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文化・歴史/解説

『過ぎし年月の物語』は、1110年代のキーウで3度編まれた

キーウ・ルーシの歴史を伝える年代記『過ぎし年月の物語』は、12世紀の初めにキーウの修道院で編まれ、数年のうちに3度手を入れられました。原本は残っておらず、いま読めるのは14〜16世紀の写本です。誰が編んだとされるのか、写本はどこにあるのか、年の数え方、日本語訳の書名まで、事典と校訂本からまとめます。

画像:Ukrainavi

オリュカのひとこと

年代記の「6415年」は、西暦では何年にあたるのでしょう。年の数え方は「世界の創造」の節で確かめられます。

キーウ・ルーシの始まりを語るとき、たいていの本が拠りどころにしている一冊の年代記があります。ウクライナ語で『Повість минулих літ(ポヴィスチ・ムィヌルィフ・リート)』、古い綴りでは『Повѣсть временныхъ лѣтъ』。この記事では『過ぎし年月の物語』と呼びます。日本語訳の書名は『ロシア原初年代記』で、この媒体のほかの記事では『原初年代記』と書いてきました。

この記事で扱うのは、年代記が伝える出来事ではなく、本そのものです。882年のキーウの掌握や988年の洗礼についてはキーウ・ルーシから16世紀までの記事と平安京から応仁の乱まで、キーウでは何が起きていたかで書いています。

冒頭の一文が、本の問いを示している

年代記は、書名を兼ねた一文から始まります。19世紀から20世紀はじめにかけて刊行された校訂本(イパーチー写本、1908年版)の冒頭はこうです。

Повѣсть временныхъ лѣтъ, черноризца Федосьєва манастыря Печерьскаго, ѿкуду єсть пошла Руская земля … и хто в неи почалъ пѣрвѣє кнѧжити

『Полное собрание русских летописей』第2巻「イパーチー年代記」(1908年)。綴りは一部簡略化した

「過ぎし年月の物語。フェオドシイのペチェールシク修道院の修道士の。ルーシの地はどこから起こったのか、そこで最初に公として治め始めたのは誰か」という意味です(本記事による訳)。ルーシの国の起こりと、最初の支配者を問う本だ、と自分で名乗っているわけです。

ウクライナの訳者レオニード・マフノヴェツは1989年の訳書の注で、年代記の「земля(地)」は国家、領域、そこに住む人々、ときには軍勢まで指す語だと説明しています。

誰が、いつ編んだのか

アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の『Internet Encyclopedia of Ukraine』(以下、IEU)によれば、『過ぎし年月の物語』は、それまでキーウとノヴゴロドで書き継がれてきた年代記の集成をもとに、12世紀の初めにまとめられたものです。この編者として伝統的に名が挙がるのが、キーウ・ペチェールシク修道院の修道士ネストル(1056年ごろ〜1114年ごろ)です。IEU は、ネストルが編んだとみるのが多くの研究者の意見だとしています。

その後、この本は数年のうちに2度手を入れられました。IEU の記述では、三つの版は次のとおりです。

版年どこで、誰がいま読める形
第1版1113年キーウ・ペチェールシク修道院、ネストル残っていない
第2版1116年キーウのヴィドゥビチ修道院、院長シリヴェストル(ヴォロディーミル・モノマフ公の求めによる)ラヴレンチー写本など
第3版1118年キーウ・ペチェールシク修道院、編者不明イパーチー写本など
Internet Encyclopedia of Ukraine「Povist’ vremennykh lit」(1993年の紙の事典が初出)をもとに作成。マフノヴェツの訳書(1989年)の序文は、ネストルが1112年ごろまで書き継ぎ、第3版は1118〜1119年に作られたとしている。

年代記は、シリヴェストルが第2版の終わりに書き添えた言葉を伝えています。マフノヴェツの序文が引く奥書では、シリヴェストルは、ヴォロディーミル公がキーウを治め、自分が聖ミハイル修道院の院長だったときに「この年代記の書を書いた」と記し、読む人に自分のための祈りを頼んでいます。マフノヴェツは、この版ではネストルの名が消えた、と書いています。

ネストルより前の段階をどう分けるかは、研究者によって違います。IEU は1037年、1073年、1079年などの先行する集成を挙げ、マフノヴェツは996〜997年ごろのキーウで最初の集成が作られたとする見方を紹介しています。どちらも、失われた写本の関係から組み立て直した説です。

年は「世界の創造」から数えている

年代記の年は、西暦ではありません。各年の記事は「6415年に」のように始まります。これは、世界が創造されたとされる年から数えた年で、西暦に直すには5508を引きます。シリヴェストルの奥書の「6624年」は、西暦1116年です。校訂本の目次にも、「6415年[907年]」のように西暦が添えてあります。

オリュカのひとこと

原本のない年代記を、いまはどの写本で読んでいるのでしょう。三つの写本を表で見比べられます。

写本は、どこに残っているか

IEU によれば原本は残っていません。いま読めるのは、のちの時代に書き写された写本です。主なものを並べます。

写本書き写された時期分かっていること
ラヴレンチー写本1377年修道士ラヴレンチーが、スーズダリのドミトリー・コンスタンチノヴィチ公のために羊皮紙に写した。第2版を含む。1792年に見つかり、1846年に刊行
イパーチー写本1425年ごろかつてコストロマ近くのイパーチー修道院が持っていた。4人の写字生が分担して写した307葉の大きな本。第3版を含む
フレーブニコフ写本16世紀マフノヴェツによれば、ウクライナで作られた写本で、イパーチー写本より古い系統の本から写された。第3版を含む
Internet Encyclopedia of Ukraine「Laurentian Chronicle」「Hypatian Chronicle」と、マフノヴェツ訳『ルーシ年代記』(1989年)の序文をもとに作成。

冒頭の一文に「ネストル」の名が出てくるのは、このうちフレーブニコフ写本です。1908年の校訂本は、イパーチー写本の「修道士の」の箇所に、フレーブニコフ写本では「ネストルという修道士の」となっている、という異文の注を付けています。

1989年のマフノヴェツの序文によれば、三つの写本はいずれも、当時のレニングラード(いまのロシアのサンクトペテルブルク)にある二つの図書館に所蔵されていました。キーウで編まれた本ですが、ラヴレンチー写本はスーズダリの公のために、イパーチー写本は北のルーシで写されたもので、古い写本はロシアの図書館に集まっています。

古いウクライナ語の特徴

イパーチー写本には、第3版の『過ぎし年月の物語』に続いて、12世紀のキーウ年代記と、13世紀のハールィチ=ヴォルィーニ年代記が一続きに写されています。IEU の「Hypatian Chronicle」の項目(2025年更新)は、この写本が、北の地方の書き癖を取り除くと、体系的ではないものの古いウクライナ語の特徴をいくつも示しており、古いウクライナ語の研究に最も重要な年代記だとしています。マフノヴェツが現代ウクライナ語に訳したのも、このイパーチー写本でした。

「ルーシ」はどう書かれているか

本は、大洪水のあとノアの三人の息子が世界を分けた話から始まります。ついでスラヴの人々が各地に広がった様子、使徒アンドレイがドニプロ川をさかのぼってキーウの丘に十字架を立て、ここに大きな町ができると予言した話、キイ、シチェク、ホルィウの三兄弟と妹のリービジがキーウの町を築いた話が続きます。IEU は、キーウとそこに住んだポリャーネ(ポリャン人)の歴史が物語の中心にあると書いています。

年代記は「ルーシに住むスラヴの人々」として、ポリャーネ、デレヴリャーネ、ノヴゴロドの人々、ポロチャーネ、ドレホヴィチ、シヴェリャーネ、ブジャーネ、ヴォルィニャーネを挙げ、別に、ルーシに貢ぎ物を納める言葉の違う人々を並べています(マフノヴェツ訳による)。年代記の「ルーシ」は、キーウの公の家に治められた人々と土地のまとまりとして書かれている、と読めます。IEU も、この本の中心にある考えは、キーウのリューリク家によって象徴されるルーシの地と国家のまとまりだとしています。

そのうえで年代記は、ルーシの最初の支配者をヴァリャーグ(北方の人々)の招きに求める話を載せています。こうした記述を後の時代にどう読むかは、キーウ・ルーシを誰の歴史とみるかという論争と結びついてきました。1930年代にソ連で公式化された「単一の古ルーシ民族」論と、それへのウクライナ史学の反論は、キーウ・ルーシから16世紀までの記事で扱っています。

書名に「ロシア」とある訳書

IEU によれば、この年代記は1884年のフランス語訳を皮切りに、スウェーデン語、ドイツ語、ルーマニア語、ロシア語、英語、チェコ語、ポーランド語、ウクライナ語に訳されてきました。英語訳(1953年)の書名は『The Russian Primary Chronicle』です。ウクライナ語では、マフノヴェツ訳『ルーシ年代記』(1989年)のほか、ブルィズネツ訳(1982年)、ヤレメンコ訳(1990年)があります。

日本語訳は、國本哲男・山口巌・中條直樹を訳者代表とする『ロシア原初年代記』(名古屋大学出版会、1987年。2022年にも刊行)です。英語訳と同じく、書名には「ロシア」とあります。書名は刊行されたとおりに示しました。ただ、本の中身は、12世紀のキーウの修道院で、キーウとそこに住んだ人々を中心に編まれた年代記です。「ロシア」という書名から、ロシアの町で生まれた本だと受け取らないようにしてください。

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出典・参考資料

  1. Povist’ vremennykh lit内容、1113年・1116年・1118年の三つの版、シリヴェストル、ラヴレンチー写本とイパーチー写本、各国語の訳。執筆 A. Zhukovsky、初出『Encyclopedia of Ukraine』vol.4, 1993
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所) 確認日:2026-09-24
  2. Nestor the Chronicler生没年、キーウ・ペチェールシク修道院、1111〜13年ごろの編集、原本が残っていないこと、聖人伝作者と同一人物かの説。執筆 A. Zhukovsky
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  3. Sylvestr, Hegumenヴィドゥビチ修道院の院長、1123年4月12日没、第2版。初出1993
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  4. Chronicles先行する年代記の集成、ネストル作とする伝統、キーウ年代記・ハールィチ=ヴォルィーニ年代記への継承。執筆 O. Ohloblyn、初出1984
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  5. Laurentian Chronicle1377年、修道士ラヴレンチー、スーズダリ公、1792年の発見、1846年の刊行、欠けた年。初出1993
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  6. Hypatian Chronicle三つの年代記の集成、コストロマのイパーチー修道院、カラムジンによる発見、古いウクライナ語の特徴。2025年更新
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  7. Літопис руський за Іпатським списком / Пер. з давньорус. Л. Є. Махновця(Київ: Дніпро, 1989)の訳者序文写本の大きさ・紙数・写字生の数・書写年代、所蔵と請求記号、先行する集成、三つの版、シリヴェストルの奥書、フレーブニコフ写本
    発行:Ізборник(litopys.org.ua) 確認日:2026-09-24
  8. Літопис руський за Іпатським списком / Пер. Л. Є. Махновця冒頭部分の訳と注。ノアの三人の息子、使徒アンドレイ、キイ・シチェク・ホルィウ・リービジ、ルーシに住むスラヴの人々、「земля」の注
    発行:Ізборник(litopys.org.ua) 確認日:2026-09-24
  9. Полное собрание русских летописей. Т. 2: Ипатьевская летопись. Изд. 2-е(СПб., 1908)の本文と目次冒頭の一文と異文注、世界創造紀元の年と西暦の対照
    発行:Ізборник(litopys.org.ua) 確認日:2026-09-24
  10. ロシア原初年代記國本哲男・山口巌・中條直樹 訳者代表。1987年、2022年
    発行:CiNii Books(国立情報学研究所) 確認日:2026-09-24

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