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文化・歴史/解説

ソ連ウクライナの首都だったハルキウと、デルジプロム

1919年の末から1934年6月まで、ソ連のウクライナの首都はキーウではなくハルキウでした。首都の役所を集めるために建てられたのが、九つの棟を橋でつないだ「デルジプロム」(国家工業の館)です。首都の時代の始まりと終わり、建物の成り立ち、ユネスコの暫定一覧への記載と2024年の被害をまとめます。

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オリュカのひとこと

ハルキウが首都になったのは、1919年と1920年のどちらからなのでしょう。事典ごとの書き方を最初の表で見比べられます。

ウクライナの首都はキーウですが、ソ連の時代の一時期、ウクライナの政府はハルキウに置かれていました。Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU、カナダ・ウクライナ研究所)は、ハルキウを「1920年から1934年までソ連ウクライナの首都だった」と書いています。その時代に、首都の役所を一か所に集めるために建てられたのが、ハルキウの自由広場に立つ「デルジプロム」(Держпром、国家工業の館)です。

首都になったのはいつからか

ハルキウが首都になった時期は、事典によって書き方が違います。

資料首都だった期間の書き方
Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)1920年から1934年まで。デニーキンの軍を赤軍が退けたあとに首都となり、全ウクライナ中央執行委員会、人民委員会議、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)の中央機関が1920〜1934年にハルキウに置かれた
大ウクライナ百科事典(ВУЕ、国の百科事典)1919年12月から1934年6月まで。1919年12月からは事実上の首都、1929年5月からは公式の首都
出典:IEU「Kharkiv」、ВУЕ「Харків」(いずれも2026年9月24日に閲覧)。

その前にも、ハルキウは短いあいだソヴィエト政権の拠点になっています。IEUとВУЕによれば、1917年12月24〜25日にハルキウで第1回全ウクライナ・ソヴィエト大会が開かれ、ソヴィエト政府(人民書記局)が選ばれました。ハルキウはその後、ドイツ軍、ウクライナ人民共和国の軍、デニーキンの義勇軍と支配者が何度も替わり、ВУЕによれば1919年12月12日に3度目のソヴィエト政権が置かれました。この記事の題の「首都だった時代」は、この1919年末から1934年までを指します。

オリュカのひとこと

首都の時代に、ハルキウの市域はどれくらい広がったのでしょう。1924年と1939年の数字をこの節で確かめられます。

首都の時代のハルキウ

IEUによれば、戦間期のハルキウは首都として、ソ連のほかの多くの都市より集中的に開発されました。市域は1924年の141平方キロメートルから1939年の272平方キロメートルに広がっています。1931年にはハルキウ・トラクター工場が生産を始め、1934年にはタービン工場が操業しました。

1920年代は「ウクライナ化」の政策がとられた時期で、ハルキウは文学と演劇の中心にもなりました。IEUは、作家の団体「プルーフ」「ハールト」「ヴァプリテ」「ノヴァ・ヘネラーツィア」などが1932年まで活動していたと書いています。ВУЕによれば、レシ・クルバスが率いる劇場「ベレズィリ」は1926年にキーウからハルキウへ移りました。作家たちの集合住宅「スローヴォ」(1929年)もこの時代の建物です。そこに住んだ作家たちのその後は「処刑されたルネサンス」の記事にあります。

デルジプロムはどう建てられたか

ВУЕの項目「Держпром у Харкові」(執筆者 В. В. ヴェチェルシキー)によれば、首都ハルキウに大きな行政の建物を建てる決定は1925年3月に出され、同じ年の夏に設計競技が行われました。1等を取って実際に建てられたのは、建築家セラフィモフ、フェリヘル、クラヴェツの3人の案です。工事は技師ロッテルトが指揮しました。建物は1928年11月7日、十月革命の11周年に合わせて開館しましたが、ВУЕは、実際には工事が1929年も続いたと書いています。IEUも建設の年を「1925〜1929年」としています。

建物は九つの棟でできています。棟は三つずつ三つのかたまりに分かれ、自由広場の円い部分の中心へ向かって扇のように並びます。高さは外側から中心に向かって6階から11階へ上がり、中央の2棟は11階建て、高さ63メートルです(ВУЕ)。棟と棟は、3階・5階・6階の高さに架けた屋根つきの橋でつながり、下を街の道路が通り抜けています。ВУЕは、平らな屋根、帯のように続く窓、装飾のない壁といった、構成主義(コンストラクティヴィズム)と呼ばれる建築の手法がここに最もはっきり表れていると説明しています。

建物に入ったのは、共和国の人民委員会議、国家計画委員会、国民経済最高会議、各人民委員部(省にあたる)でした(ВУЕ)。首都がキーウへ移った1934年からは、ハルキウ州の執行委員会が入っています。

この建物では、ウクライナ化を進めた政治家ムィコラ・スクルィプニクが1933年7月7日、自分の執務室で亡くなっています。IEUは、ウクライナ化の終わりと自らの粛清を予期しての自殺と書き、ВУЕは、公式には自殺とされたが実際には秘密警察に殺されたと書いています。事典どうしで記述が分かれているため、この記事ではどちらとも断定しません。

ВУЕはさらに、1930年代の初めに当局が構成主義の様式そのものを禁じ、「ウクライナの民族主義的な破壊工作」と呼んだと書いています。

首都がキーウへ移った1934年

ウクライナ国立ヴェルナツキー図書館の解説によれば、1934年1月18日、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会の総会で、第2書記ポスティシェフが、ソ連共産党中央委員会と「スターリン同志個人」が首都をハルキウからキーウへ移すよう提案していると伝えました。決定は同じ1月の第12回党大会で承認され、1934年6月24日に人民委員会議が正式に決めました。この日に政府と党の機関の移転が始まり、キーウでは式典と軍のパレードが行われています。キーウが公式に首都の権限を持ったのは1934年8月1日で、首都であることは1937年1月の憲法に書き込まれました。

IEUは、ウクライナの機関と民族意識の強い知識人への弾圧、1932〜33年の飢饉(ホロドモール)、強まったロシア化、そして首都の移転を経て、ハルキウは「ウクライナ的な性格の多くを失った」と書いています。ホロドモールについては別の記事にまとめています。

世界遺産の暫定一覧と、高度の保護

デルジプロムは世界遺産ではありません。ユネスコ世界遺産センターの暫定一覧(各国が将来推薦を考えている候補の一覧)に、ウクライナ文化省の申請で2017年4月27日に記載されています。挙げている基準は(iv)(建築の類型の顕著な見本)の一つです。申請書は、デルジプロムを「モダニズムの形でつくられた、国家級の世界最初の事務所建築」「構成主義の様式で建てられた世界最大の建物」と位置づけています。これはウクライナ側の申請の記述で、ВУЕも「構成主義の様式で世界最大の建物」と書いていますが、ユネスコが評価として認めたものではありません。ウクライナにある世界遺産の一覧はウクライナの街と世界遺産の記事にあります。

これとは別に、武力紛争の際の文化財の保護に関するハーグ条約の第2議定書の委員会は、2023年9月7日、デルジプロムを含むウクライナの20件を「高度の保護」の下にある文化財の一覧に加えました(ユネスコ、ウクライナ文化省。ユネスコの文書は暫定的な記載としている)。高度の保護は、戦闘の当事者に対して、その文化財を攻撃の対象にしないこと、軍事目的に使わないことを求めるものです。

2024年の被害

ロシアによる全面侵攻のあと、デルジプロムはハルキウへの攻撃でたびたび被害を受けています。ВУЕによれば、2024年10月28日の夜、ロシア軍の誘導爆弾による攻撃で建物が新たに壊されました。ウクライナ文化省によれば、2024年11月8日の攻撃では7番目の入り口の3階の高さで強い爆発が起き、2階と3階が崩れ、外壁と屋根も大きく壊れました。これを受けて、ユネスコの委員会は2024年12月11日、デルジプロムに「特別な監視」(アドホック・モニタリング)の仕組みを使うことを決め、文化省は、この仕組みが使われるのはウクライナが初めてだとしています。

ユネスコが確認したウクライナの文化財の被害の一覧には、ハルキウの「スローヴォ」の建物も載っています。

出典と記事の記録出典 11件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Kharkiv首都だった期間1920〜1934年、1917年の第1回全ウクライナ・ソヴィエト大会、市域の拡大、作家団体、1934年の首都移転後の評価
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  2. Skrypnyk, Mykola1933年の死
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  3. Constructivism国家工業の館の建設年1925〜1929年
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  4. Держпром у Харкові1925年3月の決定、設計競技、建築家、1928年11月7日の開館、九つの棟、入居した機関、構成主義の禁止、2024年10月28日の攻撃。執筆 В. В. Вечерський、2022年4月5日公開
    発行:Велика українська енциклопедія(大ウクライナ百科事典) 確認日:2026-09-24
  5. Харків1919年12月〜1934年6月の首都、1929年5月から公式、ベレズィリ劇場の移転、「スローヴォ」
    発行:Велика українська енциклопедія(大ウクライナ百科事典) 確認日:2026-09-24
  6. Перенесення столиці УРСР з Харкова до Києва1934年1月18日の総会、第12回党大会、6月24日、8月1日、1937年の憲法
    発行:ウクライナ国立ヴェルナツキー図書館 確認日:2026-09-24
  7. Derzhprom (the State Industry Building)暫定一覧、2017年4月27日、基準(iv)、申請書の記述
    発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-24
  8. Cultural property under enhanced protection – UkraineDerzhprom 2023
    発行:UNESCO 確認日:2026-09-24
  9. Ukraine becomes the first country to apply UNESCO's “special monitoring” mechanism2024年11月8日の攻撃、2024年12月11日の決定、2023年9月7日の高度の保護
    発行:ウクライナ文化省 確認日:2026-09-24
  10. List of Cultural Property under Enhanced Protection高度の保護の効果
    発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-24
  11. Damaged cultural sites in Ukraine verified by UNESCOHistorical “Slovo” building
    発行:UNESCO 確認日:2026-09-24

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