カルパティアの山のウクライナ人、フツル・ボイコ・レムコ
フツル、ボイコ、レムコは、カルパティア山地に暮らしてきたウクライナ人の民族誌的な集団です。東から西へ並んで住み、畑の少ないフツル地方は放牧で暮らしてきました。最も西のレムコ地方は大部分がいまのポーランドとスロバキアにあり、1944〜1947年の移住で多くの人がウクライナの平野部やポーランドの各地へ移されました。
オリュカのひとこと
フツル、ボイコ、レムコの三つは、どこがどう違うのでしょう。並び方を最初の見出しで見てみましょう。
ウクライナ西部のカルパティア山地の木造教会は、建てた人々の集団ごとに「ボイコ型」「フツル型」「レムコ型」と分けて説明されます(カルパティアの木造教会の記事)。フツル、ボイコ、レムコは、いずれもカルパティアの山に暮らしてきたウクライナ人の集団の名前です。三つはどこが違い、どこに住んできたのか。そして、なぜレムコの人々の多くはいまウクライナの平野部に住んでいるのか。アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の『Internet Encyclopedia of Ukraine』(以下IEU)と、ウクライナ国立科学アカデミーの『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ)の記述をもとにたどります。
「民族」ではなく、ウクライナ人の中の集団
IEUは、フツルを「カルパティア山地のフツル地方に住む、牧畜を営むウクライナ人の高地の人々の民族誌的な集団」、ボイコを「カルパティア山地の中部の両斜面に住む、ウクライナ人の高地の人々の部族、または民族誌的な集団」と説明しています。ЕСУも、ボイコを「ウクライナ人の独自の民族誌的な集団」、レムコを「ウクライナ民族の民族誌的な集団で、レムコ地方の元からの住民」と書いています。どちらの事典も、三つを別の民族としてではなく、ことば(方言)、衣服、家や教会の建て方、行事などに特徴を持つウクライナ人の中の集団として扱っています。
ウクライナで一度だけ行われた2001年の全ウクライナ国勢調査も、この扱いに沿った集計を公表しています。表の名前は「ウクライナ民族の個別の民族誌的集団の人数」で、自分の民族としてその集団の名前を答えた人を数えたものです。
| 集団 | 人数(2001年) | そのうち集団のことばを母語と答えた人 | ウクライナ語を母語と答えた人 |
|---|---|---|---|
| フツル(гуцули) | 2万1,400人 | 8人 | 2万1,382人 |
| レムコ(лемки) | 672人 | — | 641人 |
| ボイコ(бойки) | 131人 | 14人 | 113人 |
| ルシン(русини) | 1万183人 | 6,725人 | 3,156人 |
この数字は、それぞれの集団に属する人の数ではありません。フツルやボイコの人々の多くは、民族を問われて「ウクライナ人」と答えているはずで、表に出ているのは集団の名前をあえて答えた人だけです。たとえばЕСУの「フツル」の項は、フツル地方には2000年に42万人を超える人が住んでいたと書いています(これも地方の住民の数で、フツルの人数ではありません)。三つの集団のいまの人数を示す公式の統計はありません。
表の最後のルシンは、ザカルパッチャ州などで使われてきた自称です。ЕСУによれば、レムコの人々の間には、自分たちをウクライナ民族の一部とする考え方と、ザカルパッチャの住民を含む別の「ルシン(カルパト・ルシン)民族」とする考え方の二つの流れがあります。国勢調査は、ルシンもウクライナ民族の中の集団の表に入れて数えています。
オリュカのひとこと
三つの呼び名は、もともと誰が付けたものなのでしょう。由来をこの節で確かめましょう。
名前の由来
三つの名前は、いずれも本人たちが古くから使ってきた呼び名というより、周りから付けられた呼び名に由来するとされます。
- ボイコ:IEUは、住民がよく使う小辞「ボイェ(боє)」から来たと考えられている、と書いています。ЕСУは、この説のほかに、古代のケルト人のボイイ族に結びつける説や、人名ボイコに由来するという説を挙げています。IEUによれば、ボイコの人々はこの名前を見下した呼び方と感じて嫌うことがあり、自分たちを「高地の人(ヴェルホヴィンツィ)」と呼ぶこともあります
- レムコ:IEUとЕСУはどちらも、「〜だけ」の意味で「レム(лем)」という語を使うことに由来するとしています。ЕСУは、この名前が文献で初めて使われたのは1841年のイヴァン・ヴァヒレヴィチの著作だと書いています。IEUによれば、レムコの人々自身は「ルスナク」「ルシン」と名のることが多く、学者や知識人が19世紀半ばから西の高地の人々をレムコと呼ぶようになりました
- フツル:由来ははっきりしていません。IEUは、ルーマニア語で盗賊を意味する語から来たという説が19世紀以来もっとも広く受け入れられているとしつつ、遊牧民を指す語に由来する説、テュルク系の部族名に由来する説なども並べています。名前が文献に初めて現れた年についても、IEUは1816年とする研究者の見方を紹介し、ЕСУは1494年のモルドヴァの文書に人名として出てくると書いていて、事典の間で一致していません
どこに住んできたか
三つの集団は、カルパティア山地を東から西へ、おおむねフツル、ボイコ、レムコの順に並んで住んできました。IEUとЕСУの記述を表にまとめます。
| 集団 | 住んできた地域(事典の記述) | いまの州・国 |
|---|---|---|
| フツル | カルパティア山地の南東の端。ガリツィア(ハリチナ)、ブコヴィナ、ザカルパッチャの山地にまたがるフツル地方 | イヴァーノ=フランキーウシク州、チェルニウツィー州、ザカルパッチャ州。ルーマニアにある8つの集落を除いて、ウクライナの国境の中にある(IEU) |
| ボイコ | カルパティア山地の中部の両斜面。西はシャン川の支流ソリンカ川でレムコと接し、東はリムニツャ川の谷まで | リヴィウ州、イヴァーノ=フランキーウシク州、ザカルパッチャ州。IEU(1984年の初出)は面積を約8,000km²、人口を40万人としている |
| レムコ | カルパティア山地の最も西。長さ140km、幅25〜50kmの細長い土地で、ポーランドとスロバキアの領域に食い込んでいる | 大部分はポーランドとスロバキア。IEUは、ウクライナ国内に入るのは「小さな一部」だと書いている |
つまりレムコの人々の元の土地は、そのほとんどがいまのウクライナの外にあります。IEUによれば、1946年までのガリツィア側のレムコ地方は約3,500km²で人口20万人、そのうちウクライナ人は16万人(1939年)で、約300の村に住んでいました。スロバキア側のプレショウ地方のレムコ地方は約3,000km²、人口11万人です。世界遺産のカルパティアの木造教会群でも、レムコ型の5棟はすべてポーランド側にあります。
暮らしの形も違いました。IEUの「フツル地方」の項によれば、フツル地方では畑が土地の面積のわずか4%で、山の草地と採草地が33%、森が59%でした。畑の割合はボイコ地方で25%、レムコ地方で35%です。フツルの人々は放牧と牧畜を中心に暮らし、肉や乳製品、羊毛を平地の穀物と交換してきました(夏の山の放牧はフツルの山の放牧とブルィンザで扱っています)。ボイコの人々もIEUによれば古くは牧畜で暮らし、のちにはカラス麦やじゃがいもの畑作と酪農が中心になりました。
1944〜1947年、レムコの人々が故郷を離れた経緯
レムコの人々がいまウクライナの平野部に多く住んでいるのは、第二次世界大戦の末期から戦後にかけての住民の移動によるものです。IEUによれば、1940年に独ソ間の住民交換の条約で約4,000人のレムコがソ連ウクライナへ移り、戦後はポーランドとソ連の取り決めのもとで移住が再開されました。1945年8月16日のポーランド・ソ連の協定は国境を定め、レムコ地方の北側はすべてポーランドに入ります。IEUは、ポーランド側の圧力のもとで1946年半ばまでにレムコの大部分(最大8割)がウクライナへ移され、残った人々も、ごくわずかな例外を除いて、1947年にポーランド西部・北部の旧ドイツ領に分散して移されたと書いています。この1947年の移住は「ヴィスワ作戦」と呼ばれています。
人数については、事典の書き方が分かれます。ЕСУは、1944〜46年にガリツィア側のレムコ地方から20万人を超える人がウクライナへ移され、移住を拒んだ10万人を超える人が1947年の春にポーランドの北西部に小さな集団に分けて移されたと書いています。IEUは、ポーランドに残ったレムコの人々のうち、1957〜58年までに故郷へ戻ることを許されたのは3万〜4万人のうち約4,000人だったとしています。
ウクライナへ移った人々は、IEUによればテルノーピリ、サンビル、リヴィウの周辺のもとポーランド人の村や、ドンバスに住みました。ЕСУは、いまもイヴァーノ=フランキーウシク州、リヴィウ州、テルノーピリ州、ポルタヴァ州、ドネツィク州、ルハンシク州に分散して住んでいると書いています。
ウクライナの最高会議は2018年11月8日の決議(第2608-VIII号)で、レムコ地方、ナドシャンニャ、ホルムシチナ、南ピドリャシシャ、リュバチウシチナ、西ボイコ地方の六つの地方からの1944〜1951年のウクライナ人の強制移住を「追放」と呼び、毎年9月の第2日曜日を犠牲者を記憶する日と定めました。移住させられた人々にはレムコだけでなく、ポーランド側に入ったボイコ地方の西部の人々も含まれています。さらに2025年7月16日の法律(第4540-IX号、2026年1月30日施行)は、民族を理由に追放された人の権利の回復に関する法律を改め、1944〜1951年にウクライナ系であることを理由にポーランドの領域から強制的に移された人々を「追放された人」と認め、一時金を受け取る権利を定めました。額と手続きは内閣が定めるとしています。
移ったあとに受け継がれてきたもの
ЕСУは、故郷から離れた土地に分散して住んだことで、レムコの人々の衣服や方言の多くが日常から消えつつあり、集団としての特徴が失われるおそれが大きいと書いています。同時に、受け継ぐための活動も続いてきました。ЕСУによれば、1959年にテルノーピリ州の村で最初のレムコの合唱団が生まれ、1988年にはリヴィウで社会文化団体「レムキウシチナ」が設立され、独立後には全ウクライナのレムコ大会が6回開かれています。レムコの教会の建て方をまねた教会も、リヴィウやイヴァーノ=フランキーウシクに建てられました。
三つの集団は、ウクライナの文学や芸術にもたびたび登場します。フツルの村を舞台にした小説はコツュビンシキー『忘れられた祖先の影』の記事、フツル地方の町の陶器はコシウの彩色陶器の記事で紹介しています。IEUとЕСУは、作家イヴァン・フランコがボイコ地方の出身であることを挙げています(フランコの記事)。レムコの伝承には、ウクライナのほかの地域にはほとんどない、小人の姿をした家の精が出てくるとIEUは書いています(民間伝承の精霊の記事)。
地域の名前としての「ガリツィア」「ブコヴィナ」「ザカルパッチャ」がいまのどの州に重なるかは州の名前とは別の地域名の記事にまとめています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Hutsuls民族誌的な集団としての説明、名前の由来の諸説、1816年の初出とする見方
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)。初出1989年 確認日:2026-09-24 - Hutsul region範囲、ルーマニアの8集落、畑4%・草地33%・森59%、ボイコ地方25%・レムコ地方35%
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)。初出1989年 確認日:2026-09-24 - Boikos名前の由来、自称、住む範囲、約8,000km²・40万人、生業、フランコ
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)。初出1984年 確認日:2026-09-24 - Lemkos名前の由来、自称、1940年の約4,000人、1946年半ばまでに最大8割、1947年の移住、1957〜58年の帰還、移住先
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS)。初出1993年 確認日:2026-09-24 - Lemko region140km×25〜50km、ウクライナ国内は小さな一部、1939年の面積と人口
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Лемки民族誌的な集団、1841年の初出、1944〜46年の20万人超と1947年の10万人超、現在の居住州、二つの流れ、団体と大会
発行:Енциклопедія Сучасної України(І. Д. Любчик、2016年) 確認日:2026-09-24 - Бойки民族誌的な集団、名前の由来の諸説
発行:Енциклопедія Сучасної України(Н. В. Карповець、2004年) 確認日:2026-09-24 - Гуцули1494年の文書の人名、フツル地方の住民42万人超〔2000年〕、居住地域
発行:Енциклопедія Сучасної України(М. В. Савчук、2006年) 確認日:2026-09-24 - 全ウクライナ国勢調査2001年 ウクライナ民族の個別の民族誌的集団の人数とその母語フツル21,400人、レムコ672人、ボイコ131人、ルシン10,183人
発行:ウクライナ国家統計委員会 確認日:2026-09-24 - 決議第2608-VIII号「レムコ地方、ナドシャンニャ、ホルムシチナ、南ピドリャシシャ、リュバチウシチナ、西ボイコ地方からのウクライナ人の追放の開始75年を国家レベルで記念することについて」2018年11月8日
発行:ウクライナ最高会議 確認日:2026-09-24 - 法律第4540-IX号2025年7月16日採択、2026年1月30日施行。1944〜1951年にポーランドの領域から強制的に移された人を追放された人と認める改正
発行:ウクライナ最高会議 確認日:2026-09-24
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