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文化・歴史/解説

1937年秋、サンダルモフで銃殺された1,111人と「処刑されたルネサンス」

1937年10月27日から11月4日、ロシア北西部カレリアの森で、ソロフキの監獄の囚人1,111人がソ連の秘密警察に銃殺されました。演出家レシ・クルバス、劇作家ミコラ・クリーシら、1920年代のウクライナ文化を担った人たちが含まれます。何人がウクライナから来たのかは資料で201人から約300人まで割れます。経過と数字、見つかった後のことをまとめます。

1937年10月27日から11月4日にかけて、ロシア北西部カレリアの森の中の空き地サンダルモフで、1,111人が銃殺されました。全員が、白海のソロヴェツキー諸島(ソロフキ)の監獄に入れられていた囚人でした。ウクライナの国立の研究機関の事典は、演出家レシ・クルバス、劇作家ミコラ・クリーシ、詩人ミコラ・ゼロウ、作家ヴァレリヤン・ピドモヒルヌィらの名前を、この中に挙げています。

殺したのはソ連の内務人民委員部(NKVD)です。Internet Encyclopedia of Ukraine(カナダ・アルバータ大学のウクライナ研究所=CIUS発行。以下IEU)は、この大量銃殺を「十月革命20周年に合わせたもの」と書いています。1920年代にウクライナ語で花開いた文学や演劇の担い手が、ここで数多く命を奪われました。

「処刑されたルネサンス」という呼び名

1920年代のソヴィエト・ウクライナでは、ウクライナ語の詩、小説、演劇、学問が一斉に新しい形を探しました。それが1930年代の弾圧で断ち切られたことを指して、「処刑されたルネサンス」(Розстріляне відродження、ロズストリリャネ・ヴィドロジェンニャ)と呼びます。

ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』によれば、この言葉には二つの意味があります。一つは、文芸評論家ユーリー・ラウリネンコが編み、1959年8月にパリで出版されたアンソロジーの題名です。ポーランドの亡命出版社「クルトゥーラ」を率いたイェジ・ギェドロイツの呼びかけで作られ、1933年までにソヴィエト・ウクライナで発表され、その後禁じられた作品を集めました。もう一つは、1920〜30年代のウクライナの知識層を肉体的に消し去り、その仕事を語ることさえ禁じたモスクワの共産党政権の政策を指す言葉としての使い方です。同事典は、ラウリネンコがこの言葉を1944〜45年から使っており、1959年の本で広まったと書いています。

どの本から読み始めればよいかは、ウクライナ文学は何から読むか──日本語で読める本をジャンルと時代ででも触れています。

ソロフキの監獄から、カレリアの森へ

ソロフキはもともと修道院の島で、ソ連は1920年代からここを収容所として使いました。IEUによれば、1937年に「ソロヴェツキー特別監獄」に改められています。1920年代の終わりから1930年代にかけて、農業集団化で追われた農民、ウクライナ独立自治正教会の活動家、そしてウクライナの作家や学者が次々に送り込まれました。

『ウクライナ史百科事典』の「ソロフキの銃殺 1937〜1938」の項目(歴史家ユーリー・シャポヴァル執筆)は、経過を次のように書いています。

  • 1937年8月16日、NKVDのエジョフ長官が指令第59190号を出し、監獄の囚人のうち「反革命分子」を2か月で処分するよう命じた。ソロフキの監獄には1,200人という数が割り当てられた
  • 監獄の側は1,116人分の書類をレニングラードに送った。取り調べは行われず、囚人の間の密告をもとに書類が作られた
  • レニングラード州NKVDの「特別トロイカ」が、10月9日・10日・14日の議事録(第81〜85号)で1,116人に死刑を言い渡した
  • 囚人は海路でケミに、そこから鉄道でメドヴェジヤ・ゴラ(現在のメドヴェジエゴルスク)に移され、縛られてサンダルモフに運ばれた
  • 1,116人のうち、実際に銃殺されたのは1,111人。レニングラード州NKVDのミハイル・マトヴェーエフ大尉が、1日に200〜250人を自ら撃った

ウクライナ国家記憶研究所が2017年10月に出した資料も、1,111人、10月27日と11月1〜4日、マトヴェーエフの名を同じように挙げています。ソロフキの囚人の銃殺はこれで終わりませんでした。同じ事典によれば、1938年1月にさらに509人が殺され、最後の一団は1938年2月の議事録でソロフキの島の上で銃殺されました。国家記憶研究所は、1937年10月から1938年2月までにトロイカが死刑を言い渡したソロフキの囚人を1,825人としています。

1,111人のうち、ウクライナから来た人は何人か

この数は、資料によって違います。数え方(「ウクライナから来た囚人」か「ウクライナ人」か)と、いつの調査かが違うためで、どれが正しいかをこの記事では決められません。

資料1,111人のうちウクライナの人サンダルモフ全体の犠牲者
『ウクライナ史百科事典』「サンダルモフ」(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所、シャポヴァル執筆)201人(ウクライナから来た囚人)9,500人超、58の民族
ウクライナ国家記憶研究所(2017年10月26日)約300人約7,000人、60の民族(うちウクライナ人677人超)
ハルキウ人権擁護グループ(2012年10月27日)290人記載なし
出典:各資料の記載(2026年9月24日に閲覧)。「全体の犠牲者」は1937〜38年にサンダルモフで銃殺された人の数で、ソロフキの囚人以外も含む。

同じ歴史研究所の事典でも、「サンダルモフ」の項目は銃殺の期間を「10月24日から11月4日」、「ソロフキの銃殺」の項目は「10月27日から11月4日」と書いています。国家記憶研究所とハルキウ人権擁護グループは、どちらも10月27日からとしています。

銃殺された人たち

IEUの人物項目は、次の人たちの没年月日を1937年11月3日、没地をサンダルモフとしています(生年はIEUによる)。

  • レシ・クルバス(1887年生まれ)。演出家。1922年にキーウで劇団「ベレジリ」を立ち上げ、1926年に当時の首都ハルキウへ移った。表現主義や構成主義を取り入れた舞台で、ウクライナの演劇を作り替えたとされる。1933年10月に劇団を追われ、同年12月に逮捕された
  • ミコラ・クリーシ(1892年生まれ)。劇作家。1924年の『97』で名を知られ、クルバスと組んで『民衆のマラヒー』(1927年)、『ミナ・マザイロ』(1929年)などを書いた。IEUは「20世紀で最も名高いウクライナの劇作家」と書く。1934年12月に逮捕された
  • ミコラ・ゼロウ(1890年生まれ)。詩人、古代ローマ詩の翻訳者、文学史家で、キーウの「ネオクラシシスト」の中心にいた。1935年4月に逮捕され、1937年10月9日に改めて死刑を言い渡された
  • ヴァレリヤン・ピドモヒルヌィ(1901年生まれ)。作家、翻訳家。長編小説『都市』などで知られる。1934年に逮捕された
  • パウロ・フィリポヴィチ(1891年生まれ)。詩人、文学研究者で、キーウ大学の教授だった。1935年8月に逮捕された
  • ミハイロ・ヤロヴィ(1895年生まれ)。詩人、作家。IEUは、1933年5月の彼の逮捕を、ウクライナの知識層に対する弾圧の始まりの合図だったと書く
  • オレクサ・スリサレンコ(1891年生まれ)。詩人、作家。1934年に逮捕された

国家記憶研究所と『現代ウクライナ百科事典』(ウクライナ国立科学アカデミー)によれば、ウクライナの著名人の多くは「事件第103010/37号」という一つの事件にまとめられていました。国家記憶研究所が引く事件名は「ウクライナのブルジョワ民族主義者134人について」です。

作家だけではありません。国家記憶研究所の資料は、地理学者ステパン・ルドニツキー、歴史家マトヴィイ・ヤヴォルシキー、1918〜19年にウクライナ人民共和国の政府を率いたヴォロディミル・チェヒウシキーらも、サンダルモフで殺された人として挙げています。

60年たって見つかった場所

銃殺の場所は長いあいだ伏せられていました。『ウクライナ史百科事典』によれば、1997年7月1日、サンクトペテルブルクの研究・情報センター「メモリアル」のメンバーが最初の発掘を始めました。カレリアの郷土史家ユーリー・ドミトリエフも捜索に加わり、236の穴が見つかりました。国家記憶研究所は、見つけた人として歴史家ヴェニアミン・ヨッフェとドミトリエフの名を挙げています。

1997年10月27日には、ソ連の収容所に入れられていた作家エウヘン・スヴェルスチュークが、木の十字架をサンダルモフに運びました。のちに「ウクライナの殺された息子たちへ」と刻んだ花崗岩の十字架が建てられています(建立を歴史研究所の事典は2004年10月、国家記憶研究所は2005年としています)。1998年8月22日には、「人々よ、殺し合うな」と刻んだ記念碑も建ちました。

ウクライナでは、2007年5月21日の大統領令第431号が、毎年5月の第3日曜日を「政治弾圧の犠牲者を追悼する日」と定めました。同じ大統領令は、毎年8月にサンダルモフとソロフキで開かれる追悼の日々に、ウクライナの代表団を送るよう求めています。国家記憶研究所の2017年10月の記述によれば、代表団は1997年から2014年にロシアがウクライナへの軍事侵略を始めるまで、毎年サンダルモフとソロフキを訪れていました。

追悼の場所を見つけた人のその後

サンダルモフはロシア連邦のカレリア共和国にあります。場所を見つけたドミトリエフは、2016年からロシアで刑事手続きにかけられてきました。国連人権理事会の特別報告者らは2021年2月1日、手続きが政治的な動機によるものではないかと懸念を表明しました。声明はこう述べています。

ロシア当局は、犠牲者とその家族、そして社会全体に対する真実への権利を守っていないだけではない。正当な研究を妨げ、大粛清の時代に行われた犯罪の本当の規模を小さく見せるように、歴史の本を書き換えようとしている。

国連人権理事会の特別報告者らの声明(2021年2月1日、国連人権高等弁務官事務所)

1930年代のウクライナでは、1932〜33年のホロドモールも起きています(ホロドモールの死者は何人か。推計が260万から500万まで割れる理由)。飢饉と、知識層の銃殺は、同じ10年のうちに続けて起きました。

出典・参考資料

  1. САНДАРМОХ(Шаповал Ю.І.。1111人を名前まで特定、うち201人がウクライナからの囚人、10月24日〜11月4日、全体9,500人超・58民族、1997年7月の捜索と236の穴、2004年10月の十字架、1998年8月22日の記念碑、毎年8月5日の追悼)
    発行:Інститут історії України НАН України(Енциклопедія історії України) 確認日:2026-09-24
  2. СОЛОВЕЦЬКІ РОЗСТРІЛИ 1937–1938(Шаповал Ю.І.。指令第59190号(1937年8月16日)と1,200人、1,116人の書類、議事録第81〜85号(10月9・10・14日)、取り調べなし、1,111人、マトヴェーエフが1日200〜250人、1938年1月の509人、1938年2月の議事録第303号、1997年7月1日の発掘開始)
    発行:Інститут історії України НАН України(Енциклопедія історії України) 確認日:2026-09-24
  3. РОЗСТРІЛЯНЕ ВІДРОДЖЕННЯ(Рубльов О.С.。1959年8月のパリの出版、クルトゥーラとギェドロイツ、1933年までの作品、言葉の二つ目の意味、1944〜45年からの使用)
    発行:Інститут історії України НАН України(Енциклопедія історії України) 確認日:2026-09-24
  4. До роковин розстрілів української інтелігенції в урочищі Сандармох(2017年10月26日。約7,000人・60民族・677人超、1,111人、10月27日と11月1〜4日、1,825人、約300人、ケミとメドヴェジヤ・ゴラ、1997年夏の発見、1997年10月27日の十字架、2005年の十字架、代表団、ルドニツキー・ヤヴォルシキー・チェヒウシキー)
    発行:Український інститут національної пам’яті 確認日:2026-09-24
  5. Sandarmokh 1937(2012年10月27日。1,111人のうち290人のウクライナ人、1997年10月27日の十字架)
    発行:Kharkiv Human Rights Protection Group 確認日:2026-09-24
  6. Соловецькі концтабори(С. І. Білокінь、2025年5月。1937年2月20日の特別監獄、トロイカによる1,825人、事件第103010/37号と134人、1,111人を10月27日〜11月4日にサンダルモフで銃殺、残る2つの組)
    発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24
  7. Solovets Islands(1937年の特別監獄への改組、収容されたウクライナ人)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  8. Kurbas, Les(1887年生、1937年11月3日サンダルモフで死去、ベレジリ1922年キーウ・1926年ハルキウ、1933年10月の解任と12月の逮捕、十月革命20周年の大量銃殺)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  9. Kulish, Mykola(1892年生、1937年11月3日サンダルモフ、『97』1924年、作品と年、1934年12月の逮捕、20世紀で最も名高い劇作家)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  10. Zerov, Mykola(1890年生、1937年11月3日サンダルモフ、1935年4月の逮捕、1937年10月9日の再判決)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  11. Pidmohylny, Valeriian(1901年生、1937年11月3日サンダルモフ、1934年の逮捕、長編『都市』)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  12. Fylypovych, Pavlo(1891年生、1937年11月3日サンダルモフ、1935年8月の逮捕)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  13. Yalovy, Mykhailo(1895年生、1937年11月3日サンダルモフ、1933年5月の逮捕とその意味)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  14. Slisarenko, Oleksa(1891年生、1937年11月3日サンダルモフ、1934年の逮捕)
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  15. Указ Президента України № 431/2007 «Про заходи у зв'язку з 70-ми роковинами Великого терору…»(2007年5月21日。5月第3日曜日の追悼の日、8月のサンダルモフとソロフキへの代表団)
    発行:Президент України(zakon.rada.gov.ua) 確認日:2026-09-24
  16. Russia: UN experts raise fair trial concerns over case of Gulag historian Yuri Alexeevich Dmitriev(2021年2月1日。2016年からの手続き、政治的動機の懸念、歴史の書き換えについての引用)
    発行:Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights 確認日:2026-09-24

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