役人は1年でウクライナ語を。1923年に始まった「ウクライナ化」
1923年8月1日、ソ連ウクライナ政府は、職員に1年でウクライナ語とロシア語を身につけるよう命じ、できなければ解雇すると定めました。ソ連全体の「現地化」の一部として始まったウクライナ化の決定の中身、首都ハルキウでの進み方、学校や新聞の数字、1930年代初めに方針が覆るまでをたどります。
オリュカのひとこと
役所の言葉を変える決定には、期限が付いていたようです。中身を最初の見出しで確かめられます。
1923年8月1日、ソ連ウクライナの首都ハルキウで、役所の言葉を変える決定が署名されました。すでに役所で働いている職員は、1年のうちにウクライナ語とロシア語の両方を身につけること。身につけられなかった人は、無条件に解雇する。新しく採用する人も、原則として二つの言語ができなければならない、という内容です。
1920年代から1930年代初めにかけて、ソ連ウクライナの共産党と政府が進めた一連の政策を「ウクライナ化」(українізація)と呼びます。ここで扱うのは約100年前のソ連の政策で、独立後のウクライナの言語政策とは別のものです。いまの国家語法は2019年の国家語法の記事にあります。
ソ連全体の「現地化」の、ウクライナ版
Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS。以下IEU)の「Ukrainization」の項目(紙版1993年)は、ウクライナ化を、ソ連全体でとられた「現地化」(коренізація、コレニザーツィヤ)のウクライナ版と説明しています。ソ連の中でウクライナ人はロシア人以外で最も大きな民族だったため、現地化はほかの共和国より深く進んだ、とも書いています。
『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ)の「コレニザーツィヤ」の項目(ユーリー・シャポヴァル執筆、2014年)によれば、この方針はロシア共産党(ボリシェヴィキ)の第10回大会(1921年)と第12回大会(1923年)で認められ、「コレニザーツィヤ」という言葉は第12回大会のあとに定着しました。現地の民族から党と国の幹部を育てること、母語での教育、民族の文化の出版などを柱とする政策です。IEUは、農村での抵抗が続き、ソ連の民族政策がうまくいっていないと党が認めたことを背景に挙げ、現地化の狙いを、非ロシアの共和国に置かれたソ連の体制に「民族的な正統性の外見を与えること」だったと書いています。
オリュカ
ウクライナ化を決めた決定は、一つだけだったのでしょうか。
タブリ
決定は複数あって、この見出しの下の表に日付ごとに並んでいるよ。
スウネ
職員への義務の期限は、この見出しの下の段落で決定によって違うようだよ。
1923年の二つの決定
ウクライナ化を具体的に定めたのは、1923年夏にソ連ウクライナ政府が出した二つの決定です。どちらも政府の法令集『労農政府の法令と命令の集成』(Збірник узаконень)の1923年第29号に載っています。
| 日付 | 決めた機関 | 決定の名前 | 主な中身 |
|---|---|---|---|
| 1923年7月27日 | 人民委員会議(政府) | 「学校・教育と文化・啓蒙の機関のウクライナ化の措置について」(法令集第29号430条) | すべての種類の学校にウクライナ語を入れ、ウクライナ化の期限を決めた(ЕСУ)。IEUは、少数民族の学校を除く学校を2年のうちにすべてウクライナ化するよう命じた、と書く |
| 1923年8月1日 | 全ウクライナ中央執行委員会と人民委員会議 | 「言語の同権を保障し、ウクライナ語の発展を助ける措置について」(法令集第29号435条) | すべての民族の言語を同権とし、公の連絡で優先する言語をウクライナ語とする。役所の文書をウクライナ語に切り替え、職員に言語の習得を義務づける |
| 1925年4月30日 | 同上 | 「ソヴィエトの機関の完全なウクライナ化を急ぐ措置について」(法令集1925年第26号202条) | まだ切り替えていない国の機関と国営企業は、遅くとも1926年1月1日までに文書をウクライナ語にする |
| 1927年7月6日 | 同上 | 「言語の同権の保障と、ウクライナ文化の発展を助けることについて」(法令集1927年第34号157条) | 1923年・1925年の決定などを取り消し、一つの決定にまとめ直した |
8月1日の決定の本文は、全26項からなります。第1項で「ウクライナにあるすべての民族の言語は同権」とし、第2項で、どの民族の市民も国の機関とのやりとりに母語を使えるとしました。第3項で、ウクライナ語を話す人が多いことから、公の連絡で優先する言語をウクライナ語と定め、第4項で、ウクライナ語とロシア語の二つを「最も広く使われている言語」としています。少数民族が過半数を占める地区や町では、その民族の言語が役所の言語になりました(第6項)。
職員に向けた条文は厳しいものでした。新しく国の機関に採用されるのは二つの言語ができる人に限られ、ウクライナ語ができない人を例外として採るときは、6か月以内に学ぶ義務を負わせました(第20項)。すでに働いている人は1年以内に二つの言語を身につけ(第21項)、ウクライナ語を身につけられなければ無条件に解雇されます(第22項)。教育人民委員部(教育省にあたる)は、3か月以内の短期と9か月までの長期の、職員向けのウクライナ語の講座を開くよう命じられました(第25項)。決定の前文は、職員がロシア語を知る義務は今後も残すとも書いています。
ЕСУによれば、1923年の時点で、党と国の機関の責任ある職員約1万2千人のうち、ウクライナ語ができると答えたのは797人でした。1926年の国勢調査では、ソ連ウクライナの人口2,900万人あまりのうちウクライナ人が2,300万人を超え、ウクライナ語を母語と答えた人は2,200万人あまり、ロシア語を母語と答えた人は約450万人でした(ЕСУ)。
オリュカ
町に住むウクライナ人の割合は、どの町でも同じように増えたのでしょうか。
スウネ
増え方は町によって違うと、この見出しの下の数字で分かるよ。
タブリ
教育を仕切った人物の順番も、この見出しの下にまとまっているよ。
首都ハルキウで進んだこと
決定は、どれもハルキウで署名されています。IEUによれば、政府の機関紙『全ウクライナ中央執行委員会通報』(Вісті ВУЦВК)の編集長には、作家のヴァシリ・ブラキトヌィが就きました。1925年に教育人民委員(教育相にあたる)となったオレクサンドル・シュムシキーがウクライナ化とすべての文化政策を受け持ち、1927年からはムィコラ・スクルィプニクが引き継いで、大学などの高等教育を急速にウクライナ化しました。作家の団体と、首都の建物のことは首都だったハルキウの記事にあります。
IEUは、町に住むウクライナ人の割合が、1923年から1933年のあいだにハルキウで38%から50%に、キーウで27%から42%に、ドニプロペトロウシク(いまのドニプロ)で16%から48%に、オデーサで7%から17%に上がったと書いています。ウクライナ化が進んだ時期は、農村から町へ人が移った時期とも重なっています。
オリュカのひとこと
学校や新聞のウクライナ語の割合は、どれくらい変わったのでしょう。この節の表で見比べられます。
学校、新聞、本、党の数字
| 分野 | 数字 | 主体 |
|---|---|---|
| 学校(町と村) | 1925〜26年度、ウクライナ語の学校は町の学校の43.8%、村の学校の81.9% | IEU「Education」(紙版1984年) |
| 学校(生徒) | ウクライナ語の学校で学ぶ生徒の割合は、1927〜33年に78%から88.5%へ | IEU「Education」 |
| 新聞(部数) | ウクライナ語の新聞すべての部数は、1924年の9万部から1927年の50万部へ | ЕСУ「コレニザーツィヤ」 |
| 新聞(紙数) | 1930年、新聞の85%がウクライナ語で印刷された | IEU「Press」(紙版1993年) |
| 工場の新聞 | 1933年までに88%がウクライナ語。1928年の2倍 | IEU「Ukrainization」 |
| 本 | ウクライナ語の本の割合は1930年に80%近くに | IEU「Book publishing」(紙版1984年) |
| 共産党員 | ウクライナ人の割合は1922年の23%から1933年の60%へ | IEU「Ukrainization」 |
民族と言語は、同じではありませんでした。IEUによれば、1927年1月の時点で、ウクライナ共産党の党員と候補のうちウクライナ人は52%でしたが、ウクライナ語を母語と答えたのは31%でした。工業で働く労働組合員(1929年)では、ウクライナ人が48%、家でウクライナ語を話す人が32%、ウクライナ語を読める人が43%、書ける人が38%でした。
反発もありました。IEUとЕСУによれば、1925年にユーリー・ラーリンがウクライナ化は労働者の民族の権利を侵すと論じ、1927年にはスターリンと対立していたグリゴリー・ジノヴィエフが、ウクライナ化はペトリューラ派を助ける政策だと非難しました。一方でシュムシキーは、党の指導部のもとで「民族主義的な偏向」を率いたとして攻撃されました(ЕСУ)。
1930年代初めに方針が覆る
ЕСУによれば、1932年12月14日の全連邦共産党中央委員会とソ連人民委員会議の穀物の調達に関する決定が、ウクライナ化の「正しい」進め方を求めると同時に「ペトリューラ派」などとの戦いを命じ、これがウクライナ化の終わりを意味しました。IEUは、国家が引き起こした1932〜33年の飢饉、党の粛清、ウクライナの文化人への広い弾圧が、ウクライナ化の終わりを画したと書いています(ホロドモールの記事、「処刑されたルネサンス」の記事)。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Про заходи забезпечення рівноправности мов і про допомогу розвиткові української мови1923年8月1日の決定の全文。第1〜26項、署名地ハルキウ、Вісті ВУЦВК 1923年8月28日第190号で公布
発行:Збірник узаконень та розпоряджень робітниче-селянського уряду України 1923, № 29, арт. 435(翻刻:Вікіджерела) 確認日:2026-09-24 - Про заходи термінового переведення повної українізації радянського апарату1925年4月30日。1926年1月1日の期限
発行:Збірник узаконень … 1925, № 26, арт. 202(翻刻:Вікіджерела) 確認日:2026-09-24 - Про забезпечення рівноправности мов та про сприяння розвиткові української культури1927年7月6日。前文で1923年7月27日の決定〔1923年第29号430条〕と8月1日の決定を取り消す
発行:Збірник узаконень … 1927, № 34, арт. 157(翻刻:Вікіджерела) 確認日:2026-09-24 - UkrainizationJames Mace執筆、紙版1993年。現地化との関係、1923年の大会、7月27日と8月1日、シュムシキー・スクルィプニク、都市のウクライナ人の割合、党員の割合、民族と母語の違い、工場の新聞、反発、終わり
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - КоренізаціяЮ. І. Шаповал執筆、2014年。第10回・第12回大会、7月27日と8月1日の決定、797人、1926年の国勢調査、新聞の部数、党員の割合、反発、1932年12月14日の決定
発行:Енциклопедія Сучасної України 確認日:2026-09-24 - Education紙版1984年。1925〜26年度の町と村の学校、1927〜33年の生徒の割合
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Press紙版1993年。1930年の新聞の85%
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Book publishingBohdan Kravtsiv、Andrew Turchyn執筆、紙版1984年。1930年のウクライナ語の本の割合
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
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