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社会を知る/解説

リヴィウのアルメニア大聖堂と、町のアルメニア人

リヴィウのアルメニア大聖堂は1363年に建て始められ、何世紀にもわたって町のアルメニア人の共同体の中心でした。自分たちの法、ローマとの合同の年をめぐる三つの説、1945年の断絶と2003年の聖別までを、事典と国勢調査から見ます。

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オリュカのひとこと

リヴィウにアルメニアの人々が住み始めたのは、いつなのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

リヴィウの旧市街の北側に、ヴィルメンシカ通り(アルメニア通り)という通りがあります。その通りに面した中庭の奥に、石造りの小さな聖堂が立っています。1363年に建て始められたアルメニア大聖堂です。いまはアルメニア使徒教会のウクライナ主教区の主教座聖堂で、ユネスコの世界遺産「リヴィウ歴史地区」の一部でもあります(『大ウクライナ百科事典』、以下ВУЕ)。

ВУЕは、この聖堂を中心とする建物群が、何世紀にもわたってリヴィウのアルメニア人の共同体と信仰の中心だったと書いています。建物の年、共同体が持っていた自分たちの法、ローマとの教会合同、20世紀の断絶と2003年の聖別までを、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(以下ЕІУ)、ВУЕ、国勢調査の記録によって見ていきます(2026年9月時点)。

リヴィウにアルメニア人が住み始めたのはいつか

IEU「Armenians」によれば、いまのウクライナの地にアルメニア人の集落が現れたのは11世紀です。セルジューク朝のアルメニア攻撃のあと移住の波がくり返し起こり、11世紀の後半にはキーウにも共同体ができました。1243年にタタールが東アルメニアを奪うと、多くのアルメニア人がクリミアへ移り、当時ジェノヴァの自治都市だったカッファ(いまのフェオドシヤ)がその中心になりました。その後も、1375年のキリキアのアルメニア国家の滅亡や、1475年のオスマン帝国によるクリミア征服のあとの迫害などをきっかけに、ハリチナ(ガリツィア)、ポジッリャ、ヴォルィーニへ移り住む人が続きました。

ЕІУ「ウクライナのアルメニア人の植民地(16〜18世紀)」は、リヴィウの共同体が13世紀後半にできたとし、その根拠に1277年の墓碑銘を挙げています。IEUによれば、17世紀半ばのリヴィウのアルメニア人はおよそ2,500人で、町の人口の10分の1にあたり、ウクライナの地で最大の共同体でした。多くは商人と職人で、商人はウクライナやポーランドとトルコ、ペルシアの間の取引の仲立ちをしていました。

「植民地」という呼び名

ЕІУは、ウクライナの歴史学で伝統的に使われてきた「アルメニア人の植民地(コロニー)」という言い方を、移り住んだアルメニア人がまとまって暮らし、しばしば自治を、ときには独自の裁判を持っていた町の区画や村を指す語だと説明しています。そのうえで、アルメニアの歴史学では「集落」「炉(すみか)」といった呼び名も提案されていると書いています。この記事では「共同体」と書きます。

1363年の大聖堂

ВУЕによれば、聖母マリア(生神女就寝)に献げられた大聖堂は、1363〜1370年に建築家ドーリング(ドルコ)が、カッファから来た商人ヤキウとガイサラツのパノスの費用で建てました。IEUも1363〜1370年とし、建築家をカッファの「ドルコ(ドーリング)」と書いています。14世紀のアルメニアの教会建築の様式に、ロマネスク、ゴシック、古いハリチナの建築の要素が混じっているとIEUは説明しています。ВУЕは、アルメニアのオズンの修道院の教会と共通する特徴を持つと書きます。

ВУЕによれば、建物は十字形の平面に三つの身廊と三つの後陣、四本の柱を持ち、ドームが一つの聖堂で、十二角形のドームの台座の上に、中が空の陶製のつぼを積んだリブのあるドームが載っています。中央の柱には、アルメニアの文化に特有の彫刻の石の十字架(ハチュカル)が残り、古いものは14〜15世紀のものです。

  1. オリュカ

    大聖堂の年は、建て始めた年なのかな、仕上がった年なのかな。

  2. スウネ

    事典ごとの書き方と、この記事が採った年が、この見出しの下にあるよ。

  3. タブリ

    そのあとの建て増しや改築の順番は、次の見出しの表でたどれるよ。

「1363年」は建て始めか、仕上がりか

ВУЕとIEUは、1363年を建設の始まり、1370年を終わりとしています。これに対してЕІУは、リヴィウの主教座聖堂の「建設は1363年に終わった」と書いています。この記事は、二つの事典が一致する「1363〜1370年」を採りますが、ЕІУの書き方もあることを残しておきます。

大聖堂の移り変わり

いま見える姿は、14世紀の聖堂に、その後の時代の建て増しと改築が重なったものです。

年出来事典拠
1363〜1370年大聖堂が建てられる(ЕІУは「1363年に完成」)ВУЕ、IEU
1364年アルメニア使徒教会の大主教座の聖堂になる(IEUは「1365年から主教座」)ВУЕ
1437年三方に回廊(アーケード)が足される。南側だけが形を変えて残るВУЕ
1570〜1571年門の上の鐘楼が建てられる(ВУЕは1571年、カッファのアンドリーの費用)IEU、ВУЕ
1630年西側に大きな身廊が足されるIEU、ВУЕ
1723〜1726年バロック様式への大きな改築ВУЕ(IEUは1723年)
1908〜1927年修復と拡張。西側について、IEUは1908年に西のファサードが完成したと書き、ВУЕは1908〜1910年の拡張工事が第一次世界大戦で完成しなかったと書く。1925年に15〜16世紀のフレスコの断片が見つかり、画家ヤン・ヘンルィク・ローゼンが新しい壁画を描くВУЕ、IEU
ソ連時代聖堂がリヴィウのウクライナ美術館の収蔵庫になる(IEUは1960年代とする)ВУЕ、IEU
1991年リヴィウ市議会が、聖堂をアルメニア人の共同体に返すことを議決するIEU
2003年アルメニア使徒教会の最高総主教・カトリコスのガレギン2世が聖別する(IEUは5月)IEU、ВУЕ
IEU「Armenian Cathedral in Lviv」(2004年更新)、ВУЕ「リヴィウのアルメニア大聖堂」(2022年公開)、ЕІУの各項目から作成。2026年9月に確認。

自分たちの法と大主教座

リヴィウのアルメニア人は、町の中で自分たちの教会と法を持っていました。ВУЕ「アルメニア・カトリック教会」によれば、1364年からリヴィウにアルメニア使徒教会の主教区が置かれ、1367年にはポーランド王カジミェシュ3世から自治の権利を得ました。14世紀末からは、ポーランド、リトアニア、モルダヴィア、ワラキアのアルメニア人がリヴィウの主教区に属しました。

IEUによれば、大きな共同体は「アルメニア法典」と呼ばれる慣習法によって自治を行い、この法典は1519年にポーランド王ジグムント1世によってわずかな修正のうえ承認され、1780〜1781年まで効力を持ちました。ЕІУは、共同体が中世アルメニアの法学者ムヒタル・ゴシュの法典を使い、それが1519年にリヴィウの法典として公に承認されたと書いています。IEUは、リヴィウのアルメニア人の自治は1469年まで、カームヤネツィ・ポジーリシキーでは1787年まで続いたとしています。一つの町に複数の民族の法があったカームヤネツィ・ポジーリシキーの例は、コサック以前のウクライナの記事にあります。

リヴィウには教育と出版の場もありました。ЕІУによれば、1616〜1618年にアルメニア語とアルメニア・キプチャク語の本を出す印刷所があり、1665年にはアルメニア人のための学院が開かれて1784年まで授業が続きました。アルメニア人の商人のつながりは町の外にも広がっていて、ウィーンのコーヒーの歴史にも名を残しています(クルチツキーとウィーンのコーヒー店の記事)。

オリュカのひとこと

教会の合同の年は、事典によって違うようです。この見出しで見比べられます。

ローマとの合同は何年か

1630年、1640年、1667年

リヴィウのアルメニア人の大主教ミコライ・トロソヴィチが、ローマ教皇のもとに入る教会合同を結んだ年は、事典によって違います。

  • ВУЕ「アルメニア・カトリック教会」(2023年公開):1630年。10月24日にリヴィウ郊外の跣足カルメル会の修道院で儀式とともに宣言され、11月8日にローマが認めた。1635年にトロソヴィチはローマで教皇ウルバヌス8世の前で信仰告白をした
  • ЕІУ「アルメニア・カトリック教会」(2003年):1640年にトロソヴィチが教皇ウルバヌス8世のもとに入った。ЕІУの「アルメニア人の植民地」の項は、合同は1640年に始まり、1670年代にテアティノ会の宣教で最終的に実現したとする
  • IEU「Armenians」(1984年の紙版の再録):リヴィウの主教は1667年までエチミアジンのカトリコスに属し、この年にトロソヴィチが合同に同意した。17世紀後半にハリチナとポジッリャのアルメニア人の共同体が合同を受け入れた

ВУЕは宣言と承認の日付まで書いていますが、三つの事典の食い違いがなぜ生じたのかは、どの事典も説明していません。合同のあと、大聖堂はアルメニア・カトリック教会の主教座聖堂になりました(ВУЕ)。IEUは、17世紀半ば以降、ローマとの合同の影響もあって、アルメニア人がポーランド化していったと書いています。

1939年から1945年

ВУЕによれば、西ウクライナのアルメニア・カトリック教会は1939〜1941年の弾圧で信徒のおよそ半分を失いました。第二次世界大戦のあと、信徒の多くと8人の司祭がポーランドへ移され、1945年に大司教区の最後の使徒座管理者ディオニシー・カイェタノヴィチ神父(1954年に流刑地で死去)らが逮捕され、教会の建物は国有化されて、教会の組織はすべて廃止されました。ЕІУも、1945年にリヴィウで大司教区の指導者と司祭が逮捕されたと書いています。IEUは、リヴィウのアルメニア・カトリックの大司教区は1939年まで続いたと書いています。

いまは、どの教会の大聖堂なのか

IEUによれば、1991年にリヴィウ市議会が大聖堂をアルメニア人の共同体に返すことを議決しましたが、手続きは長くかかりました。ВУЕによれば、2001年6月25日には教皇ヨハネ・パウロ2世がこの聖堂で祈り、2003年にアルメニア使徒教会の最高総主教・カトリコスのガレギン2世が、アルメニア使徒教会の主教座聖堂として聖別しました。

同じ聖堂の二つの時代

この聖堂は、1364年からアルメニア使徒教会の大主教座の聖堂で、17世紀の合同のあとはアルメニア・カトリック教会の主教座聖堂になり、2003年からふたたびアルメニア使徒教会の主教座聖堂になっています(ВУЕ)。アルメニア・カトリック教会も、1991年に最初の信徒の集まりが登録されて活動を再開し、ВУЕによれば、リヴィウの大司教区は2020年の時点で四つの小教区と3人の司祭を持っていました。ЕІУによれば、2003年の初めにはウクライナでアルメニア使徒教会の信徒の集まりが21ありました。

リヴィウの歴史地区は1998年に世界遺産に登録され、ユネスコはその説明で、正教会、アルメニア教会、カトリック教会の宗教建築が、別々の民族の共同体が暮らした跡として残っていると書いています。ウクライナの世界遺産と危機遺産の一覧はウクライナの街と世界遺産の記事にまとめています。

  1. オリュカ

    ウクライナに住むアルメニア系の人の数は、どう調べられているのかな。

  2. スウネ

    調査の回ごとの数と、リヴィウ州の表に出てこない理由が、この見出しの下にあるよ。

  3. ヨリクネ

    国勢調査がその後どうなったかは、この見出しの下の終わりのリンク先へ寄り道できるよ。

数で見るアルメニア系の人々

IEUによれば、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のアルメニア人は1959年に2万8,000人、1970年に3万3,400人でした。2001年の全ウクライナ国勢調査では、国家統計委員会の集計で、アルメニア人と答えた人は9万9,900人、人口の0.2%で、1989年の調査の1.8倍でした。リヴィウ州の表は州の人口の0.1%以上の民族だけを載せていて、州全体の欄にアルメニア人は出てきません。同じページの市・地区別の表では、リヴィウ市(市議会に属するほかの集落を除く)のアルメニア人は0.8千人、市の人口の0.1%で、1989年の調査の80.0%でした。ウクライナの国勢調査は2001年が最後で、その後の予定がどうなったかは国勢調査の歴史の記事で扱っています。

出典と記事の記録出典 10件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Armenians執筆 Bohdan Struminsky。紙版は1984年の第1巻、文献一覧は更新。11世紀の集落、カッファ、17世紀半ばのリヴィウの約2,500人、1365年からの主教座、1469年までの自治、1519年のアルメニア法典と1780〜1781年、1667年の合同、1939年までの大司教区、1959・1970・2001年の人数
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  2. Armenian Cathedral in Lviv執筆 Sofiia Yaniv、2004年更新。1363〜1370年、建築家ドルコ、1570〜1571年の鐘楼、1630年、1723年、1908年、1925年のフレスコ、ローゼン、1960年代の収蔵庫、1991年の市議会の議決、2003年5月のガレギン2世
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27
  3. Вірменський собор у Львові執筆 В. В. Вечерський、2022年4月2日公開。世界遺産の構成、1363〜1370年、ドーリング、ヤキウとパノス、1364年、1437年、1571年、1630年、1723〜1726年、1908〜1927年、ソ連時代の収蔵庫、2001年6月25日、2003年の聖別、建物の特徴
    発行:Велика українська енциклопедія(Державна наукова установа «Енциклопедичне видавництво») 確認日:2026-09-27
  4. Вірменська католицька церква執筆 А. В. Арістова、2023年5月2日公開。1364年の主教区、1367年の自治の権利、1630年10月24日の宣言と11月8日の承認、1635年、1939〜1941年、1945年の逮捕と組織の廃止、1991年、2020年の小教区と司祭の数
    発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-27
  5. ВІРМЕНО-КАТОЛИЦЬКА ЦЕРКВА執筆 Т. О. Комаренко、第1巻、2003年。1640年のトロソヴィチ、1945年の逮捕
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  6. ВІРМЕНСЬКА АПОСТОЛЬСЬКА ЦЕРКВА執筆 Т. О. Комаренко ほか、第1巻、2003年。2003年初めの21の信徒の集まり
    発行:Енциклопедія історії України 確認日:2026-09-27
  7. ВІРМЕНСЬКІ КОЛОНІЇ В УКРАЇНІ 16–18 СТ.執筆 Я. Р. Дашкевич、第1巻、2003年。「植民地」という呼び名、1277年の墓碑銘、ムヒタル・ゴシュの法典と1519年、1640年と1670年代の合同、1616〜1618年の印刷所、1665〜1784年の学院、1363年に完成した主教座聖堂
    発行:Енциклопедія історії України 確認日:2026-09-27
  8. Всеукраїнський перепис населення 2001. Національний склад населення全国とリヴィウ州
    発行:Державний комітет статистики України 確認日:2026-09-27
  9. L'viv – the Ensemble of the Historic Centre1998年登録、正教会・アルメニア教会・カトリック教会の宗教建築
    発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-27
  10. Всеукраїнський перепис населення 2001. Національний склад населення. Львівська область州全体の表と、市・地区別の表のリヴィウ市の行
    発行:Державний комітет статистики України 確認日:2026-09-27

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