原発で働く人のために1986年に計画された町、スラヴティチ
スラヴティチは、チョルノービリ原発の事故のあと、発電所の職員と家族が暮らす町として1986年10月に建設が決まりました。ソ連の八つの共和国が建設に加わり、町は14の街区に分かれています。発電所への通勤、人口の移り変わり、2022年3月の占領までを、市と発電所、統計局の資料でたどります。
オリュカのひとこと
原発で働く人のための町は、どうやって作られたのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
スラヴティチ(Славутич)は、チョルノービリ原発からおよそ50キロ離れた町です。国営企業チョルノービリ原発の社長セルヒー・タラカノウは2026年4月、UNIANの取材に、この町は1986年の事故のあと、発電所の職員の町だったプリピャチの代わりとして建てられたと説明しています。町は行政上はキーウ州に属しますが、市の公式サイトは「地理的にはチェルニーヒウ地方、行政上はキーウ地方」と書いています。
2026年9月時点でも、発電所で働く人の多くがこの町に住んでいます。町はいつ、誰の手で建てられ、発電所との行き来は戦争でどう変わったのか。
1986年10月の決定から、最初の入居まで
市の公式サイトの「町の歴史」によれば、チョルノービリ原発の職員と家族が長く暮らす新しい町をつくる決定は、1986年10月2日に当時のソ連の指導機関が下しました。同じ年の9〜11月に設計が行われ、12月に建設が始まっています。
町の名前は、1987年2月19日のウクライナ・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会の令で決まりました。令は、この町を「チェルニーヒウ州で建設中の、チョルノービリ原子力発電所の職員が長く暮らすための町」と呼んでいます。最初の住宅の入居許可証が出たのは1988年3月26日です。
計画では、第1期で2万2,800人、その後30,000人まで町を広げる予定でした。市の2026年6月の記事によれば、町の設計はキーウの研究所「キーウZNDIEP」が担い、主任建築家はフェディル・ボロヴィクでした。建設は、松林の中の鉄道の停留所「ネラファ」から始まったとされています。
| 年月日 | 出来事 | 出どころ |
|---|---|---|
| 1986年4月26日 | チョルノービリ原発の事故(事故の記事) | — |
| 1986年10月2日 | 新しい町の建設を決定 | スラヴティチ市 |
| 1986年12月 | 建設が始まる | スラヴティチ市 |
| 1987年2月19日 | 「スラヴティチ」と名づける令 | スラヴティチ市 |
| 1988年3月26日 | 最初の入居許可証 | スラヴティチ市 |
| 1999年6月3日 | 特別経済区「スラヴティチ」の法律 | 最高会議 |
| 2022年3月26〜27日 | ロシア軍が町に入り、翌日町の外へ出る | 市長の発表(UNIAN) |
オリュカのひとこと
街区は、それぞれ違う共和国が建てたそうです。この見出しで確かめられます。
八つの共和国と、14の街区
市の公式サイトによれば、建設を担ったのは当時のソ連の八つの共和国、ウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ロシアです。市は、それぞれの共和国が自分たちの建築の伝統で「自分の街区」をつくったため、町が「屋外の建築博物館」のようになったと説明しています。
ただし、街区の数は共和国の数と同じではありません。市の公式サイトが挙げる街区は14あります。
- 共和国の首都の名前がついた街区:バキンシキー(Бакинський、バクー)、ヴィリニュシキー(Вільнюський、ヴィリニュス)、イェレヴァンシキー(Єреванський、エレバン)、ルィジシキー(Ризький、リガ)、タッリンシキー(Талліннський、タリン)、トビリシキー(Тбіліський、トビリシ)
- そのほかの街区:ドニプロウシキー(Дніпровський)、ドブルィニンシキー(Добринінський)、キーウシキー(Київський)、デスニャンシキー(Деснянський)、ポリッシキー(Поліський)、チェルニーヒウシキー(Чернігівський)、ペチェルシキー(Печерський)、シヴェリャンシキー(Сіверянський)
どの共和国がどの街区を建てたのか、一つずつの対応は、市の公式サイトには書かれていません。「八つの共和国が一つずつ街区を建てた」とまとめるのは、街区の数から見て正確ではありません。市の記事は、新しい町に49の民族の人が集まったとも書いています。
発電所への通勤は、ベラルーシの領土を通っていた
スラヴティチとチョルノービリ原発の間には、ベラルーシの領土がはさまっています。タラカノウ社長はUNIANの取材で、町を建てたときには、町と発電所の間をベラルーシの領土が通ることが考えに入っていなかったと述べています。
同じ取材によれば、ロシアによる全面侵攻の前、職員は週に2回、電車で交代勤務に向かい、国境を止まらずに、検査もなく越えていました。いまはこの経路が使えず、職員はデスナ川とヴィシュホロドを回るバスで通っています。かかる時間は、40分だったものが5〜6時間になりました。発電所は交代勤務の期間を10〜13日に延ばし、敷地の中に職員が泊まる場所を用意した、と社長は説明しています。
発電所で働く人は約2,200人で、そのほかに、国営の原子力発電会社エネルゴアトムの支社「アトムレモントセルヴィス」の約1,000人が町にいる、とも社長は述べています。
オリュカ
いまの町の人口は、公式な統計でわかっているのかな。
スウネ
全面侵攻のあとの公式な人数は、まだ発表されていないようだよ。
タブリ
戦争の前の人数は、この見出しの下の統計で確かめられるよ。
町の人口
国家統計局の『ウクライナの現在人口』(2022年1月1日現在)によれば、スラヴティチ市の現在人口は2万4,464人でした。市の公式サイトは「2万5千人の住民」と書いています。
全面侵攻のあとの人口の公式な統計は、2026年9月時点で公表されていません。タラカノウ社長は2026年4月、町の人口を「約2万人」と述べ、戦争で町を出た人がいる一方、国内で避難してきた人を受け入れていると説明しました。これは社長の説明で、統計の数字ではありません。
原子炉が止まったあとの町
1999年6月3日の法律第721-XIV号は、スラヴティチ市を「特別経済区」にしました。法律の第1条は、その目的を、チョルノービリ原発の原子炉が予定より早く運転をやめることで職を離れる職員の働き口をつくり、投資を呼ぶことだと書いています。
特別経済区の期限は、法律の文面で2020年1月1日までです。最高会議のデータベースによれば、この法律は2005年3月の法律で一部の条(第2条)が削られたあと改正されておらず、2026年9月時点で状態は「効力あり」と表示されています。
いまも町と発電所の結びつきは続いています。町の事業者に国が出す補助金の上乗せの対象にスラヴティチが入っていることは、єРоботаの記事に、町に近い立入禁止区域の保護区のことはチョルノービリの保護区の記事にあります。
2022年3月の占領
UNIANの2022年3月28日の記事によれば、ロシア軍は3月26日の朝にスラヴティチに入り、検問所を設け、市の病院を占拠し、ユーリー・フォミチェウ市長を連れ去りました。市長はその後解放され、住民とともに中央広場の集会に加わったと話し、ロシア軍が住民3人を殺したと述べています。市長は3月27日、ロシア軍が町の外へ出たと発表しました。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Історія міста1986年10月2日の決定、1986年12月の着工、8共和国の名、1987年2月19日の令、1988年3月26日の入居、14の街区と2万5千人、計画人口、1999年の法律
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