1918年、ヘーチマンの法律で生まれたウクライナの科学アカデミー
ウクライナ国立科学アカデミーは、1918年11月14日にヘーチマンのスコロパツキーが署名した法律から始まりました。13日後の最初の総会で、地質学者ヴェルナツキーが総裁に選ばれています。名前は4回変わり、2026年3月時点で159の研究機関を抱えます。設立の日の数え方、名前と総裁の年表、職員の数を並べます。
オリュカのひとこと
ウクライナの科学アカデミーは、いつ生まれたのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
キーウに本部を置くウクライナ国立科学アカデミーは、法律のうえでウクライナの最高の学術機関とされる、学者の自治の組織です。アカデミー自身の説明によれば、2026年3月1日時点で159の研究機関を抱えています。その始まりは1918年11月、ロシア帝国が崩れたあとに生まれたウクライナ国で、ヘーチマン(国の元首)パウロ・スコロパツキーが署名した一つの法律でした。
設立の経緯、名前と総裁の移り変わり、いまの規模を、アカデミーの公式の沿革と年次報告、カナダ・アルバータ大学ウクライナ研究所の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)の項目「National Academy of Sciences of Ukraine」(2017年改訂)、アカデミーなどが刊行する『現代ウクライナ百科事典』(以下ЕСУ)の項目(執筆 I・ジュバ)で確かめます。
1918年11月14日の法律
ЕСУによれば、1918年5月5日、ウクライナ国の国民教育相ムィコラ・ヴァスィレンコが、学校のウクライナ語化、大学の設立、科学アカデミーと国立図書館の設立を含む計画をスコロパツキーに示し、計画は承認されました。アカデミーの法律の案をつくる委員会の長には、ペテルブルクの科学アカデミーの会員だった地質学・地球化学者のヴォロディーミル・ヴェルナツキーが招かれます。委員会は1918年7月9日から9月17日まで作業をしました。
アカデミーの公式の沿革によれば、11月14日、スコロパツキーは法律「キーウにウクライナ科学アカデミーを設立することについて」に署名し、同じ日に最初の正会員12人を任命しました。歴史家ドミトロ・バハリー、東洋学者アハタンヘル・クリムシキー、ヴェルナツキー、力学者ステパン・ティモシェンコ、経済学者ムィハイロ・トゥハン=バラノウシキーらです。IEUによれば、規約はアカデミーを歴史・文献学、物理・数学、社会科学の三つの部門に分け、刊行物をウクライナ語で出すことを定め、当時オーストリア=ハンガリー領だった西ウクライナのウクライナ人も正会員になれるとしていました。
ЕСУは、同じ11月14日にスコロパツキーがロシアとの連邦を宣言する文書を出し、その日に彼の政権に対する蜂起が始まったことも書いています。12月にはウクライナ人民共和国の執政府(ディレクトーリヤ)がキーウを押さえました。そのあいだの11月27日、正会員12人のうち8人が最初の総会を開き、ヴェルナツキーを総裁に、クリムシキーを常任書記に選んでいます(公式の沿革、ЕСУ)。
オリュカ
アカデミーが生まれた日は、どの日と数えるのかな。
スウネ
資料ごとに設立とする日が、この見出しの下の表で見比べられるよ。
タブリ
名前と総裁の移り変わりは、次の見出しの年表でたどれるよ。
「設立の日」はいつか
どの日をアカデミーの「設立の日」とするかは、資料によって違います。
| 資料 | 設立とする日 | その日にあったこと |
|---|---|---|
| アカデミーの「アカデミーについて」のページ(2026年3月1日時点) | 1918年11月27日 | 最初の総会で、ヴェルナツキーを総裁に選んだ |
| アカデミーの公式の沿革 | 11月14日の法律と、27日の設立の総会の両方を書く | 法律の署名と最初の12人の任命(14日)、総裁の選出(27日) |
| ЕСУ | 1918年11月14日を「公式の設立」とする | 法律の署名と、最初の12人の任命 |
| IEU | 1918年11月14日に法律が成立し、同じ日に開かれたと書く | 同上 |
| ソ連時代の記述(IEUによる) | 1919年 | ボリシェヴィキが自分たちをアカデミーの創設者とし、1919年を始まりとした |
IEUは、ソ連時代の記述がヘーチマン政権のもとでの設立を無視し、ボリシェヴィキがキーウを取った1919年を始まりとしたと書いています。
オリュカのひとこと
名前と率いてきた人は、どう移り変わったのでしょう。この年表で確かめられます。
年表:名前と総裁
| 年月日 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1918年11月14日 | ウクライナ国の法律でウクライナ科学アカデミー(УАН)ができる。最初の正会員12人を任命 | 公式の沿革、IEU |
| 1918年11月27日 | 最初の総会。ヴェルナツキーを総裁に選ぶ | 公式の沿革、ЕСУ |
| 1919年12月 | ヴェルナツキーがキーウを離れ、歴史家オレスト・レヴィツキーが総裁の務めを代わる(1921年7月まで) | ЕСУ |
| 1921年6月14日 | ソ連ウクライナの人民委員会議の決定で、全ウクライナ科学アカデミー(ВУАН)に改める | IEU |
| 1921年7月18日 | 法学者ヴァスィレンコを総裁に選ぶが、ボリシェヴィキの政権が認めない | ЕСУ |
| 1922年6月12日 | 植物学者ヴォロディーミル・リプシキーが総裁になる(1928年まで) | ЕСУ |
| 1928年 | 微生物学者ダニーロ・ザボロトヌィーを総裁に選ぶ | IEU |
| 1930年 | 病理生理学者オレクサンドル・ボホモレツが総裁になる(1946年まで) | IEU |
| 1936年2月21日 | 新しい規約。ソ連ウクライナの科学アカデミーになる | ЕСУ、IEU |
| 1946年 | 生化学者オレクサンドル・パラディンが総裁になる | IEU |
| 1962年 | 溶接の研究者ボリス・パトンが総裁になる | IEU |
| 1991年 | ウクライナ科学アカデミーに改め、ソ連科学アカデミーの下から離れる | IEU、ЕСУ |
| 1992年3月20日 | 総会が新しい規約を承認する | IEU、ЕСУ |
| 1994年3月 | 大統領令で「国立」の地位を得る。3月22日の総会が名前を「ウクライナ国立科学アカデミー」と決める | ЕСУ |
| 2020年10月 | 物理学者アナトリー・ザホロドニーが総裁になる | 公式サイト |
| 2025年10月7日 | 総裁の選挙。ザホロドニーを再び選ぶ | 公式サイト、2025年の年次報告 |
ボリス・パトンは1962年から2020年に亡くなるまで総裁を務めました。パトンと溶接研究所のことはパトン溶接研究所の記事で扱っています。
昔の呼び名と、いまの呼び名
アカデミーの名前は4回変わりました。アカデミーの公式の沿革の区切りに、IEUとЕСУの書き方を添えて並べます。
| 時期 | ウクライナ語の名前 | 日本語にすると |
|---|---|---|
| 1918〜1921年 | Українська академія наук(УАН) | ウクライナ科学アカデミー |
| 1921〜1936年 | Всеукраїнська академія наук(ВУАН) | 全ウクライナ科学アカデミー |
| 1936〜1991年 | Академія наук Української РСР | ウクライナ・ソビエト社会主義共和国科学アカデミー |
| 1991〜1993年 | Академія наук України | ウクライナ科学アカデミー |
| 1994年から | Національна академія наук України(НАН України) | ウクライナ国立科学アカデミー |
IEUは、1921年に「全ウクライナ」を名前に加えたことで、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアに住むウクライナ人にとっての意味が強調された、と書いています。1936年の改名については、アカデミーが国民のアカデミーから、ソ連の一共和国という領域のアカデミーに変わったと書いています。
1930年代の弾圧
1930年代、アカデミーの学者は相次いで逮捕され、追放されました。IEUは、歴史家ナタリヤ・ポロンシカ=ヴァスィレンコの推計として、22人の正会員を含む250人を超える研究者が弾圧を受けたと書いています(この時代の作家や学者の運命はサンダルモフの記事)。
いまのアカデミー
アカデミーの説明(2026年3月1日時点)によれば、最高の機関は正会員と準会員でつくる総会で、総会のあいだは任期5年の幹部会がアカデミーを率います。研究は三つの部門(物理・技術と数学、化学と生物学、社会科学と人文学)と14の分科に分かれ、159の研究機関があります。ヴェルナツキー記念ウクライナ国立図書館や、ハルキウ物理技術研究所もアカデミーの機関です。教育科学省と共同で持つ地域の科学センターが五つあり、クリミアの科学センターは2014年から活動と予算が止まっています。
2025年10月7日の総裁の選挙には2人が立ち、配られた694票のうち608票を得たザホロドニーが再び選ばれました(アカデミーのお知らせと年次報告)。
オリュカ
アカデミーで働く人の数は、どう数えられているのかな。
スウネ
年ごとに数えている範囲が違うことが、この見出しの下の表にあるよ。
ヨリクネ
アカデミーの研究機関の一つは、この見出しの上の本文のリンク先の記事で読めるよ。
職員の数は、何を数えているか
アカデミーで働く人の数は、ソ連の終わりから大きく減っています。ただし、資料ごとに数えている範囲が違います。
| 年 | 人数 | 数えているもの | 典拠 |
|---|---|---|---|
| 1988年 | 8万9,573人 | アカデミーの職員(産業部門の研究部署で働く人を含む) | IEU |
| 2012年 | 4万609人 | 同上 | IEU |
| 2016年 | 3万7,447人(うち研究者1万8,346人) | アカデミーで働く人 | IEU |
| 2025年 | 2万3,982人(うち研究者1万3,003人) | アカデミーの研究機関で働く人 | 2025年の年次報告 |
1988年と2012年の数字には研究機関以外の部署で働く人も入っていると、IEUは断っています。2016年と2025年の数字も、数えた範囲が同じとは限りません。減り方の大きさを言うときは、どの年の、どの範囲の数字かを添える必要があります。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Історія НАН України1918年11月14日の法律と最初の12人、11月27日の設立の総会、歴代の総裁、名前の4回の変更と時期
発行:Національна академія наук України 確認日:2026-09-27 - Про Національну академію наук України2026年3月1日時点。設立を1918年11月27日とする記述、法的な地位、総会と幹部会、3部門・14分科、地域の科学センター、159の研究機関
発行:Національна академія наук України 確認日:2026-09-27 - Загородній Анатолій Глібович2020年10月から総裁
発行:Національна академія наук України 確認日:2026-09-27 - Президентом НАН України обрано академіка Анатолія Загороднього2025年10月7日の選挙、608票と60票
発行:Національна академія наук України 確認日:2026-09-27 - Звіт про діяльність Національної академії наук України у 2025 році案。職員2万3,982人、研究者1万3,003人、博士・候補博士の数、2025年10月7日の選挙の694票
発行:Національна академія наук України(Академперіодика, 2026) 確認日:2026-09-27 - National Academy of Sciences of Ukraine各時期の名前、1918年の委員会と法律、規約、1919年とするソ連の記述、1921年6月14日の改名、総裁、1930年代の弾圧の推計、1936年・1991年・1994年、1988〜2016年の職員数。執筆 Serhiy Bilenky ほか、2017年改訂
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Академія наук України Національна1918年5月5日の計画、委員会の期間、11月14日を「公式の設立」とする記述、同日の連邦の文書と蜂起、11月27日の総会、レヴィツキーとヴァスィレンコ、リプシキー、1936年2月21日の規約、1992年の規約、1994年3月の大統領令と3月22日の総会。執筆 І. М. Дзюба
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-27
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