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文化・歴史/解説

ドヴジェンコが映画を撮り始めた、オデーサ映画撮影所

オデーサ映画撮影所は1919年に生まれ、1920年代にはウクライナ映画の中心でした。ドヴジェンコが最初の作品を撮ったのもここです。1930年代以降はモスクワの撮影所の拠点として使われた時期があり、いまは非公開の株式会社で、国の持ち分をめぐる裁判もありました。名前の変遷、主な作品、いまの所有をたどります。

画像:Ukrainavi

オリュカのひとこと

撮影所の名前は、1919年からどう変わってきたのでしょう。二つの事典の書き方を表で見比べられます。

黒海に面したオデーサには、1919年から続く映画撮影所があります。オデーサ映画撮影所(Одеська кіностудія)です。1920年代にはウクライナ映画の中心で、のちにウクライナ映画を代表する監督になるオレクサンドル・ドヴジェンコも、ここで映画をつくり始めました。

以下は、Internet Encyclopedia of Ukraine(カナダ・アルバータ大学のウクライナ研究所=CIUS発行。以下IEU)、ウクライナ国立科学アカデミーの『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ。2022年、2023年更新)、ドヴジェンコ・センターの作品データ、ウクライナ内閣の決定と裁判所の記録をもとにしています。

1919年、国有化された映画会社から

ЕСУによれば、撮影所は1919年5月23日、赤軍第41師団の政治部の映画班として生まれました。もとになったのは、国有化された民間の映画会社、「ミログラフ」「ミズラフ」とボリソフの映画工場です。最初の作品は劇映画『蜘蛛と蠅』(1919年)でした。IEUも、1919年にいくつかの民間の映画アトリエをもとに設立された、と書いています。

名前は何度も変わりました。二つの事典の書き方を並べると次のとおりです。

時期IEUの記述ЕСУの記述
1919年民間の映画アトリエをもとに設立5月23日、赤軍第41師団の政治部の映画班として設立
1920年全ウクライナ映画委員会のオデーサ部—
1922年全ウクライナ写真映画局(ВУФКУ、ヴフク)のオデーサ映画工場ヴフクの第一映画工場
1929〜1930年1929年から「ウクライナフィルム」のオデーサ映画工場1930年から「ウクライナフィルム」のオデーサ映画工場
1938〜1940年1938年から現在の名前1938年オデーサ映画撮影所、1939年オデーサ・コムソモール第一撮影所、1940年オデーサ劇映画撮影所
1941年〜中央アジアへ疎開。戻ったあとは「黒海映画工場」(実際はモスフィルムの支所)で、1955年までこの名前タシケントへ疎開。1945〜1953年は事実上ロシアのモスフィルムとゴーリキー撮影所の製作拠点に。1954年から自前のロゴで作品を出す
2005年〜—2005年に公開株式会社、2014年に非公開株式会社
IEU「Odesa Artistic Film Studio」(1993年刊の事典の項目)とЕСУ「Одеська кіностудія」(2022年、2023年更新)から作成。「—」は記述がないもの。「ウクライナフィルム」になった年は、二つの事典で1年違う。

オリュカのひとこと

ドヴジェンコがこの撮影所で撮ったのは、どの作品だったのでしょう。事典と作品データの書き方をこの節で比べられます。

ドヴジェンコが映画を撮り始めた場所

IEUによれば、ドヴジェンコは1926年にオデーサの撮影所で監督として働き始めました。最初の作品は『改革者ヴァーシャ』『恋の木の実』(ともに1926年)、『外交官の鞄』(1927年)で、1927年にはウクライナの歴史を題材にした『ズヴェニホラ』を撮ります。IEUは『ズヴェニホラ』を、ウクライナの国民的な映画の始まりとされる作品だと書いています。ドヴジェンコ・センターの作品データも、『ズヴェニホラ』を1927年、ヴフク(オデーサ)の作品としています。

ЕСУはこれらに加えて『アルセナール』(1929年)もこの撮影所で撮られた作品に挙げ、ここでドヴジェンコの詩的な表現主義の作風が形づくられ、撮影のダニーロ・デムツキーとの組み合わせが生まれた、と書いています(ドヴジェンコ・センターの作品データは、『アルセナール』の撮影所を「ヴフク」とだけ記しています)。次の『大地』(1930年)はキーウの撮影所でつくられました。その上映停止までの経緯は公開9日で上映を止められた、ドヴジェンコの映画『大地』にまとめています。

1920年代のオデーサには、ほかにも多くの作り手が集まりました。ЕСУによれば、演出家レシ・クルバスがベレジル劇場の俳優たちと『マクドナルド』(1924年)や『アルセナリツィ』(1925年)を撮り、彫刻家でもあったイヴァン・カヴァレリゼは『ペレコプ』(1930年)や、シェウチェンコの詩をもとにした初めてのトーキーの歴史劇『コリーイウシチナ』(1933年)をつくっています。IEUは、1920年代のこの撮影所を「ウクライナの映画芸術の発展の鍵となる中心」と呼んでいます。

ウクライナ語の映画が消えた時代

1930年代に入ると、事情が変わります。IEUの「映画」の項目は、1930年代のオデーサの撮影所がほぼモスクワのモスフィルムとレニングラードのレンフィルムのために使われたと書き、撮影所の項目では、ウクライナ的な内容が強制的に制限されて重要性が下がり、1945年以降につくられたウクライナ語の映画はわずか(例として1979年の『深紅の岸辺』)だとしています。ЕСУも、1945〜1953年の撮影所が事実上ロシアの撮影所の製作拠点になっていたと書いています。

1954年からは、自前のロゴで作品を出すようになります。ЕСУによれば、ブリガンティン(帆船)の絵と船の鐘の音で知られるロゴは1960年代半ばにできました。この時期の撮影所からは、キーラ・ムラトワのように国外の映画祭で評価された監督も出ています。ЕСУは、ムラトワの『長い見送り』(1971年)が1987年にロカルノ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を、『無気力症シンドローム』(1989年)が1990年にベルリン国際映画祭で銀熊賞を受けたと記しています。

ただし、この時期の作品をそのまま「ウクライナ映画」と呼べるかは別の問題です。IEUは1970年代について、キーウとオデーサの撮影所がロシア語の映画もつくっていて、ウクライナの映画と区別されていなかったため、ウクライナ映画が何本つくられたかを数えるのは難しいと書いています。どこで、誰が、何語でつくったかで分けて考える方法は、「ウクライナ映画」は五つのものを指すで扱っています。

いまの所有と、株式をめぐる裁判

ЕСУによれば、撮影所は2005年に国営企業から株式会社になり、2014年から非公開株式会社「オデーサ映画撮影所」(ПрАТ)です。ЕСУは、1990年代から2000年代初めにかけて、資産の50%を超える株式の民営化によって撮影所がなくなる危険があった、とも書いています。国営通信ウクルインフォルムは2020年7月、2005年の株式会社化以降、国が50%に1株を足した株式を持ち、残りを二つの民間会社が持っていると伝えました。

2017年7月19日、内閣は決定(第496-р号)で、国が持つこの会社の株式の管理を国有財産基金から文化省に移しました。その後、国の持ち分をめぐって裁判が起きています。

日付裁判所内容
2020年1月21日キーウ市経済裁判所撮影所の会社の訴えを一部認め、文化省の口座にある740万65株の所有権を会社のものと認める(事件番号910/5090/19)
2020年7月22日北部控訴経済裁判所文化省の控訴を認めて一審の判決を取り消し、訴えを退ける
2020年12月15日最高裁判所(経済部)会社の上告について、上告の理由が確認されなかったとして手続きを打ち切る
文化省の発表(2020年7月23日)と、最高裁判所の決定(2020年12月15日、事件番号910/5090/19)から作成。

ウクルインフォルムは、一審の判決のままなら国の持ち分は50%に1株を足した分から38%に減り、国が経営の支配を失うところだった、と伝えています。2026年には国有財産基金が株主に向けて、6月24日に臨時株主総会を遠隔で開くと告知しました。

ЕСУによれば、撮影所は2011年1月26日の内閣決定で「国民映画」の製作者の一つとされています。敷地には映画博物館があり、海辺の撮影用プールなどの設備は、いまも国内外の製作会社に使われている、とЕСУは書いています。

出典と記事の記録出典 11件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Odesa Artistic Film Studio1919年の設立、名前の変遷、1941年の疎開と黒海映画工場、1920年代の役割、1945年以降のウクライナ語の映画、学んだ監督たち。1993年刊の事典の項目
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  2. Dovzhenko, Oleksander1926年にオデーサで監督に、初期の作品と年、『ズヴェニホラ』の評価
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  3. Film1930年代のオデーサの撮影所とモスフィルム・レンフィルム、1970年代のロシア語の映画
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  4. Одеська кіностудія / Г. П. Погребняк1919年5月23日の設立、名前の変遷、ドヴジェンコ・クルバス・カヴァレリゼの作品、1945〜1953年、ロゴ、ムラトワの受賞、2005年・2014年の会社形態、2011年1月26日の内閣決定、映画博物館
    発行:Енциклопедія Сучасної України(НАН України, НТШ) 確認日:2026-09-24
  5. Zvenyhora1927年、Studio: VUFKU (Odesa)
    発行:Dovzhenko Centre 確認日:2026-09-24
  6. Arsenal1929年、Studio: VUFKU
    発行:Dovzhenko Centre 確認日:2026-09-24
  7. Розпорядження КМУ від 19.07.2017 № 496-р «Питання управління приватним акціонерним товариством “Одеська кіностудія”»株式の管理を文化省へ
    発行:Кабінет Міністрів України 確認日:2026-09-24
  8. МКІП: Держава виграла суд щодо визнання права власності на частину акцій «Одеської кіностудії»2020年7月22日の控訴審、740万65株、一審の日付と事件番号
    発行:Міністерство культури України 確認日:2026-09-24
  9. Ухвала Касаційного господарського суду у складі Верховного Суду від 15.12.2020 у справі № 910/5090/19上告の手続きの打ち切り。判決文の転載
    発行:Верховний Суд(protocol.ua 掲載) 確認日:2026-09-24
  10. Держава відсудила частину акцій Одеської кіностудії - МКІП2020年7月24日。50%+1株、38%への減少
    発行:Укрінформ 確認日:2026-09-24
  11. До уваги акціонерів приватного акціонерного товариства «Одеська кіностудія»2026年6月24日の臨時株主総会の告知
    発行:Фонд державного майна України 確認日:2026-09-24

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