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文化・歴史/解説

ウィーン最初のコーヒー店を開いたのは、ユーリー・クルチツキーか

1683年のウィーン包囲で急使を務めたガリツィア出身の商人ユーリー=フランツ・クルチツキーは、ウクライナの事典では「ウィーン最初のコーヒー店を開いた人」です。ところがウィーン市の歴史事典は、それを伝説とし、1685年に最初の特権を得たのはアルメニア人のデオダートだとしています。三つの資料を並べます。

この記事の答え

1683年のウィーン包囲で急使を務めたクルチツキーがウィーン最初のコーヒー店を開いたとウクライナの事典は書きますが、IEUの人物項目は「言い伝えによれば」と断っています。ウィーン市の歴史事典はこれを伝説とし、1685年1月17日にコーヒーを出す最初の特権を得たのはアルメニア人のヨハネス・デオダートだとしています。

出典と記事の記録

イメージ画像

オリュカのひとこと

ウィーンで最初のコーヒー店を開いたのは、誰なのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

1683年の夏、オスマン帝国の大軍に囲まれたウィーンから、トルコ人の身なりで敵の陣を抜け、救援の軍との連絡をつけた男がいました。ガリツィアのサンビルの近くの出身とされる商人、ユーリー=フランツ・クルチツキー(Юрій-Франц Кульчицький)です。

ウクライナの二つの事典は、彼がその褒美にトルコ軍のコーヒーを受け取り、ウィーンで最初のコーヒー店を開いたと書いています。ところが、ウィーン市が運営する歴史事典『ウィーン歴史ウィキ』(Wien Geschichte Wiki)は、それは伝説で、最初にコーヒーを出す特権を得たのは別の人物だとしています。カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(以下ЕІУ)、ウィーン歴史ウィキを並べて見ます(2026年9月時点)。

サンビルの近くから、ウィーンの商人へ

IEUによれば、クルチツキーは1640年ごろ、ガリツィアのサンビル地方のクルチツィ村に生まれました。ЕІУは、ウクライナの小貴族の一族の出で、その一族の本拠がクルチツィ村(ЕІУの刊行時の区分でリヴィウ州サンビル地区)だったと書いています。当時のガリツィアは、ポーランド・リトアニア共和国の一部でした(ガリツィア〈ハリチナ〉という地域の名前は州の名前とは別の地域名の記事で扱っています)。

若いころについて、IEUは「いくつかの資料によれば」、ЕІУは「のちに広まった言い伝えによれば」と断ったうえで、ザポロージャのコサック(コサックのシーチの記事)に加わり、トルコ人にとらわれているあいだにトルコ語を覚えたと紹介しています。その後、ウィーンの東方貿易会社のベオグラードの支店で通訳として働き、ウィーンで商人になりました(ЕІУ。IEUは1660年代にベオグラードとウィーンで通訳をしたとする)。

ウィーン歴史ウィキは、ウィーン側の記録をもっと細かく書いています。1660年ごろからウィーンにいて、1662〜1663年にはコンスタンティノープルへ送られた皇帝の使節の従者、1665年には皇帝の大使の下級の通訳を務め、トルコ語とルーマニア語を話しました。1665年11月26日にウィーンで結婚し、1667年にウィーンの東方貿易会社に入っています。

1683年8月、囲まれた町を抜けて

IEUによれば、1683年7月、オスマン帝国の軍はウィーンまで進み、町を包囲しました。守る兵は約1万人で、町は飢えと病に苦しんでいました。8月13日、クルチツキーはトルコ人に変装して敵の陣を抜け、オーストリアの軍に町の差し迫った様子を伝え、共同の作戦に必要な知らせを渡しました。そして、ポーランド王ヤン3世ソビェスキとウクライナのコサックを含む軍が救援に来るという知らせを持って、町へ戻りました。

戻った日を、ЕІУは8月17日としています。ウィーン歴史ウィキも、ロートリンゲン公カール5世のもとへ行って戻る急使の役目(8月13〜17日)で有名になったと書き、同じように急使を務めたほかの人たちは、これほど知られることはなかったと添えています。

9月12日、連合軍はオスマン軍を破り、包囲は解かれました(IEU)。ЕІУの「ウィーンの戦い」の項目は、ソビェスキが率いた連合軍にウクライナのコサックの部隊も加わったと書き、クルチツキーを「包囲された町から助けを求める手紙を持って抜け出した、ガリツィア出身のウィーンの住民」として挙げています。

ウィーン歴史ウィキによれば、クルチツキーは1684年6月6日に皇帝の「トルコ宮廷急使」に任じられて決まった給与を受けるようになり、1685年にはウィーン市から土地を贈られましたが、同じ年に売っています。

オリュカのひとこと

この言い方には、異なる説もあるようです。この見出しで確かめられます。

「ウィーン最初のコーヒー店」をめぐる書き方

クルチツキーが開いたのか、ディオダートが開いたのか

同じ話を、資料は次のように書いています。

  • IEU「Kulchytsky, Yurii Frants」(1988年の紙の事典の再録):「言い伝えによれば」、感謝したウィーンの人々か、ソビェスキ自身が、トルコ軍から奪ったコーヒーを彼に与え、彼はそれでウィーン最初のコーヒー店を開いた
  • IEU「Vienna」(2013年更新):彼は「のちにウィーン最初のコーヒー店を開いた」と、言い伝えという断りなしに書く
  • ЕІУ(2008年):勇気への感謝として、トルコ軍から奪ったコーヒーの蓄えを贈られ、それによってウィーン最初のコーヒー店を開くことができた
  • ウィーン歴史ウィキ:クルチツキーが最初のコーヒー店を開いたというのは、歴史家カール・テプリーが学問的に否定した伝説。1685年1月17日に、コーヒーを人々に出す最初の特権を得たのはアルメニア人ヨハネス・デオダート(ディオダート)で、店は彼が住んでいた家にあった

ウィーン歴史ウィキによれば、この伝説を最初に広めたのは、ピアリスト会の神父ゴットフリート・ウーリッヒが1783年に出した『第二次トルコ包囲の歴史』でした。そこでは、クルチツキーが開いたのは、のちに「青い瓶」(Zur blauen Flasche)と呼ばれる家にあった店だとされています。一方、同じウィキのイサーク・デ・ルカの項目によれば、「青い瓶」の家に1703年にコーヒー店を移したのは、アルメニア出身の商人デ・ルカでした。

ウィーン歴史ウィキは、ウィーンにコーヒーが早く根づいたのは主にアルメニア人の商人たちのおかげだったとしています。皇帝の宮廷の会計には1645年からトルコの使節に出したコーヒーの支出が記され、1697〜1700年には皇帝レオポルト1世が四つのコーヒーを出す特権を与えました(同)。

  1. オリュカ

    クルチツキーの歩みとコーヒー店の話は、どんな順番なのかな。

  2. タブリ

    この見出しの下の年表で、出来事を順番にたどれるよ。

  3. スウネ

    生まれた年などが資料で違うことは、年表のすぐ後の見出しにまとめてあるよ。

年表

年出来事典拠
1640年ごろ(1644年とも)クルチツキーが生まれるIEU・ЕІУ(ウィーン歴史ウィキは1644年、括弧で1640年?)
1645年〜ウィーンの宮廷の会計に、トルコの使節へのコーヒーの支出が記されるウィーン歴史ウィキ
1665年ウィーンで結婚。皇帝の大使の下級の通訳ウィーン歴史ウィキ
1667年ウィーンの東方貿易会社に入るウィーン歴史ウィキ
1683年7月オスマン帝国の軍がウィーンを包囲IEU
1683年8月13〜17日急使として町を出て、戻るIEU・ЕІУ・ウィーン歴史ウィキ
1683年9月12日連合軍がオスマン軍を破り、包囲が解かれるIEU・ウィーン歴史ウィキ
1684年6月6日皇帝の「トルコ宮廷急使」にウィーン歴史ウィキ
1685年1月17日ヨハネス・デオダートがコーヒーを出す最初の特権を得るウィーン歴史ウィキ
1694年2月ウィーンで亡くなる(ウィーン歴史ウィキは19日、IEUは20日。ЕІУは1699年2月20日)IEU・ウィーン歴史ウィキ・ЕІУ
1783年ウーリッヒの本が「最初のコーヒー店」の話を広めるウィーン歴史ウィキ
1862年ウィーン4区の通りに彼の名が付くウィーン歴史ウィキ
1885年9月12日記念像の除幕ウィーン歴史ウィキ・IEU(1885年)
1980年テプリーが研究書『ウィーンへのコーヒーの導入』を出すウィーン歴史ウィキ(文献の一覧)
IEU「Kulchytsky, Yurii Frants」「Vienna」、ЕІУ「КУЛЬЧИЦЬКИЙ Юрій-Франц」「ВІДЕНСЬКА БИТВА 1683」、ウィーン歴史ウィキ「Georg Franz Koltschitzky」「Kaffeehaus」「Isaac de Luca」「Koltschitzkydenkmal」「Kolschitzkygasse」による。

生まれた年と亡くなった年は資料で違う

生まれた年は、IEUとЕІУが1640年ごろ、ウィーン歴史ウィキが1644年(1640年?)です。亡くなった日は、ウィーン歴史ウィキが1694年2月19日で、死亡の検案の記録は20日付だと書いています。IEUは1694年2月20日、ЕІУは1699年2月20日です。生まれた場所も、IEUはクルチツィ村、ウィーン歴史ウィキはスタリー・サンビルとしています。この記事は、どれか一つに決めていません。

名前の書き方と、「どこの人」か

  1. オリュカ

    この人の名前には、どんな書き方があるのかな。

  2. ヨリクネ

    ウィーンの事典とウクライナの事典の書き方が、この見出しの下に並んでいるよ。

  3. タブリ

    通りの名前にいまも残る書き方も、この見出しの下で確かめられるよ。

クルチツキー、コルチツキー、コルシツキー

ウィーン歴史ウィキの見出しは「Koltschitzky, Georg Franz」(ゲオルク・フランツ・コルチツキー)です。別の書き方として、ポーランド語の綴りのKolczycki、Kulczycky、ウクライナ語をラテン文字に写したKul’čyc’kyj, Jurij Franc を並べ、広く使われてきた「Kolschitzky」(コルシツキー)は誤りだと注記しています。ところが、ウィーン4区の通りの名は、いまも「Kolschitzkygasse」(コルシツキー小路)です。ウクライナの事典の見出しは「Кульчицький Юрій-Франц」で、ЕІУは「Кольчицький」という形も添えています。

「ウクライナの小貴族」と書く事典、書かない事典

出自の書き方も資料で違います。ЕІУは「ウクライナの小貴族の一族」の出と書き、IEUは「小貴族の出」とだけ書いています。ウィーン歴史ウィキは民族には触れず、職業を商人・斥候(Kundschafter)とし、姓のポーランド語の綴りを挙げています。1683年のガリツィアはポーランド・リトアニア共和国の中にあり、ЕІУの「ウィーンの戦い」の項目は、ソビェスキの軍のポーランドの部隊の一部が、共和国の「ルーシの」県々の住民から集められていたとも書いています。

記念像と通りの名

ウィーン歴史ウィキによれば、4区のファヴォリーテン通り64番、コルシツキー小路2〜4番の角の建物には、1683年の働きを記念する金属の像が取り付けられています。建物にあったカフェの経営者フランツ・ツヴィリナが、彫刻家エマヌエル・ペンドルに作らせたもので、除幕は1885年9月12日、1683年に包囲を解いたカーレンベルクの戦いの記念日でした。IEUもこの記念像に触れ、制作者を「I. Pendl」と書いています。通りに彼の名が付いたのは1862年です(ウィーン歴史ウィキ)。

IEUによれば、クルチツキーの生涯は、作家イヴァン・フィリプチャクによって小説にもなりました(1933年。1983年に第2版)。伝説として語られてきたコーヒー店の話と、ウィーンの記録に残る急使や通訳としての仕事は、分けて読むことができます。

出典と記事の記録出典 9件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Kulchytsky, Yurii Frants1640年ごろ、クルチツィ村、1694年2月20日没、小貴族、コサックとトルコでの捕囚は「いくつかの資料によれば」、通訳と商人、1683年8月13日、コーヒー店は「言い伝えによれば」、1885年の記念像、フィリプチャクの小説。紙版は1988年の第2巻
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  2. Vienna1683年のクルチツキーと、最初のコーヒー店、通り、1885年の記念像。2013年更新
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  3. КУЛЬЧИЦЬКИЙ Юрій-Франц1640年ごろ〜1699年2月20日、サンビル地方、ウクライナの小貴族、言い伝え、東方貿易会社、8月13日と17日、コーヒーの蓄えと最初のコーヒー店。執筆 Я. Д. Ісаєвич、第5巻、2008年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  4. ВІДЕНСЬКА БИТВА 1683 Р.連合軍とコサックの部隊、「ルーシの」県々、手紙を持って抜け出したクルチツキー。執筆 Т. В. Чухліб、第1巻、2003年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  5. Georg Franz Koltschitzky名前の別の形と「Kolschitzky」は誤り、1644年(1640年?)スタリー・サンビル、1694年2月19日没、ウィーンでの経歴、8月13〜17日、1684年6月6日、1685年の土地、ウーリッヒの1783年の本と「青い瓶」、テプリーの研究
    発行:Wien Geschichte Wiki(Stadt Wien) 確認日:2026-09-27
  6. Kaffeehaus「Die Anfänge der Kaffeehauskultur in Wien」「Die ersten privilegierten Kaffeesieder in Wien」の節:1645年の宮廷の会計、テプリーが否定した伝説、1685年1月17日のデオダートの特権、アルメニア人の商人、1697〜1700年の四つの特権
    発行:Wien Geschichte Wiki(Stadt Wien) 確認日:2026-09-27
  7. Isaac de Luca1703年に「Bey der blauen Flasche」の家へコーヒー店を移したこと
    発行:Wien Geschichte Wiki(Stadt Wien) 確認日:2026-09-27
  8. Koltschitzkydenkmalファヴォリーテン通り64番・コルシツキー小路2〜4番、フランツ・ツヴィリナ、エマヌエル・ペンドル、1885年9月12日の除幕
    発行:Wien Geschichte Wiki(Stadt Wien) 確認日:2026-09-27
  9. Kolschitzkygasse1862年の命名、4区
    発行:Wien Geschichte Wiki(Stadt Wien) 確認日:2026-09-27

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