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ビジネス・復興/解説

1934年に生まれたキーウの溶接研究所と、全溶接のパトン橋

キーウのドニプロ川に架かるパトン橋は、1953年11月5日に開通した長さ約1.5kmの全溶接の橋です。橋の名は、溶接の研究所を1934年に立ち上げた橋の技師イェウヘン・パトンから来ています。研究所の歩み、「世界初」という言い方の出どころ、研究から生まれた事業、70年を過ぎた橋の状態を並べます。

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オリュカのひとこと

「世界初の全溶接の橋」とは、誰が言った言葉なのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

キーウのドニプロ川には、鋼の部材を鋲(リベット)でとめずに、溶接だけでつないだ長い橋が架かっています。1953年11月5日に開通したパトン橋です。ウクライナ国立ヴェルナツキー図書館によれば、長さは1,543m。橋の名は、設計と建設に直接かかわった技師イェウヘン・パトンから来ています。パトンはこの年の8月に亡くなり、開通を見ていません。

パトンは、キーウに溶接の研究所をつくった人でもあります。研究所はいまも、国立科学アカデミーの「パトン名称電気溶接研究所」として続いています。

橋の技師が、溶接の研究所をつくるまで

カナダ・アルバータ大学のウクライナ研究所が編む『Internet Encyclopedia of Ukraine』(IEU。この項目の初出は1993年の紙の版)によれば、イェウヘン・パトンは1870年にフランスのニースで生まれ、1953年8月12日にキーウで亡くなりました。ドレスデンとサンクトペテルブルクで学び、キーウ工科大学の教授を務め、1896〜1929年に35を超える橋や高架橋を設計しています。

IEUは、パトンが1929年に全ウクライナ科学アカデミーに電気溶接の研究室をつくり、それが1934年に研究所になったと書いています。研究所自身の年表は、その日付を1934年1月1日としています。パトンは亡くなるまで所長を務めました。

オリュカのひとこと

小さな研究室から、この研究所はどう育っていったのでしょう。この年表で確かめられます。

年表:研究室から90年

年出来事出どころ
1870年イェウヘン・パトン、ニースに生まれる(IEUは3月4日、国立図書館は3月5日)IEU、ヴェルナツキー図書館
1924年または1925年キーウでドニプロ川の橋を手がける(IEUは1924年の橋、国立図書館は1925年の鎖橋の復旧と書く)IEU、ヴェルナツキー図書館
1929年全ウクライナ科学アカデミーに電気溶接の研究室研究所の年表、IEU
1934年1月1日電気溶接研究所ができる。所長はイェウヘン・パトン研究所の年表
1941〜1944年研究所がウラルのニジニ・タギルへ疎開し、1944年にキーウへ戻る研究所の年表
1945年3月研究所にパトンの名がつく研究所の年表
1953年8月12日イェウヘン・パトンが亡くなり、息子ボリスが所長になる研究所の年表
1953年11月5日パトン橋が開通ヴェルナツキー図書館
1958年電気スラグ溶接がブリュッセル万国博覧会でグランプリ研究所の年表
1962年ボリス・パトンが科学アカデミーの総裁になる国立科学アカデミー
1969年ソユーズ6号で宇宙での溶接の実験「ヴルカン」研究所の年表
1993年人の生体組織を溶接でつなぐ最初の実験研究所の年表
2018年橋の検査で、五段階の五番目の「使用できない」状態と判定国立科学アカデミー(2026年3月)
2020年8月19日ボリス・パトンが亡くなる国立科学アカデミー
「研究所の年表」は研究所の公式サイトの「Хронологія」(2026年9月閲覧)。研究所自身の記述で、事典などと照合できていない行がある。
  1. オリュカ

    研究所の名前は、はじめからいまと同じだったのかな。

  2. タブリ

    名前が変わった年は、この見出しの下で順番にたどれるよ。

  3. スウネ

    上の組織の名前も、この見出しの下であわせて変わってきたようだよ。

研究所の名前、アカデミーの名前

名前は何度か変わっています。研究所の年表によれば、1934〜1944年の名前は「電気溶接研究所」で、1945年3月からパトンの名を冠しました。いまの正式名は「ウクライナ国立科学アカデミー E. O. パトン名称電気溶接研究所」です。上の組織のアカデミーも、全ウクライナ科学アカデミー(ВУАН)から、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国科学アカデミー、1991年にウクライナ科学アカデミー、1994年にウクライナ国立科学アカデミーへと名前を変えました(『ウクライナ史百科事典』のボリス・パトンの項目)。

パトン橋

研究所の研究者たちが2021年に専門誌『技術診断と非破壊検査』に書いた論文によれば、橋は24の径間からなり、長さは1,542.2mです。国立図書館の1,543mとほぼ同じで、どこからどこまでを測るかの違いとみられます。主な桁は、高さ3.6mの鋼板を使ったI形の桁4本で、組み立てのときに自動のサブマージアーク溶接(粒状の材料の下でアークを出す溶接)でつないだ、と論文は説明しています。

同じ論文が引く1953年の報告書の題名によれば、橋の部材はドニプロペトロウシク(いまのドニプロ)のモロトフ名称工場で作られました。ドニプロ川の下流の町でつくった部材を、上流のキーウで溶接して架けたことになります。ドニプロ川のダムと貯水池のことはドニプロ川の六つのダムの記事にあります。

「世界初の全溶接の橋」は誰が言ったのか

パトン橋は「世界初」と紹介されることがあります。ただ、公的な機関の言い方は一つにそろっていません。

言っている主体言い方
研究所の年表(1953年の項)ヨーロッパで最大の全溶接の橋
ウクライナ国立銀行(2010年の記念硬貨の説明)ヨーロッパで最初の全溶接の橋
ヴェルナツキー図書館(2020年の展示の説明)世界で最初の全溶接の橋
研究所の研究者の論文(2021年)世界で最初の全溶接の道路橋。米国溶接協会が20世紀の優れた溶接の構造物として認めた
国立科学アカデミー(2026年3月のお知らせ)世界で最初の全溶接の橋の構造物
ポーランド国立文化遺産研究所(マウジツェの橋)マウジツェの橋(1929年開通)が世界で最初の溶接の道路橋
各機関の公開ページ・文書の文面による(2026年9月閲覧)。

ポーランド国立文化遺産研究所の文化財のデータベースによれば、ポーランド中部マウジツェの川に架かる溶接の道路橋は1928〜1929年に建てられ、1929年8月12日に使われ始めました。設計したステファン・ブリワは、当時ポーランド領だったリヴィウの工科大学で橋の建設を教えていた技師です。同研究所は、この橋のために世界で最初の電気溶接の鋼構造の規則がつくられたとも書いています。

「最初」を1929年のマウジツェの橋とする資料がある以上、パトン橋を無条件に「世界初の全溶接の道路橋」とは書けません。研究所自身の年表は「ヨーロッパで最大」と、長さや規模で言っています。米国溶接協会がパトン橋をどう認めたのか、協会自身の文書は確認できていません。

ボリス・パトンと科学アカデミー

国立科学アカデミーの人名録によれば、息子のボリス・パトンは1918年11月27日にキーウで生まれ、1941年にキーウ工科大学を卒業しました。1942年から研究所で働き、1953年に所長、1962年からアカデミーの総裁を務め、2020年8月19日に亡くなりました。所長と総裁を、亡くなるまで兼ねていたことになります。

2026年9月時点で、研究所の所長はイーホル・クリウツン、アカデミーの総裁はアナトリー・ザホロドニーです(それぞれ研究所とアカデミーの公式サイト)。

研究から事業へ

研究所の年表は、研究の成果を製品や会社にした例をいくつも挙げています。いずれも研究所自身の記述です。

  • 1959年:研究所の試作工場と設計事務所をつくる
  • 1987年:対外貿易の会社「インパト」(ІНПАТ)をつくる
  • 1993年:米国の航空機エンジン会社との共同の研究センター「プラット・アンド・ホイットニー=パトン」
  • 1998年:人の生体組織を溶接でつなぐ方法の特許を、ウクライナ、ヨーロッパの国々、米国、カナダ、オーストラリアで取る
  • 2001年:中国に、粉末を詰めた溶接用のワイヤーをつくる合弁会社「パトン=ホウワン」
  • 2001年:高強度のレールを溶接する機械K922をつくる。2005年から国外へ輸出
  • 2011年:生体組織を高周波で溶接する装置「パトンメド」の製造を始める

ボリス・パトンについての『ウクライナ史百科事典』の項目も、研究所の特許が米国・西ドイツ・日本などで取られたこと、生体組織を溶接する技術が外科で使われていることを書いています。売り上げや輸出の額は、研究所の公開の資料からは確かめられません。

70年を過ぎた橋

国立科学アカデミーの2026年3月11日のお知らせによれば、かつて橋の設計を担い、いまも状態を見守っている「シマノウシキー名称ウクライナ鋼構造研究所」のオレクサンドル・シマノウシキー社長は、2018年の検査で橋が五段階の五番目、「使用できない」状態と判定され、2025年の検査でも同じ結論になったと話しています。設計のときの想定は1日約1万台だった車が、いまは1日最大13万台通るといいます。

シマノウシキー社長は、とくに伸縮継手の下の横桁が雨水と冬の融雪剤でひどく錆びている一方、主な桁は比較的よい状態で、橋全体の強さはまだ保たれていると説明しています。重いコンクリートの床を軽い鋼の床に替えて延命する案を挙げ、突然すべてが壊れる事態は考えにくいとしながらも、「いつ何が起きてもおかしくない」と述べています。研究所の研究者たちは2021年の論文で、主な桁の溶接部の検査を研究所が担ったと書いています。

出典と記事の記録出典 10件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Paton, Yevhen生没年月日、学歴、1896〜1929年の35を超える橋、1924年のドニプロ川の橋、1929年の研究室と1934年の研究所。紙版1993年
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  2. ПАТОН Борис Євгенович生年月日、1953年の所長、1962年の総裁、アカデミーの名前の変遷、特許、生体組織の溶接
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  3. Хронологія1929〜2020年の年表:1934年1月1日、1945年3月の命名、1953年の橋を「ヨーロッパ最大の全溶接の橋」、1958年、1969年、1987年、1993年、1998年、2001年、2005年、2011年
    発行:Інститут електрозварювання ім. Є.О. Патона НАН України 確認日:2026-09-27
  4. Керівництво інституту所長
    発行:Інститут електрозварювання ім. Є.О. Патона НАН України 確認日:2026-09-27
  5. Патон Борис Євгенович1918年11月27日〜2020年8月19日、1953年の所長、1962年からの総裁、アカデミーのお知らせにある総裁ザホロドニー
    発行:Національна академія наук України 確認日:2026-09-27
  6. Член-кореспондент НАН України Олександр Шимановський – про технічний стан і перспективи відновлення мосту Патона2026年3月11日。「世界初」の言い方、2018年と2025年の検査、1日1万台と13万台、延命の案
    発行:Національна академія наук України 確認日:2026-09-27
  7. До 150-річчя від дня народження Є. О. Патона生年月日、1925年の鎖橋の復旧、1929年・1934年、「世界初」の言い方、1,543m、1953年11月5日の開通
    発行:Національна бібліотека України імені В. І. Вернадського 確認日:2026-09-27
  8. Про введення в обіг пам'ятної монети "Євген Патон"2010年2月2日の書簡。「ヨーロッパで最初の全溶接の橋」
    発行:Національний банк України 確認日:2026-09-27
  9. Лобанов Л.М., Дядін В.П., Давидов Є.О., Литвиненко В.А. «Вибір неруйнівних методів контролю щодо оцінки технічного стану металевих конструкцій головних балок мосту ім. Є.О. Патона…»24径間・1,542.2m、主な桁、1953年の報告書の題名、米国溶接協会、1994〜1998年の補強
    発行:Технічна діагностика та неруйнівний контроль, 2021, №4 確認日:2026-09-27
  10. Most spawany na rzece Słudwiマウジツェ。1928〜1929年、1929年8月12日、ブリワ、「世界で最初の溶接の道路橋」
    発行:Narodowy Instytut Dziedzictwa(Zabytek.pl) 確認日:2026-09-27

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