989年までに15人の主教がひそかに叙階されています。スリピー府主教は18年を監獄・収容所・流刑地で過ごし、1963年2月に釈放されてローマへ移りました(IEU)。

1989年、地上へ

1980年代後半、ソ連の締めつけがゆるむと、教会は公然と姿を現します。教会の公式サイトによれば、1987年8月4日付で、主教パウロ・ヴァスィリクに率いられた司祭23人と信徒が地下から出ることを表明しました。1989年5月18日にはモスクワで主教たちがハンガーストライキを始め、聖職者と信徒が入れ替わりながら5か月にわたって続けました。1989年9月17日には、リヴィウで聖ユーラ大聖堂へ向かう大規模な行進が行われています。

合法化の日付は、資料によって書き方が違います。教会の公式サイトは、1989年11月28日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国の閣僚会議付属宗教問題評議会が声明を出し、ギリシャ・カトリックの信徒が共同体をつくり登録する権利を認めたとしています。これは、12月1日のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフの会談の直前でした。IEUの「Lviv Sobor of 1946」の項は、1989年12月1日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国の当局が教会を合法化したと書いています。

年月日出来事出典
1596年10月16〜20日ベレスチャの教会会議。合同を宣言する側と反対する側に分かれるIEU
1945年4月11日スリピー府主教とほかの主教が逮捕されるIEU・教会の公式サイト
1946年3月8〜10日リヴィウの聖ユーラ大聖堂で「公会」。合同の廃止を決議IEU・教会の公式サイト
1963年2月スリピー府主教が釈放され、ローマへIEU
1989年11月28日宗教問題評議会の声明で、共同体の登録が認められる教会の公式サイト
1989年12月1日ヨハネ・パウロ2世とゴルバチョフの会談(IEUはこの日を合法化の日とする)教会の公式サイト・IEU
1990年1月23日リヴィウで教会の会議。1946年の公会の決定は無効と宣言教会の公式サイト
1991年3月30日首長ミロスラウ・ルバチフスキー枢機卿がローマからリヴィウへ移るIEU・教会の公式サイト
2005年8月21日首長の座所がリヴィウからキーウへ移る教会の公式サイト
Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)の「Church Union of Berestia」「Lviv Sobor of 1946」「Ukrainian Catholic church」の各項と、ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の公式サイトの沿革から作成(2026年9月24日確認)。

1990年には聖ユーラ大聖堂が教会に戻されました。1992年5月にリヴィウで開かれたシノドも、1946年の公会を教会法に反するものとして非難しています(IEU)。

キーウへ移った座所

教会の公式サイトによれば、当時の首長リュボミル・フザールは2004年、首長の座所をリヴィウからキーウへ移すことを決め、2005年8月21日が正式な移転の日とされています。この日から首長は「キーウ・ハールィチ上級大司教」の称号を名乗っています。2011年3月にはスヴャトスラウ・シェウチュークが首長に就きました。ウクライナ国内の教会のうち、ザカルパッチャのムカチェヴォ主教区は、いまも首長の管轄に入らない別の教会として自治を保っています。

教会は自らを、東方のカトリック教会のなかで最大の教会だと説明し、公式サイトでは信徒を650万人を超えるとしています。これは国外の信徒を含む教会自身の数字で、独立に集計されたものではありません。

全面侵攻と占領地の教会

ロシアによる2022年2月24日の全面侵攻のあと、占領地では教会の活動が止められています。教会の公式サイトによれば、ロシアが占領したザポリッジャ州の一部で、ロシアの占領当局の長は2022年12月26日付の「命令」で、この教会と、奉仕活動をする「コロンブス騎士会」「カリタス」の活動を禁じ、教会の財産を占領当局に移すよう命じました。教会がこの文書を知ったのは2023年12月だったとしています。

同じ州のベルジャンシクでは、2022年11月16日に教会の司祭2人が占領当局に拘束されました。教会の発表によれば、2人は2024年6月28日、ローマ教皇庁の仲介で釈放されています。

暦の面では、教会は2023年9月1日から、クリスマスなど日付の決まった祝日を新しい暦で祝っています。経緯はウクライナのクリスマスは1月7日から12月25日へで扱いました。ウクライナの正教会が二つに分かれている事情はOCUとUOCの記事にまとめています。

オリュカのひとこと

信徒の広がりは、どんな調査で、いつ測ったものでしょう。調査の時点と対象を確かめてから数字を読みましょう。

調査に表れる信徒の広がり

冒頭のラズムコフ・センターの調査は、2025年11月22日から29日に、政府の管理下にあり戦闘が行われていない地域で、18歳以上の2,009人に対面で行われました。同センターは、2014年以降、ギリシャ・カトリックと答える人の割合が8%から12%に増えたと書いています。宗教共同体の会員だと答えた人に限ると、ギリシャ・カトリックの共同体の会員は回答者全体の7%でした。

同じ調査で、ロシアの人々が戦争に責任を負っているという意見に同意したのは、ギリシャ・カトリックの信徒の97%でした。ソ連の崩壊は悪い結果より良い結果が多かったという意見に同意した人も89%で、どちらも調査で示されたほかの宗派の集団より高い割合です。1946年に教会を消されたという記憶が、いまの信徒の見方にどう結びついているかは、この調査からは分かりません。ただ、ソ連の支配で公には存在を許されなかった教会が、独立を控えたウクライナで地上に戻り、首都キーウに座所を置くまでになった歩みは、数字の背後にある歴史として押さえておく価値があります。

出典・参考資料

  1. Church Union of Berestia(紙版は1984年刊行の第1巻が初出。執筆:Atanasii Velyky。合同の内容、1595年12月23日・1596年2月23日の勅書、1596年10月16〜20日の会議の分裂、府主教と5人の主教、リヴィウ主教区の1700年の合同、ロシア帝国での廃止〈1839年・1875年〉、1946〜50年の廃止)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  2. Lviv Sobor of 1946(紙版は1993年刊行の第3巻が初出。執筆:Bohdan R. Bociurkiw。1938年の統計、1945年4月11日の逮捕と1946年6月の判決、1946年2月の主教叙階、1946年3月8〜10日の公会・聖職者216人と信徒19人・挙手の「全会一致」、1949年・1950年の吸収、1989年12月1日の合法化)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  3. Ukrainian Catholic church(紙版は1993年刊行の第5巻が初出。執筆:Wasyl Lencyk, Vasyl Markus。東方典礼の「固有の教会」、1963年2月のスリピーの釈放、1990年の聖ユーラ大聖堂の返還、1991年3月30日の首長の移転、1992年5月のシノド)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  4. Sheptytsky, Andrei(紙版は1993年刊行の第4巻が初出。1901年1月の府主教就任、1944年11月1日の死去、1942年初めのヒムラーへの抗議の手紙、ユダヤ人の保護)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  5. Історія УГКЦ:Псевдособор і ліквідація(1939年の規模、1945年4月11日の逮捕、事件のでっち上げ、「偽りの公会」、聖ユーラ大聖堂でのユダヤ人の保護)
    発行:Українська Греко-Католицька Церква(ugcc.ua) 確認日:2026-09-24
  6. Історія УГКЦ:Церква в підпіллі(1945〜46年の800人超の逮捕と10〜25年の刑、15人の地下の主教、夜の礼拝)
    発行:Українська Греко-Католицька Церква(ugcc.ua) 確認日:2026-09-24
  7. Історія УГКЦ:Патріарх Йосиф Сліпий(18年の拘禁)
    発行:Українська Греко-Католицька Церква(ugcc.ua) 確認日:2026-09-24
  8. Історія УГКЦ:Церква сьогодні(2011年3月の首長交代、ムカチェヴォ主教区の自治、650万人を超える信徒という教会の説明)
    発行:Українська Греко-Католицька Церква(ugcc.ua) 確認日:2026-09-24
  9. Історія УГКЦ:Відродження Церкви (1989)(1987年8月4日の表明、1989年5月18日からのハンガーストライキ、9月17日の行進、11月28日の宗教問題評議会の声明、12月1日の会談、1990年1月23日の会議、1991年3月30日)
    発行:Українська Греко-Католицька Церква(ugcc.ua) 確認日:2026-09-24
  10. Історія УГКЦ:Повернення до Києва(2004年の決定、2005年8月21日の座所の移転と称号、東方のカトリック教会で最大という説明)
    発行:Українська Греко-Католицька Церква(ugcc.ua) 確認日:2026-09-24
  11. Окупаційна влада рф заборонила діяльність УГКЦ на окупованій частині Запорізької області (документ)(2022年12月26日付の「命令」、禁止の範囲、財産の移転、2023年12月に判明、2022年11月16日の司祭の拘束)
    発行:Українська Греко-Католицька Церква(ugcc.ua) 確認日:2026-09-24
  12. Священників УГКЦ Івана Левицького та Богдана Гелету звільнили з російського полону(2024年6月28日の釈放、教皇庁の仲介)
    発行:Українська Греко-Католицька Церква(ugcc.ua) 確認日:2026-09-24
  13. Рівень релігійності, конфесійний і церковний розподіл та міжцерковні відносини в українському суспільстві (листопад 2025р.)(2025年11月22〜29日、2,009人、ギリシャ・カトリック11.8%・西部39.8%、8%から12%、共同体の会員7%、97%・89%)
    発行:Разумков Центр 確認日:2026-09-24

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