公開まで20年待った『短い出会い』と、監督キーラ・ムラトワ
1967年にオデーサ映画撮影所で完成した『短い出会い』は、およそ20年ほとんど上映されず、1971年の『長い見送り』とともに1987年に公開されました。監督キーラ・ムラトワの生涯を、事典、大統領令、ベルリン国際映画祭の記録で追い、資料ごとに違う年も並べます。
オリュカのひとこと
この監督は、どこで生まれ、どこで学んだのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
1967年にオデーサ映画撮影所で完成した映画『短い出会い』(Короткі зустрічі)は、その後およそ20年、ほとんど上映されませんでした。監督はキーラ・ムラトワ(Кіра Муратова、1934〜2018年)。1960年代の初めから、オデーサの撮影所で映画を撮り続けた監督です。
ここでは、『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ。執筆 І. Б. ズバヴィナ、2020年)、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(ЕІУ。2010年刊の第7巻)、タラス・シェウチェンコ国民賞委員会の受賞者の頁、ウクライナの大統領令、ドヴジェンコ・センターの作品データ、ベルリン国際映画祭の記録から、年と事実を並べます。カナダ・ウクライナ研究所の Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU)にはムラトワの項目がありません。作品の出来ばえには立ち入りません。
ソロカに生まれ、モスクワで学ぶ
ЕСУ によれば、ムラトワは1934年11月5日、ソロキ(いまのモルドバ)で生まれました。IEU の「ベッサラビア」の項は、ソロキを含むベッサラビアが1918年からルーマニアの支配下に入り、1940年6月にソ連へ割譲させられたと書いています。生まれたのは、ルーマニアの支配下にあった時期の町です。
1959年にモスクワの全ソ国立映画大学(ВДІК)を卒業し、セルゲイ・ゲラシモフとタマラ・マカロワの工房で学びました(ЕСУ、ЕІУ、シェウチェンコ国民賞委員会)。ЕІУ と委員会の頁は、1959〜1962年にモスクワのゴーリキー記念撮影所で働いたと書いています。最初の作品『けわしい崖のそばで』(Біля крутого яру、1961年)を、ЕСУ は共作としています。
オリュカ
生まれた町は、どうして二つの名前で書かれているのかな。
タブリ
ウクライナ語の形と、いまの町の名前が、この見出しの下に並んでいるよ。
スウネ
その町がいつどの国の支配下にあったかは、この節のはじめの段落にあるね。
ソロキとソロカ、二つの呼び名
生地の町は、ウクライナの事典ではウクライナ語の形で「Сороки」(ソロキ)と書かれ、ЕІУ は「いまの Сорока(ソロカ)」と添えています。ソロカはモルドバでの町の名前です。いまの町の名前としては、ソロカが通っています。
オデーサ映画撮影所へ
ムラトワがオデーサの撮影所に移った年は、資料で1年ずれます。ЕСУ は1961年から、ЕІУ とシェウチェンコ国民賞委員会は1962年から、撮影所の監督として働いたとしています。撮影所そのものの歩みはオデーサ映画撮影所の記事で扱っています。
撮影所で撮った作品として、ЕСУ は『わたしたちの誠実なパン』(Наш чесний хліб、1964年、共同監督)、『短い出会い』(1967年)、『長い見送り』(Довгі проводи、1971年)、『灰色の石のあいだで』(Серед сірого каміння、1983年)、『運命の変わり目』(Зміна долі、1987年)、『無気力症シンドローム』(Астенічний синдром、1989年)、『感じやすい警官』(Чутливий міліціонер)、『熱中』(Захоплення)、『三つの物語』(Три історії、1997年)などを挙げています。日本語の題はこの記事での訳で、日本で公開されたときの題を確かめたものではありません。
オリュカのひとこと
完成してから公開まで、長く待った作品があるそうです。この見出しで確かめられます。
20年待った2本
『短い出会い』は、ムラトワがレオニード・ジュホヴィツキーとともに脚本を書き、自分でも出演した作品です(ドヴジェンコ・センター)。ドヴジェンコ・センターの作品データは、この映画が「最も低い配給の区分」に置かれ、20年のあいだほとんどどこでも上映されなかったと書いています。シェウチェンコ国民賞委員会の頁は「1987年に公開」と記しています。
『長い見送り』も同じ道をたどりました。委員会の頁と ЕІУ は1971年の作品で1987年に公開されたとし、ドヴジェンコ・センターの上映会の案内も、1971年に完成し1987年にようやく公開されたと書いています。どちらの作品も、公開されたのはペレストロイカの時代でした。
完成から公開まで、そのあとの年表
| 年 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1961年 | 『けわしい崖のそばで』(共作) | ЕСУ、委員会 |
| 1964年 | 『わたしたちの誠実なパン』(オレクサンドル・ムラトフと共同監督) | ЕІУ、委員会、ドヴジェンコ・センター |
| 1967年 | 『短い出会い』完成。最も低い配給の区分に置かれる | ドヴジェンコ・センター |
| 1971年 | 『長い見送り』完成 | 委員会、ЕІУ、ドヴジェンコ・センター |
| 1987年 | 『短い出会い』『長い見送り』が公開される | 委員会、ЕІУ |
| 1990年 | 『無気力症シンドローム』がベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員特別賞) | ベルリン国際映画祭 |
| 1993年 | ウクライナの国家シェウチェンコ賞 | 大統領令第60/93号 |
| 2018年 | 6月6日、オデーサで死去 | ЕСУ、委員会 |
映画祭の記録に残る賞
ベルリン国際映画祭のアーカイブは、1990年の第40回のコンペティション部門に『無気力症シンドローム』(Asteniceskij sindrom)が出品され、「銀熊賞・審査員特別賞」(Silver Bear – Special Jury Prize)を受けたと記録しています。同じアーカイブの作品データは、製作国と年を「USSR 1989」、上映時間を153分としています。
ЕСУ は、『長い見送り』が1987年にロカルノ国際映画祭で国際映画批評家連盟(FIPRESCI)の賞を受けたと書いています。FIPRESCI も2022年の記事で、ロカルノで FIPRESCI 賞を受けた女性監督の一人にムラトワを挙げています。ロカルノ国際映画祭の公式サイトの1987年の受賞一覧は、公式の審査員の賞だけを載せていて、批評家連盟の賞は載っていません。
ムラトワはキーウの映画祭とも縁があります。シェウチェンコ国民賞委員会の頁によれば、『三つの物語』は1997年の第27回キーウ国際映画祭「モロジスト」で、ウクライナの最優秀作品に贈られる「アルセナル」賞を受けました。
オリュカ
この監督は、どこの国の監督として書かれているのかな。
スウネ
資料ごとに添えられた国が、この見出しの下に並べてあるよ。
ヨリクネ
「ウクライナ映画」が何を指すかは、この見出しの下の終わりのリンク先へ寄り道できるよ。
どこの国の監督として書かれているか
同じ監督でも、資料によって添えられる国が違います。
- ベルリン国際映画祭の作品データ:製作国は「USSR」(ソ連)
- FIPRESCI の人物の頁:「Film Director, Moldova」
- FIPRESCI の2022年の記事:「Kira Muratova from Ukraine」
- ЕСУ・ЕІУ(ウクライナの事典):オデーサの撮影所の監督として、ウクライナの国家賞とともに記載
作品の製作国と、監督の生地と、監督が働いた国は、それぞれ別の事実です。何をもって「ウクライナ映画」と呼ぶかは、「ウクライナ映画」は五つのものを指すの記事で扱っています。
ウクライナの国の賞と勲章
1993年2月24日の大統領令第60/93号「1993年のウクライナ国家タラス・シェウチェンコ賞の授与について」は、映画の分野でムラトワに「ウクライナと世界の映画芸術への卓越した貢献に対して」賞を授けると定めています(ウクライナ最高会議の法令データベースの原文による)。ЕСУ も受賞を1993年としていますが、ЕІУ は1997年と書いています。
勲章は、1999年3月4日の大統領令第231/99号が、オデーサ劇映画撮影所の監督でウクライナ人民芸術家のムラトワに「ヤロスラウ賢公勲章」第5級を授けています。シェウチェンコ国民賞委員会の頁と ЕСУ は、このあと2004年に第4級、2009年に第3級を受けたとしています。委員会の頁と ЕСУ は、2002年のウクライナ国家ドヴジェンコ賞も挙げています。
事典と公的な記録で年が違う所
| 事項 | ЕСУ(2020年) | ЕІУ(2010年) | シェウチェンコ国民賞委員会 |
|---|---|---|---|
| 人民芸術家の称号 | ウクライナ人民芸術家(1989年) | ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の人民芸術家(1990年) | ウクライナ人民芸術家(1990年) |
| オデーサの撮影所で働き始めた年 | 1961年 | 1962年 | 1962年 |
| 国家シェウチェンコ賞 | 1993年 | 1997年 | 年の記載なし |
| 『白い世界を知る』(Пізнаючи білий світ) | 1979年 | 1980年 | 1978年 |
| 『感じやすい警官』 | 1992年 | 1992年 | 1991年 |
オデーサで
ЕСУ とシェウチェンコ国民賞委員会によれば、ムラトワは2018年6月6日にオデーサで亡くなり、オデーサに葬られました。ЕСУ は、2000年以降の作品の製作者として、オデーサの撮影所ではなく、「ピグマリオン・プロダクション」「ソタ・シネマ・グループ」などの製作会社や、ウクライナ文化・芸術省の名を挙げています。ウクライナの映画の歩みを作品から見るならウクライナに関わる映画の記事も読めます。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Муратова Кіра Георгіївна生没年月日と生地、称号、国家賞・勲章の年、ВДІК、1961年からオデーサの撮影所、作品と年・映画祭の賞。執筆 І. Б. Зубавіна、第22巻 2020年、最終編集2024年12月。esu.com.ua が429のため2025年8月29日の保存版で閲覧
発行:Енциклопедія Сучасної України(НАН України, НТШ) 確認日:2026-09-28 - МУРАТОВА Кіра Георгіївна生地「Сороки(нині м. Сорока, Молдова)」、1990年のウクライナ・ソビエト社会主義共和国人民芸術家、1959〜1962年のゴーリキー撮影所、1962年からオデーサ、作品の年と公開年、1997年のシェウチェンコ賞。Т. 7、2010年
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27 - Муратова Кіра Георгіївна生年月日、ВДІК、1962年からオデーサ、作品と公開年、1997年の「アルセナル」賞、ドヴジェンコ賞、勲章の年月、2018年6月6日没・オデーサに埋葬
発行:Комітет з Національної премії України імені Тараса Шевченка 確認日:2026-09-27 - Указ Президента України від 24.02.1993 № 60/93「Про присудження Державних премій України імені Т. Шевченка 1993 року」映画の分野でムラトワに授与、授与の理由の文言
発行:Верховна Рада України(законодавство) 確認日:2026-09-27 - Указ Президента України від 04.03.1999 № 231/99「Про відзначення нагородами України з нагоди Міжнародного жіночого дня 8 березня」ヤロスラウ賢公勲章第5級
発行:Верховна Рада України(законодавство) 確認日:2026-09-27 - Brief Encounters / Korotki zustrichi1967年、オデーサ撮影所、脚本・出演者、最も低い配給の区分に置かれ20年ほとんど上映されなかったこと
発行:Dovzhenko Centre(Національний центр Олександра Довженка) 確認日:2026-09-27 - Кіновсесвіт Кіри Муратової『Наш чесний хліб』1964年・Кіра Муратова, Олександр Муратов、『Довгі проводи』1971年など作品の年
発行:Довженко-Центр. Онлайн 確認日:2026-09-27 - Юне щире бунтівне: «Довгі проводи»1971年に完成し1987年に公開、ロカルノで受賞
発行:Dovzhenko Centre 確認日:2026-09-27 - Awards 1990Silver Bear - Special Jury Prize: Asteniceskij sindrom by Kira Muratova
発行:Berlinale(Internationale Filmfestspiele Berlin) 確認日:2026-09-27 - Asteniceskij sindromCompetition 1990、USSR 1989、153分
発行:Berlinale 確認日:2026-09-27 - 1990 40th Berlin International Film Festival第40回、1990年2月9〜20日
発行:Berlinale 確認日:2026-09-28 - Palmarès 198740th Locarno Film Festival。公式の審査員の賞のみ掲載。2025年6月12日の保存版
発行:Locarno Film Festival(Internet Archive) 確認日:2026-09-27 - Short History of the FIPRESCI Prize in LocarnoPeter Kremski、2022年。FIPRESCI 賞を受けた女性監督に「Kira Muratova from Ukraine」
発行:FIPRESCI 確認日:2026-09-27 - Kira Muratova人物の頁。「Film Director, Moldova」
発行:FIPRESCI 確認日:2026-09-27 - Bessarabia1918年のルーマニアの占領、1940年6月28日の割譲、ソロキ〈Soroca〉を含む町の一覧
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27
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