ヴォリーニ地方に来たチェコ人。6万5千人から5,917人へ
19世紀の後半、ロシア帝国で農奴制が廃止されたあと、チェコの農民がウクライナ北西部のヴォリーニ地方に村をつくりました。20世紀の初めに約6万5千人いたウクライナのチェコ人は、2001年の国勢調査では5,917人です。移住の経過と人数の移り変わり、1947年と1990年代の移住を、二つの事典とチェコの統計局・議会の記録で追います。
オリュカのひとこと
ヴォリーニ地方には、チェコの人々が移り住んだそうです。最初の見出しで確かめられます。
2001年の全ウクライナ国勢調査で、ウクライナに住むチェコ人は5,917人と数えられました。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』第10巻(2013年)の項目「ウクライナのチェコ人」(執筆 S・ヴィドニャンシキー。以下ЕІУ)によれば、20世紀の初めには、いまのウクライナの土地に約130のチェコ人の村があり、チェコ人の数は6万5千人に達していました。その中心は、19世紀の後半に北西部のヴォリーニ地方へ移り住んだ農民とその子孫です。
どこから来て、何をし、なぜ少なくなったのかを、ЕІУと、カナダ・アルバータ大学ウクライナ研究所の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)の項目「Czechs」(執筆 V・マルクス、2020年改訂)、チェコ統計局の刊行物、チェコ議会の記録で追います。ヴォリーニ地方は、いまのヴォリーニ州・リウネ州とジトーミル州の大部分にあたる歴史的な地域の名前です(州の名前とは別の地域名の記事)。
1860年代、農奴制の廃止のあとに
チェコの人々がいまのウクライナの土地に来た記録は中世からありますが、村ごと移り住むようになったのは、ロシア帝国で農奴制が廃止されたあとの1860年代からです。IEUとЕІУはどちらも、ヴォリーニ地方の村リュドハルディウカ(Людгардівка、1863年)を主な移住先の最初に挙げています。
ЕІУによれば、1868〜1870年に946のチェコ人の家族がヴォリーニ地方に移り、1万7,500デシャチーナ(1デシャチーナは約1.09ha)の土地を得ました。リウネには移住のための特別な委員会が置かれ、移住者は地主の土地を有利な条件で買いました。多かったのはドゥブノ郡で、のちにルツィク、オストロフ、ジトーミル、ヴォロディーミルの各郡にも広がり、南のヘルソン県やタヴリダ県にも村ができています。
1870年からは、移住者はロシアの臣民になることを認められ、自分たちの共同体と郷(ヴォロスチ、村々をまとめた行政の単位)をつくる権利、信仰の自由、5年間の税と兵役の免除を得たと、ЕІУは書いています。IEUは、リウネ、ドゥブノ、ルツィク、クプィチウの四つのチェコ人の郷ができたと書きます。1874年からは、土地を買う手続きが難しくなり兵役の義務も及んだため、移住は減りました(ЕІУ)。
畑と、町の仕事
IEUによれば、チェコ人の村は進んだ農法と技術で豊かになり、学校、新聞、団体、協同組合を持ちました。農業の機械をボヘミア(いまのチェコの西部)から取り寄せ、その農法と技術は近くのウクライナ人の村にもまねされた、と同じ項目は書いています。
村の外でも、職人、建築の職人、ビールの醸造の職人がリヴィウ、キーウ、ジトーミルなどの町に住みました(ЕІУ)。キーウではチェコ人の団体の働きかけで1907年にチェコ語の学校が開かれ、1910年には86人の子どもが学び、学校は1934年まで続いています。キーウでは1888年からチェコ語の刊行物も出ていました。
オリュカ
移り住んだチェコ人は、どんな信仰を持っていたのかな。
スウネ
二つの事典の書き方の違いが、この見出しの下の表に並んでいるよ。
ヨリクネ
表の下の注記には、二つの事典が書いている範囲の違いもあるよ。
信仰は、事典によって書き方が違う
移り住んだチェコ人の信仰について、二つの事典の書き方は食い違います。
| 事典 | 書いていること |
|---|---|
| IEU「Czechs」 | ヴォリーニ地方のチェコ人は、ほとんどが正教に改宗した。一部はプロテスタント(チェコ兄弟団)の信仰を保った |
| ЕІУ「ウクライナのチェコ人」 | チェコ人の多くはローマ・カトリック教会と、プロテスタントの「チェコ兄弟団」に属し、一部が正教を受け入れた |
どちらが正しいかは、この二つの項目だけでは決められません。時期や地域によって違った可能性もあります。
オリュカのひとこと
住んでいた人の数は、時代とともに変わってきたようです。この見出しで確かめられます。
人数の移り変わり
チェコ人の数は、数えた時点と範囲が回ごとに違います。同じ条件で比べられる数字ではないことを断ったうえで、二つの事典と国勢調査の数字を並べます。
| 時点 | 人数 | 数えた範囲 | 典拠 |
|---|---|---|---|
| 1897年 | 2万7,670人 | ヴォリーニ県で母語をチェコ語(スロバキア語を含む)と答えた人 | ロシア帝国の第1回国勢調査の集計表 |
| 20世紀の初め | 約6万5千人 | いまのウクライナの土地のチェコ人(約130の村) | IEU、ЕІУ |
| 1921年以後 | 約2万人 | リガ条約でポーランド領に入った西部のチェコ人 | IEU、ЕІУ |
| 1926年 | 1万7,500人 | ソ連のウクライナとクリミア自治共和国 | IEU、ЕІУ |
| 1939年 | 5万2千人 | 第二次世界大戦の前夜のウクライナ | ЕІУ |
| 1959年 | 1万4,500人 | ソ連のウクライナ | IEU、ЕІУ |
| 1989年 | 9,100人 | ソ連のウクライナ | ЕІУ |
| 2001年 | 5,917人 | ウクライナ全土 | IEU、ЕІУ |
ЕІУによれば、2001年に最も多く住んでいたのはジトーミル州(839人)で、ザポリッジャ州(808人)、クリミア自治共和国(749人)、オデーサ州(503人)が続きました。母語をチェコ語と答えた人は20.1%で、ウクライナ語が42.3%、ロシア語が36.2%でした。
二つの国に分かれた戦間期
1921年のリガ条約で、ヴォリーニ地方の西部はポーランド領になり、約2万人のチェコ人がポーランドの国民になりました(IEU、ЕІУ)。ソ連の側では、IEUによれば1920年代に12のチェコ人の村ソヴィエト(村の行政の単位)があり、チェコ語の小学校もありました。
1943年7月13日、チェスキー・マリン
1943年7月13日、ヴォリーニ地方のチェコ人の村チェスキー・マリン(Český Malín)はドイツ軍に包囲されて焼かれ、チェコ軍の軍事歴史研究所によれば、374人のチェコ人が殺されました。
1947年、チェコスロバキアへ
1944年には、ヴォリーニ地方の多くのチェコ人が、ソ連の領内でつくられたチェコスロバキアの部隊に志願しています(IEU、ЕІУ)。戦争のあと、ソ連とチェコスロバキアの取り決めにもとづいて、チェコ人の多くがウクライナを離れました。
チェコ統計局の雑誌『Statistika&My』は、1948年の統計局の刊行物をもとに、こう書いています。1947年のヴォリーニのチェコ人の帰還は、1946年7月10日にソ連と結んだ取り決めで可能になり、3万3,050人がソ連を離れた。これはその年にチェコスロバキアへ戻った人の63.4%にあたる。91本の列車が1947年2月から6月にかけて出され、職業では80%が自作の農民だった。出身はドゥブノ、リウネ、ルツィク、シェペティウカ、ズドルブニウ、ジトーミルなどで、移った先は北西ボヘミアのジャテツ周辺や南モラヴィアのミクロフ周辺、シレジアなどだった。同じ記事は、当時の帰還政策の目的を、追放したドイツ系住民のあとを埋める働き手を得ることにあった、とする1948年の記述も引いています。
取り決めは1945年か、1946年か
この取り決めの年は、資料によって違います。IEUは「1945年のチェコスロバキアとソ連の条約にしたがって」多くのチェコ人が帰った、ЕІУは「1945年の住民交換に関するチェコスロバキアとソ連の取り決め」にもとづいて出国したと書いています。一方、チェコ統計局の記事は、ヴォリーニのチェコ人の帰還を可能にした取り決めを1946年7月10日の署名としています。ウクライナに残ったのは、IEUによれば1万人を少し超える人々で、多くはジトーミル州に住んでいました。
チョルノービリ原発事故のあとの移住
ЕІУによれば、1986年のチョルノービリ原発事故の影響は、ヴォリーニ地方のチェコ人の村にも及び、そのため1992〜1993年に1,800人のチェコ人がウクライナを離れました。
チェコ側の議会の記録では、移住はそれより早く始まっています。1991年4月23日から5月14日のチェコ国民評議会(いまのチェコ下院の前身)の会議で出された質問によれば、チェコ政府の決定(第48号)のもとで、事故の影響を受けた地域から最初のグループが直前にチェコスロバキアへ移っていました。同じ記録は、それまでに出された950件の申請が、ジトーミル州コロステン地区のマラ・ズビウシチナ村(チェコ語ではMalá Zubovština)とコロステン市の一部の住民に限られていたとも書いています。
いまウクライナに残るチェコ人の団体として、ЕІУはジトーミルの「ヴォリーニのチェコ人協会」、キーウ、リヴィウ、オデーサ、クリミアなどの団体を挙げています(2013年の記述)。ウクライナの少数民族の数を示す全国の数字は、いまも2001年の国勢調査のものしかありません(ウクライナの国勢調査の記事)。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- ЧЕХИ В УКРАЇНІ2001年の5,917人と州別・母語別の数、1868〜70年の946家族、リウネの委員会、郡、1870年の権利、1874年、約130の村と6万5千人、町の職人、キーウの学校、信仰、リガ条約の約2万人、1926・1939・1959・1989年の数、1945年の取り決め、1992〜93年の1,800人、団体。執筆 С. В. Віднянський
発行:Енциклопедія історії України, т. 10(Інститут історії України НАН України, 2013) 確認日:2026-09-27 - Czechs1860年代の移住、リュドハルディウカ1863年、郡、四つの郷、約130の村と6万5千人、正教への改宗、農業の機械、1926年の数、村ソヴィエト、1944年の志願、1945年の条約、残った1万人余り、1959・2001年の数。執筆 Vasyl Markus、2020年改訂
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Návraty do staré vlasti1946年7月10日の取り決め、1947年の3万3,050人と63.4%、91本の列車、2〜6月、職業、出身地と移住先、1948年の統計の刊行物の引用
発行:Statistika&My(Český statistický úřad) 確認日:2026-09-27 - Ústní interpelace … na 18. schůzi České národní rady1991年4月23日〜5月14日。最初のグループの移住、政府決定第48号、950件の申請とマラ・ズビウシチナ村・コロステン
発行:Česká národní rada(Poslanecká sněmovna, digitální knihovna), tisk 283 確認日:2026-09-27 - Nezapomeneme, pomstíme!1943年7月13日のチェスキー・マリン、374人
発行:Vojenský historický ústav Praha 確認日:2026-09-27 - Первая всеобщая перепись населения Российской империи 1897 г.:Распределение населения по родному языку, Волынская губернияチェコ語〈スロバキア語〉2万7,670人
発行:Демоскоп Weekly(Институт демографии НИУ ВШЭ)による集計表の公開 確認日:2026-09-27
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