ノーベル賞に推薦された年に亡くなった作家、イヴァン・フランコ
ノーベル賞の推薦の記録には、1916年の文学賞の候補としてイヴァン・フランコ(1856〜1916年)の名が残っています。その年の5月、フランコはリヴィウで亡くなりました。鍛冶屋の息子として生まれ、3度逮捕され、小説・詩・戯曲・翻訳・学術に約6,000の著作を残した人の生涯と、名前が付けられた大学と町をたどります。
オリュカのひとこと
約6,000という著作の数には、どんな分野が含まれているのでしょう。小説から学術まで、節ごとにたどってみましょう。
ノーベル財団が公開している推薦の記録には、1916年の文学賞の候補として「Ivan Franko」の名があります。推薦者は二人で、ウィーンの教授ヨシプ・ザスティレツと、スウェーデン・アカデミーのハラルド・イェルネです。
ウクライナ歴史百科事典(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所)によれば、推薦の手続きは1915年にザスティレツ神父が始めました。しかしフランコは、1916年5月28日にリヴィウで亡くなります。同事典は「選考に加わるまで生きられなかった」と書いています。
イヴァン・フランコ(Іван Франко)は、20フリヴニャ紙幣の肖像の人物です。Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU、カナダ・ウクライナ研究所発行)は、彼をシェウチェンコと並ぶウクライナ最大の創造的な才能の一人としています。
鍛冶屋の息子、ハプスブルク帝国のガリツィアに生まれる
フランコは1856年8月27日、ガリツィアのドロホブィチ郡ナフイェヴィチ村で、村の鍛冶屋の息子として生まれました。ナフイェヴィチはいまのリヴィウ州にあります。当時のガリツィアはオーストリア帝国(のちのオーストリア=ハンガリー)の領土で、ドニプロ川流域のウクライナを支配していたロシア帝国とは、別の帝国の下にありました。
1875年にドロホブィチのギムナジウムを卒業し、リヴィウ大学で古典文献学とウクライナの言語・文学を学び始めます。最初の詩(1874年)と最初の小説(1875年)は、学生の雑誌『ドルーフ(友)』に載りました。
3度の逮捕
学生時代のフランコは社会主義者でした。IEUとウクライナ歴史百科事典によれば、オーストリアの当局に3度逮捕されています。
- 1877年:社会主義の宣伝をしたとして、仲間とともに逮捕。8か月を獄中で過ごす(IEU)
- 1880年:農民を扇動したとして再び逮捕。3か月の刑のあとも警察の監視下に置かれ、大学での勉強を続けられなくなる(IEU)
- 1889年:ドニプロ川流域のウクライナ(ロシア帝国側)から来た学生たちとの接触をきっかけに、8月16日から10月20日まで拘束(ウクライナ歴史百科事典)
1890年には、ミハイロ・ドラホマノフの支えを得て「ルーシ=ウクライナ急進党」を共同で立ち上げ、綱領を書きました。オーストリア議会とガリツィア議会の選挙に3度立候補しましたが、IEUによれば、行政の操作などで落選しています。
小説・詩・戯曲・翻訳、約6,000の著作
ウクライナ歴史百科事典によれば、フランコの文学・評論・学術の著作は約6,000にのぼり、ウクライナ語、ポーランド語、ドイツ語、ロシア語で書きました。筆名は100を超えます。1887〜97年にはポーランド語やドイツ語の新聞で働いて生計を立て、本人はこれを「隣人のための雇われ仕事」と呼びました(IEU)。
主な作品を、IEUの記載をもとに挙げます。
- 小説『ボア・コンストリクター』(1878年)、『ボルィスラウは笑う』(1881年):ガリツィアの町ボルィスラウを舞台にした連作から。IEUは、労働者の闘いの始まりを初めて描いた作品とする
- 歴史小説『ザハール・ベルクト』(1883年):1241年、モンゴルの侵攻に立ち向かったウクライナの山の民を描く
- 詩「石を砕く人々」(1878年)、「永遠の革命家」(1880年):愛国の歌として一世代の考え方に影響を与えた
- 詩集『高みと低みから』(1887年):ロシア支配下のウクライナでは発禁になった
- 長詩『モーセ』(1905年):聖書に題を取り、指導者と民の対立を描く。IEUは彼の最も偉大な詩とする
- 戯曲『盗まれた幸せ』(IEUは1894年、ウクライナ歴史百科事典は1893年とする)
- 子ども向けの『狐のムィキタ』(1890年)
翻訳は14の言語から行い、ホメロス、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテ、ハイネ、イプセンなどを訳しています。IEUは、フランコをウクライナ文学と世界文学の間の「黄金の橋」と呼んでいます。作曲家ミコラ・ルィセンコは「永遠の革命家」に合唱曲をつけ、若い詩人レーシャ・ウクラインカの最初の詩集(1893年)はフランコの尽力で刊行されました(ЕСУ、ウクライナ歴史百科事典)。
学者として
1893年7月1日、フランコはウィーン大学で、中世の宗教物語『バルラームとヨアサフ』についての博士論文を審査に通しました。指導したのはスラヴ学者ヴァトロスラフ・ヤギッチです。翌1894年、リヴィウ大学でウクライナ文学史を教える資格を得ましたが、ガリツィア総督カジミェシュ・バデーニの反対で、講座の職には就けませんでした(IEU、ウクライナ歴史百科事典)。
その後は、シェウチェンコ学術協会を拠点に研究を続けました。1906年にはハルキウ大学から名誉博士号を受けています。1907年には、ロシアの学者シャフマトフとコルシュがサンクトペテルブルク科学アカデミーの会員に推しましたが、ウクライナ歴史百科事典によれば、帝政ロシアの政府が選出を禁じました。
オリュカのひとこと
同じ作家でも、時代によって描かれ方が変わるのでしょうか。ソ連の時代の扱いをこの節で確かめましょう。
ソ連が作り替えたフランコ像
IEUによれば、ソビエト・ウクライナではフランコへの崇拝が政治に使われました。当局は、フランコをウクライナとロシアの統一の闘士、熱心な社会主義者、戦闘的な無神論者として描くために、いくつかの作品を封じました。愛国の詩「今はその時ではない」などです。社会主義を批判した評論は、改ざんされたり削られたりしました。
実際のフランコは、学生時代にマルクスを学んだあと、のちに社会主義を強く批判しています。1898年の詩集『わがエメラルド』の序文では、マルクス主義を「憎しみと階級闘争の教義の上に立つ宗教」と呼びました(IEU)。IEUによれば、作品の読み直しは1980年代半ばに始まり、独立後のウクライナで本格的に進んでいます。
名前が付けられた大学と町
| 名前 | 内容 |
|---|---|
| リヴィウ国立大学 | 1939年にソ連がガリツィアを併合したあと、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会の1940年1月8日の令で、イヴァン・フランコの名が付けられた(リヴィウ大学、ЕСУ)。1999年に国立大学の地位 |
| イヴァーノ=フランキーウシク市 | 1962年、スタニスラフ(1939年まではスタニスラヴィウ)から、フランコにちなむ名に改められた(ЕСУ、IEU) |
| 20フリヴニャ紙幣 | 1996年9月2日に流通が始まった版から肖像はフランコ。2018年図案の裏面はリヴィウのオペラ劇場(ウクライナ国立銀行) |
日本語では、戯曲『盗まれた幸せ』が村田真一編訳『ウクライナ戯曲集』(国書刊行会、2025年)で読めます。ほかの邦訳はウクライナ文学の邦訳の記事を参照してください。
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1856年 | 8月27日、ガリツィアのナフイェヴィチ村に生まれる |
| 1875年 | ドロホブィチのギムナジウムを卒業、リヴィウ大学へ |
| 1877年 | 最初の逮捕(8か月) |
| 1880年 | 2度目の逮捕 |
| 1883年 | 『ザハール・ベルクト』 |
| 1889年 | 3度目の逮捕(8月16日〜10月20日) |
| 1890年 | ルーシ=ウクライナ急進党を共同で結成 |
| 1893年 | 7月1日、ウィーン大学で博士論文 |
| 1905年 | 長詩『モーセ』 |
| 1906年 | ハルキウ大学の名誉博士 |
| 1915年 | ノーベル文学賞への推薦の手続きが始まる |
| 1916年 | ノーベル文学賞の候補として推薦される。5月28日、リヴィウで死去 |
| 1940年 | リヴィウ大学に名が付けられる |
| 1962年 | スタニスラフがイヴァーノ=フランキーウシクに改称 |
出典・参考資料
- Nomination archive: Ivan Franko(1916年文学賞、推薦者 Josef Zastyretz〈ウィーン、教授〉と Harald G Hjärne〈スウェーデン・アカデミー〉、推薦1件)
発行:The Nobel Foundation(NobelPrize.org) 確認日:2026-09-24 - Franko, Ivan(生没年月日、ナフイェヴィチ村、鍛冶屋の息子、1875年卒業とリヴィウ大学、1874・75年の最初の作品、1877・1880・1889年の逮捕、急進党、選挙、隣人のための雇われ仕事、1893年7月1日の博士論文とヤギッチ、バデーニの反対、1906年名誉博士、作品と年、14言語からの翻訳、「黄金の橋」、『わがエメラルド』序文、ソ連による作品の封印と改ざん。2007年改訂)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Франко Іван Якович(生没年月日、筆名100超、1907年の科学アカデミー選出の禁止、1915年のザスティレツによる推薦手続きと「選考に加わるまで生きられなかった」、1889年8月16日〜10月20日の拘束、約6,000の著作と4言語、『盗まれた幸せ』1893年、『モーセ』。2013年刊行の第10巻)
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-24 - Українка Леся(最初の詩集『歌の翼に乗って』1893年の刊行にフランコが尽力)
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-24 - Лисенко Микола Віталійович(フランコの詩による合唱曲「永遠の革命家」)
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24 - Львівський університет у вирі століть(1940年1月8日のウクライナ・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会の令による命名)
発行:Львівський національний університет імені Івана Франка 確認日:2026-09-24 - Львівський національний університет ім. І. Франка(ソ連への併合後、1940年の命名、1999年の国立の地位、1894〜95年のフランコの就職の試みと反対)
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24 - Івано-Франківськ(1962年、フランコにちなむ改称)
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24 - Ivano-Frankivsk(1939年までスタニスラヴィウ、1962年までスタニスラフ)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Банкнота номіналом 20 гривень(肖像、裏面のリヴィウのオペラ劇場、1996年9月2日から各版の流通開始日)
発行:Національний банк України 確認日:2026-09-24 - 盗まれた幸せ : 五幕のドラマ(イヴァン・フランコ著、村田真一訳)
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-24 - ウクライナ戯曲集(村田真一編訳、国書刊行会、2025年3月)
発行:国立国会図書館サーチ 確認日:2026-09-24
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