公開9日で上映を止められた、ドヴジェンコの映画『大地』
1930年4月8日にキーウで公開されたオレクサンドル・ドヴジェンコの無声映画『大地』は、モスクワの批評家に攻撃され、9日でソ連の映画館から消えました。その夏に西欧で上映されて評価され、1958年にブリュッセルで行われた映画批評家の国際投票では、映画史上の12本の傑作の一つに選ばれています。作品の中身、上映停止までの経過、監督のその後をまとめます。
オリュカのひとこと
公開からわずか9日で上映が止まったのは、何があったからでしょう。批評と決定の経過を順に見てみましょう。
1930年4月8日、オレクサンドル・ドヴジェンコ監督の無声映画『大地』(ウクライナ語の原題 Земля、ゼムリャ)が、キーウの映画館で公開されました。ウクライナ最大の映画アーカイブであるドヴジェンコ・センターによれば、上映はそれから9日で打ち切られます。28年後の1958年、ブリュッセルに集まった国際的な映画批評家たちは、この作品を映画史上の12本の傑作の一つに選びました。
同センターが2021年に行った「ウクライナ映画史上の最良の作品」の投票では、『大地』は2位でした。ソ連の中で最初に否定され、国の外で評価されたウクライナ映画の代表作です。
トラクターが来た村の話
ドヴジェンコ・センターの作品データによれば、『大地』は1930年、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の映画機関「全ウクライナ写真映画局(ВУФКУ、ヴフク)」のキーウ撮影所で作られました。上映時間79分、撮影はダニーロ・デムツキー、主な出演者はセメン・スヴァシェンコ、ステパン・シュクラト、ユリヤ・ソルンツェワらです。
舞台は1920年代の終わり、農業の集団化が始まったウクライナの村です。同センターの紹介は、筋をこうまとめています。若い共産党員のヴァシーリが村の党組織の助けでトラクターを手に入れ、「富農(クルクリ)の畑」の境を耕して消していく。その熱意のために、彼は高い代償を払う。
ウクライナの歴史雑誌『ローカル・ヒストリー』に映画評論家セルヒー・クサヴェロウが書いた解説(2024年4月8日)は、映画がリンゴの果樹園で老人セメンが静かに息を引き取る場面から始まること、夜道を踊りながら帰るヴァシーリが撃たれること、父親オパナスが司祭を追い返し、村人が「新しい歌」を歌いながら棺を運ぶことを紹介しています。死が新しい命の始まりとして描かれ、ふつうのソ連の宣伝映画とは違う作品になっている、というのがクサヴェロウの読み方です。
撮影は1929年6月末、ポルタヴァ州のヤレスキ村で始まりました(ドヴジェンコ・センターの映画史サイト「ヴフク」)。
9日で消えるまで
ドヴジェンコ・センターの映画史サイト「ヴフク」は、制作から上映停止までをたどっています。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1929年5月 | ドヴジェンコが集団化を題材にした脚本に取りかかる。5月24日に制作が告知された |
| 1929年6月末〜9月 | ヤレスキ村で撮影。9月にキーウに戻り、ホロシーウとキタイウの一帯で撮影を続けた |
| 1929年12月 | 編集が終わる |
| 1930年1月26日 | ヴフクの委員会が高く評価して受け入れる。オランダの映画監督ヨリス・イヴェンスが同席していた |
| 1930年3月 | 公開前の討論会で批判が出る。3月24日には全連邦労働組合中央評議会が作品を審査した |
| 1930年4月初め | 詩人デミヤン・ベードヌイが詩の形の批評で作品を攻撃する(「ヴフク」は4月4日とする) |
| 1930年4月8日 | 一部を短くした版がキーウで公開される |
| 公開から9日後 | ソ連の映画館から姿を消す |
ドヴジェンコ・センターはベードヌイを「スターリンのお抱え詩人」と呼んでいます。「ヴフク」によれば、彼の批評は作品が大衆に分かりにくいこと、富農への非難が足りないこと、女性の裸の場面を責めるものでした。同センターは、作品が「生物主義」「自然主義」だと非難されて上映を止められたと書いています。前述の『ローカル・ヒストリー』の解説は、4月17日に中央の映画検閲機関(中央レパートリー委員会)が上映をやめるよう勧めたと書いています。ウクライナでの評価はもっと好意的で、詩人ミコラ・バジャンは称賛する批評を書きましたが、それが雑誌に載ったのは上映が止められたあとの1930年5月でした。
国の外で評価された夏
ソ連の中で止められる一方で、1930年6月からは西欧で上映が始まりました。「ヴフク」によれば、ドヴジェンコは妻で俳優のユリヤ・ソルンツェワ、撮影監督のデムツキーと1930年の夏から秋にかけて欧州を回り、作品はドイツ、チェコスロヴァキア、フランス、イギリス、オランダなどで上映されました。ドヴジェンコ・センターは、外国の新聞の評は「おおむね好意的」だったと書いています。
監督はその後、モスクワへ
ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』によれば、ドヴジェンコは1894年、チェルニーヒウ県ソスニツャ郡の農家に生まれました。教師として働いたあと、1919年12月にはウクライナ人民共和国の軍にいたとしてジトーミルで秘密警察に拘束されています。1920年代初めにはウクライナの外交使節団の一員としてワルシャワとベルリンで働き、ハルキウで新聞の風刺画を描いたあと、1926年にオデーサの撮影所で映画監督になりました。
Internet Encyclopedia of Ukraine(カナダ・アルバータ大学のウクライナ研究所=CIUS発行。以下IEU)は、1927年の『ズヴェニホラ』を「ウクライナの民族映画の始まり」とされる作品とし、『アルセナル』(1929年、邦題『武器庫』)、『大地』と続く無声映画の3本を代表作に挙げています。そのうえで、ドヴジェンコは『大地』と次の『イヴァン』(1932年)のために「ウクライナの民族主義者」として厳しく批判され、モスクワに移ることを強いられ、1956年11月25日に亡くなるまで「亡命しているかのように」暮らした、と書いています。第二次世界大戦中に書いた映画小説『燃えるウクライナ』は、民族主義的だとしてスターリンが出版を禁じました。
オリュカのひとこと
映画史の傑作12本は、どんな投票で選ばれたのでしょう。1958年の国際投票の顔ぶれを見てみましょう。
1958年、ブリュッセルの12本
1958年、ブリュッセルで、各国の映画批評家による「映画史上の最良の作品」の国際的な投票が行われました。IEUは「国際的な審査団が1958年、『大地』を世界の映画の最良の12本に数えた」と書き、ドヴジェンコ・センターも、1958年にブリュッセルで開かれた映画批評家の国際的な集まりで12本の一つに選ばれたとしています。『ウクライナ史百科事典』も同じく「12本の最良の映画の一つ」と記しています。
公開から9日で打ち切られた作品が、監督が亡くなった2年後に世界の古典として選ばれたことになります。ドヴジェンコ・センターは、作品が「監督の死後になって再発見され、世界的な名声を得た」と書いています。
いま『大地』を見るとき
ドヴジェンコ・センターは2012年に作品を修復し、ウクライナのバンド「ダハブラハ」が新しい音楽をつけた版を、2012年7月21日にオデーサ国際映画祭で初公開しました。2017年には歌手マリャナ・サドウシカによる別の音楽もつくられています。
日本では『大地』の題で知られ、日本の映画データベースには製作国を「ソ連」と書くものがあります。1930年のウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の撮影所で作られた作品を、日本の資料が「ソ連映画」と呼ぶのはそのためで、「ウクライナ映画」という言葉が何を指すかは「ウクライナ映画」は五つのものを指す──製作国・舞台・作り手で扱っています。監督の名も、日本語の文献ではロシア語読みの「アレクサンドル・ドヴジェンコ」がよく使われ、北海道大学スラブ研究センターから出た論文には、ウクライナ語に基づけば「オレクサンドル」になると断ったうえでロシア語読みを使ったものもあります。
題材の集団化は、映画の公開から2年後の1932〜33年、ウクライナの飢饉ホロドモールにつながっていきます(ホロドモールの死者は何人か。推計が260万から500万まで割れる理由)。クサヴェロウは、ドヴジェンコ自身は撮ったものを「心から信じていた」と書いています。『大地』は、その飢饉の前に、集団化の始まりを撮った作品です。
出典・参考資料
- Земля(1929年5月の脚本、5月24日の告知、6月末のヤレスキ村、12月の編集、1930年1月26日のヴフク委員会とイヴェンス、3月24日の全連邦労働組合中央評議会、4月4日のベードヌイの批評、4月8日の短縮版の公開、9日後の停止、1930年6月からの欧州上映、1958年ブリュッセル、2012年の修復とダハブラハ、2017年のサドウシカ、2021年の投票で2位)
発行:Довженко-Центр(ВУФКУ. Lost & Found) 確認日:2026-09-24 - "ЗЕМЛЯ" (1930) ДОВЖЕНКА ІЗ МУЗИЧНИМ СУПРОВОДОМ НАЖИВО МАР’ЯНИ САДОВСЬКОЇ(作品データ:1930年、ヴフクのキーウ撮影所、79分、撮影デムツキー、出演者、あらすじ、9日後の上映停止と「生物主義・自然主義」の非難、欧州での上映と好意的な評、死後の再発見、1958年ブリュッセル、2012年7月21日オデーサ国際映画祭)
発行:Довженко-Центр 確認日:2026-09-24 - DVD-БОКС "ДОВЖЕНКО. ТРИЛОГІЯ"(2015年1月13日。『大地』の公開1930年4月8日キーウ、ヴフク(キーウ)、79分)
発行:Довженко-Центр 確認日:2026-09-24 - Фільм, що так і не став пропагандою(セルヒー・クサヴェロウ、2024年4月8日。筋、4月17日の中央レパートリー委員会の勧告、ベードヌイの批評、バジャンの批評が1930年5月の号に載ったこと)
発行:Локальна історія 確認日:2026-09-24 - ДОВЖЕНКО Олександр Петрович(1894年生、ソスニツャ郡、1919年12月の拘束、ワルシャワとベルリン、1926年からの映画、1958年ブリュッセルの12本、1933年のモスクワ移住)
発行:Інститут історії України НАН України(Енциклопедія історії України) 確認日:2026-09-24 - Dovzhenko, Oleksander(1894年生・1956年11月25日モスクワで死去、ズヴェニホラ・兵器廠・大地、民族主義者としての批判、モスクワへの移住、『燃えるウクライナ』の出版禁止、1958年の12本。1984年刊行の第1巻の項目)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - 井上徹「ドヴジェンコ無声映画における身体――『大地』を中心に――」(邦題『大地』、名前をロシア語読みで表記する理由の注記)
発行:北海道大学スラブ研究センター 確認日:2026-09-24 - 大地(1930)作品情報(製作国の表記「ソ連」、邦題)
発行:映画.com 確認日:2026-09-24
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