本文へ移動

ウクライナの人・文化・社会・未来を、日本と世界につなぐ

Ukrainavi Ukrainavi

文化・歴史/解説

22年公開されなかった『渇いた者の井戸』と、ウクライナの詩的映画

1965年に撮られたユーリー・イリエンコ監督の『渇いた者の井戸』は「思想的な逸脱」を理由に棚に置かれ、公開は1987年でした。『火の馬』のあと、キーウの撮影所で続いた「詩的映画」の主な作品と、事典と所蔵機関で食い違う製作年、1974年に閉じられた経緯、そして「詩的映画」という呼び名の出どころをまとめます。

イメージ画像

オリュカのひとこと

「詩的映画」とは、誰が最初に呼んだ言い方なのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

1964年、キーウのオレクサンドル・ドヴジェンコ記念撮影所で、セルゲイ・パラジャーノフ監督の『忘れられた祖先の影』が作られました。日本では『火の馬』の題で知られる映画です。原作の小説と映画の関係はコツュビンシキーの『忘れられた祖先の影』の記事で扱っています。

『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ)の「映画芸術」の項目(執筆 セルヒー・トルィムバチ)は、この映画がウクライナ映画の新しい波の始まりになり、その波が「詩的映画」(поетичне кіно)という名を得た、と書いています。以下は、パラジャーノフのあとに続いた作品と、それらがたどった道です。ウクライナ映画の歴史の全体は扱いません。

「詩的映画」という呼び名

誰が名づけたのか

ЕСУの項目は、波が「名を得た」と受け身で書き、誰が名づけたのかを記していません。英語の事典 Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU、カナダ・ウクライナ研究所)の「Film」の項目(初出1984年)は、1960年代の作品を挙げながら、この語を使っていません。一方、同じ事典のレオニード・オスィカの項目は、彼の『石の十字架』を「詩的映画版」の映画化と呼んでいます。

語の由来について、ウクライナ国立科学アカデミーの民族学研究所の学術誌『民衆創作と民族学』に載ったラリーサ・ナウモワの論文(2016年)は、次の点を挙げています。

  • 1927年、ヴィクトル・シクロフスキーが論集『映画の詩学』の論文「映画における詩と散文」で、「散文的な映画と詩的な映画がある」と書いた
  • その後、「詩的」「散文的」という語は、はっきりした定義のないまま映画理論の文章に現れるようになり、とくに「詩的映画」が広まった
  • 哲学者セルヒー・プロリェイェウは、この語はソ連の映画批評の中で現れたもので、社会主義リアリズムの外にある芸術上の選択をほのめかすと思想上の非難を受けかねない中、「思想的に中立な」語として都合がよかった、とみている

論文の整理では、この語は一人の批評家が一度に名づけたものではなく、ソ連の映画批評の中で使われるうちに定着しました。ウクライナの1960年代の作品群に、いつ誰がこの名を当てはめたのかは、ここで挙げた資料からはわかりません。

  1. オリュカ

    この流れの呼び方は、いつも「詩的映画」だけだったのでしょうか。

  2. ヨリクネ

    本の題名を並べると、呼び方がいくつかあるのが、この見出しの下で分かるよ。

  3. タブリ

    国の百科事典が使う言い方も、この見出しの下に書いてあるよ。

「詩的映画」「詩的な波」「禁じられた派」

呼び方もひとつではありません。国の電子版『大ウクライナ百科事典』は見出しを「ウクライナの詩的映画」とし、1960年代の、視覚の表現力とシュルレアリスム的・民族誌的な主題を前に出した流れ、と定義しています。IEUが書誌に挙げる映画史家ラリーサ・ブリュホヴェツィカの1989年の本の題は『ウクライナ映画の詩的な波』、ナウモワの論文が引く2001年の論集の題は『詩的映画:禁じられた派』です。

オリュカのひとこと

同じ作品でも、制作年が資料によって違うようです。この表で見比べられます。

主な作品と、食い違う年

事典と所蔵機関で、製作年が1〜2年ずれる作品があります。下の表では一つに決めず、資料ごとに並べました。ドヴジェンコ・センターはキーウにある国の映画アーカイブで、各作品を自館の「ウクライナ映画トップ100」で紹介しています(センターについてはドヴジェンコ・センターの記事)。

作品(原題)監督センターの製作年事典の年上映と受賞(資料の記述)
『忘れられた祖先の影』(Тіні забутих предків)セルゲイ・パラジャーノフ—1964(IEU・ЕСУ)IEUによれば、1965年のアルゼンチンとローマ、1966年のギリシャの映画祭で受賞
『渇いた者の井戸』(Криниця для спраглих)ユーリー・イリエンコ19651965(IEU「Film」・ЕСУ)/1966(IEU「Illienko」)公開されず、1987年に初めて上映(センター)。ЕСУは「禁止、1987年に名誉回復」
『イヴァン・クパーラの前夜』(Вечір на Івана Купала)ユーリー・イリエンコ19681967(IEU)/1968(ЕСУ)IEUによれば、ヴェネツィア国際映画祭のコンペティションに選ばれたが、ソ連文化省が作品を出さず、まもなく上映を禁じた。ЕСУは「禁止、1987年に名誉回復」
『石の十字架』(Камінний хрест)レオニード・オスィカ19681968(IEU・ЕСУ)ЕСУによれば、レニングラードの全ソ連映画祭で撮影賞の賞状
『退屈から』(З нудьги)アルトゥール・ヴォイテツキー19671968(ЕСУ「映画芸術」)ЕСУは詩的映画の作品に並べるが、センターは詩的映画とは異なる作品とする
『黒い印のある白い鳥』(Білий птах з чорною ознакою)ユーリー・イリエンコ19701970(ЕСУ)/1971(IEU「Illienko」)/1972(IEU「Film」「Mykolaichuk」)1971年、第7回モスクワ国際映画祭で金賞(ЕСУ)
『バビロン20世紀』(Вавілон XX)イヴァン・ミコライチュク19791979(IEU)/1980(ЕСУ「映画芸術」)センターによれば、二部作が一部に短縮され、リヴィウでは上映が禁じられた
ドヴジェンコ・センター「ТОП 100」の各作品の頁、ЕСУ(「映画芸術」、イリエンコ、オスィカの項目)、IEU(Film、Illienko, Yurii、Mykolaichuk, Ivan)から作成(2026年9月26日時点)。題の日本語は意味を示すための訳。『忘れられた祖先の影』のセンターの年は、この表では扱っていない。

『黒い印のある白い鳥』は禁じられたのか

資料の書き方がはっきり分かれるのが『黒い印のある白い鳥』です。ЕСУのイリエンコの項目(執筆 ラリーサ・ブリュホヴェツィカ、2011年)は、この作品を「禁止」と書き、同時にモスクワ国際映画祭の金賞、テヘランの映画祭の賞を挙げています。ドヴジェンコ・センターの紹介文は、作品がモスクワの映画祭に間に合って金賞を受け、これがペレストロイカ以前にイリエンコがソ連の検閲に対して収めた「唯一の、確かな勝利」だった、と書いています。どの時期に、どの範囲で上映が制限されたのかは、この二つの資料だけでは決められません。

何を描いたのか

ЕСУのトルィムバチは、社会主義リアリズムの映画では主人公が「闇」と「沈黙」から「光」と「言葉」へ進むのに対し、パラジャーノフや、続くイリエンコ、オスィカらの映画では逆に、主人公が言葉のない世界へ戻っていく、と説明しています。詩的映画には口のきけない人、目の見えない人、正気を失った人が多く登場する、というのがトルィムバチの読み方です。

  • 『渇いた者の井戸』:脚本は詩人イヴァン・ドラチ。家族に置き去りにされた老人レウコが、村の井戸の世話をしながら死の支度をする。センターによれば、主演のドミトロ・ミリュテンコにとって最後の役になった。ЕСУは、砂に呑まれて消えかけた村を描いたと書く
  • 『イヴァン・クパーラの前夜』:ゴーゴリの同じ題の短編が原作。センターによれば、撮影では牛や丘に色を塗り、撮影地のブチャク村の近くは、のちにカニウ貯水池の底に沈んだ(貯水池についてはドニプロ川の六つのダムの記事)
  • 『石の十字架』:ヴァシーリ・ステファニクの短編「石の十字架」と「泥棒」をもとに、脚本はドラチ。ガリツィアの農民イヴァン・ディドゥフが国外へ移り住む前夜を描く(センター)
  • 『黒い印のある白い鳥』:脚本はイリエンコとイヴァン・ミコライチュク。1937年からの、ルーマニアとポーランドの国境に近いフツルの村の一家を描く(センター)

原作に文学作品を持つ映画が多いのも特徴です。イリエンコはのちに、レーシャ・ウクラインカの戯曲を映画にした『森の歌。マウカ』も撮りました(ЕСУは1978年、IEUは1980年とする)。戯曲そのものはレーシャ・ウクラインカと『森の歌』の記事で扱っています。

棚に置かれた作品

ドヴジェンコ・センターは、『渇いた者の井戸』が撮影所での試写のあと「思想的な逸脱」を問われ、22年のあいだ棚に置かれたと書いています。センターが引く国家映画委員会の決定は、「監督ユーリー・イリエンコの経験不足によって、映画『渇いた者の井戸』には思想的な逸脱が生じ、その結果、映画は上映されず、26万8千ルーブルの費用は損失として処理された」という文面です。1965年に撮られた映画は、1987年に初めて公開されました。

IEUの「Film」の項目も、『渇いた者の井戸』と『イヴァン・クパーラの前夜』が検閲によって配給を禁じられたと書いています。同じ項目は、ドヴジェンコの死後、彼の脚本にもとづく映画がウクライナではなくモスクワで作られたことを、1960年代のウクライナ映画のロシア化の表れとして挙げています。

1973年の逮捕と、1974年の決定

IEUによれば、パラジャーノフは1965〜1968年、知識人の不当な逮捕に抗議する手紙を書いたことで圧力を受け、1973年に逮捕されました。国外からの働きかけを受けて、1977年に釈放されています。

ЕСУのトルィムバチは、1974年のウクライナ共産党中央委員会総会で、ウクライナの詩的映画が「民族誌趣味」(つまり「民族主義」)と形式の探求の行き過ぎを理由に公式に禁じられた、と書いています。パラジャーノフの逮捕や、国家映画委員会と撮影所の指導部の入れ替えとあわせて、ウクライナ映画にはそのあと「休止」が訪れた、というのがトルィムバチの説明です。センターは、1979年の『バビロン20世紀』を、詩的な波が抑え込まれてから15年近くあとに作られた作品として紹介しています。

作り手たち

  • ユーリー・イリエンコ(Юрій Іллєнко):ЕСУは「1936年5月9日チェルカーシ生まれ、旅券では1936年7月18日ドニプロペトロウシク生まれ」と二つを並べ、IEUは1936年7月18日チェルカーシ生まれとする。2010年6月15日没。『忘れられた祖先の影』では撮影を担当した
  • レオニード・オスィカ(Леонід Осика):1940年3月8日キーウ生まれ、2001年9月16日キーウ没(IEU・ЕСУ)
  • イヴァン・ミコライチュク(Іван Миколайчук):1941年6月15日ブコヴィナのチョルトリヤ生まれ、1987年8月3日キーウ没(IEU)。『忘れられた祖先の影』で主人公イヴァンを演じ、のちに監督も務めた
  • イヴァン・ドラチ(Іван Драч):詩人。『渇いた者の井戸』と『石の十字架』の脚本を書いた(センター)
出典と記事の記録出典 16件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Кіномистецтво1964年の『忘れられた祖先の影』から「詩的映画」と呼ばれる新しい波が始まったこと、主な監督と作品と年、1974年のウクライナ共産党中央委員会総会での禁止。執筆 С. В. Тримбач、第13巻2013年、2024年改訂
    発行:Енциклопедія Сучасної України(ウクライナ国立科学アカデミー・シェウチェンコ学術協会) 確認日:2026-09-26
  2. Іллєнко Юрій Герасимович生年月日と生地の二つの記載、監督作の年、「禁止」「1987年に名誉回復」の記載、モスクワ国際映画祭の賞。執筆 Л. І. Брюховецька、第11巻2011年
    発行:Енциклопедія Сучасної України 確認日:2026-09-26
  3. Осика Леонід Михайлович生没年、『石の十字架』1968年と受賞。執筆 Л. І. Брюховецька、第24巻、2024年改訂
    発行:Енциклопедія Сучасної України 確認日:2026-09-26
  4. Film1960年代・1970年代の節:作品の年、検閲による上映禁止、書誌。執筆 Ivan Koshelivets、初出1984年
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-26
  5. Illienko, Yurii生年月日、監督作の年、『イヴァン・クパーラの前夜』とヴェネツィア、モスクワ国際映画祭。執筆 Marko Robert Stech、2013年改訂
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-26
  6. Osyka, Leonid生没年、『石の十字架』を「詩的映画版」とする記述。2013年改訂
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-26
  7. Mykolaichuk, Ivan生没年、出演作と『バビロン20世紀』の年。初出1993年
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-26
  8. Paradzhanov, Serhii生没年、1973年の逮捕と1977年の釈放
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-26
  9. Криниця для спраглих1965年、73分、脚本 Іван Драч、国家映画委員会の決定の引用、1987年に公開
    発行:Довженко-Центр(ТОП 100) 確認日:2026-09-26
  10. Вечір на Івана Купала1968年、撮影地のブチャク村付近がカニウ貯水池に沈んだこと、検閲による禁止
    発行:Довженко-Центр(ТОП 100) 確認日:2026-09-26
  11. Камінний хрест1968年、ステファニクの二つの短編、脚本 Іван Драч、執筆 Юлія Коваленко
    発行:Довженко-Центр(ТОП 100) 確認日:2026-09-26
  12. Білий птах з чорною ознакою1970年、脚本 Іллєнко・Миколайчук、モスクワ国際映画祭の金賞と「検閲に対する唯一の勝利」という記述
    発行:Довженко-Центр(ТОП 100) 確認日:2026-09-26
  13. З нудьги1967年、アルトゥール・ヴォイテツキー監督、詩的映画とは異なるとする記述
    発行:Довженко-Центр(ТОП 100) 確認日:2026-09-26
  14. Вавілон XX1979年、二部から一部への短縮、リヴィウでの上映禁止
    発行:Довженко-Центр(ТОП 100) 確認日:2026-09-26
  15. Наумова Л. «Поетичне» кіно і мова кінематографаシクロフスキーの1927年の論文、プロリェイェウの見方の引用
    発行:Народна творчість та етнологія, 2016, № 3(ウクライナ国立科学アカデミー М. Т. Рильський 美術・民俗・民族学研究所) 確認日:2026-09-26
  16. Українське поетичне кіно見出し語の定義
    発行:Велика українська енциклопедія(電子版) 確認日:2026-09-26

記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。