1794年9月2日に港の工事が始まった町、オデーサと自由港の時代
オデーサは、トルコの要塞があったハジベイに1794年、港として造り直された町です。碁盤の目の計画、リシュリュー公の統治、関税のかからない自由港の時代に、小麦の輸出で大きく育ちました。事典の記述と数字、自由港の期間の食い違い、2022年に「創建者たち」の記念碑が下ろされた経緯をまとめます。
オリュカのひとこと
オデーサという名前は、どこから来たのでしょう。古代の植民市との関係を「1794年、港の町として」の節で確かめられます。
オデーサの「誕生日」は9月2日です。『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ)によれば、1794年9月2日に港の建設が始まり、この日が1849年から町の創建の日として祝われてきました。黒海に面したこの港町が、トルコの要塞のあった集落からどう生まれ、関税のかからない「自由港」の時代にどう育ったのか。そして2022年、町の広場から女帝の像が下ろされるまでを、事典と報道でたどります。
カチベイからハジベイへ
ВУЕによれば、いまのオデーサの場所にあった港「カチベイ」(Качибей)が初めて文書に現れるのは1415年です。Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS。以下IEU)は、カチベイの集落と港は14世紀に生まれ、15世紀初めにリトアニア大公ヴィータウタスが要塞を築いたと書いています。1480年にトルコがこの要塞を奪い、名前はハジベイ(Хаджибей)になりました。トルコは近くにイェニ・ドゥニャ要塞も築いています(建設の年はIEUが1764年、ВУЕが1766年)。
IEUによれば、露土戦争中の1789年、ロシア軍と、アンティン・ホロヴァティーとザハル・チェピハが率いるザポロージャのコサックがこの要塞と集落を落としました。一帯は、露土戦争を終わらせたヤシ条約でロシア帝国に移ります(IEUは1792年、ВУЕは1791年と書く。条約は1791年末に結ばれ、当時のロシアの暦と現在の暦で年がまたがる)。
1794年、港の町として
ВУЕによれば、1793年、アレクサンドル・スヴォーロフと、ロシア海軍の副提督だったホセ・デ・リバス(ウクライナ語ではЙосип де Рібас。1751〜1800年、現在のイタリア生まれ)のもとで、技師フランツ・デ・ヴォランの設計による新しい要塞の建設が始まりました。1794年、女帝エカチェリーナ2世はハジベイを新しい港として造り直すよう命じる勅書(рескрипт)を出し、同じ年の9月2日に港の施設の工事が始まります。
町は1795年に「オデーサ」と名づけられました。IEUとВУЕによれば、古代ギリシャの植民市オデッソスがこの場所にあったと考えられたためで、エカチェリーナ2世の時代に北黒海沿岸で流行した古代ギリシャ風の地名の一つです。ВУЕは、のちの研究で、オデッソスという名の植民市はヴァルナ(現在のブルガリア)の近くとティリフル湾の河口の二つで、いまのオデーサの場所ではなかったことが明らかになった、と書いています。
町は最初から計画的に造られました。IEUによれば、ヴォランが1794年に描いた計画が1803年に採られた都市計画のもとになり、通りは碁盤の目に引かれました。IEUはオデーサを「ウクライナでは数少ない計画都市の一つ」と書いています。
リシュリュー公の10年
1803年、オデーサと周辺は独立した行政区「オデーサ特別市」(градоначальство)になりました。IEUによれば、初代の長官に就いたのは、フランス革命を逃れてロシアに仕えていたフランスの貴族、リシュリュー公アルマン=エマニュエル・デュ・プレシ(1766〜1822年)です。1805年からはノヴォロシア総督も兼ね、1814年にフランスへ戻るまで、商業と農業を育て、ドイツ人、ブルガリア人、ギリシャ人、ユダヤ人の移住を促しました。フランスでは外務大臣、首相を務めています。
リシュリューの名は、1817年に創られた学校「リシュリュー・リツェイ」に残り、これがのちの新ロシア大学(1865年、現在のオデーサ大学)になりました。海へ下る大階段の上には、イヴァン・マルトスによるリシュリューの像が1828年に建てられています(IEU)。
オリュカのひとこと
自由港の時代は、何年まで続いたのでしょう。終わりの年が事典によって違うことを、この節で確かめましょう。
自由港(ポルト・フランコ)の40年
オデーサは1819年、外国からの商品を関税なしで出し入れできる「自由港」(порто-франко)になりました。ВУЕはその期間を1819〜1859年と書いています。一方、IEUのオデーサの項目は「1819〜1849年」としており、終わりの年が事典によって違います。どちらの事典も、自由港の地位が町の貿易、とくに輸入を大きく伸ばしたとしています。
IEUによれば、1815年にはすでに、黒海とアゾフ海の港を通る貨物の半分以上をオデーサが扱っていました。主な輸出品は小麦で、次いで羊毛でした。1830年代から1850年代にかけて、オデーサは黒海とロシア帝国で最大の小麦の輸出港になります。
| 年 | 貿易額(うち輸出/輸入) | 人口 |
|---|---|---|
| 1795年 | — | 2,300人 |
| 1815年 | — | 3万5,000人 |
| 1822年 | 570万ルーブル(370万/200万) | — |
| 1832年 | 1,010万ルーブル(640万/370万) | — |
| 1852年 | 2,640万ルーブル(1,930万/710万) | — |
| 1861年 | — | 11万6,000人 |
| 1862年 | 3,890万ルーブル(2,830万/1,060万) | — |
人も各地から集まりました。IEUによれば、1861年の住民は、ウクライナ人とロシア人を合わせて半分に届かず、約4分の1がユダヤ人、4分の1以上がブルガリア人、ギリシャ人、フランス人、イタリア人、ドイツ人、ポーランド人、モルドヴァ人でした。ВУЕは、1814年にギリシャ独立運動の秘密結社「フィリキ・エテリア」がオデーサで結成されたことも挙げています。
オデーサの港と穀物の結びつきは、いまも続いています。2026年夏の港への攻撃と輸出の経路は穀物の輸出経路の記事で扱っています。
「創建者たち」の像を下ろした2022年
町の中心のエカチェリーナ広場には、エカチェリーナ2世を中心に、デ・リバス、デ・ヴォラン、グリゴリー・ポチョムキン、プラトン・ズーボフの像を配した記念碑「オデーサの創建者たちへ」が立っていました。公共放送ススピーリネによれば、元の記念碑は1920年にボリシェヴィキが撤去し、2007年に広場の修復とともに複製が建てられたものです。2017年にオデーサの地区裁判所が設置を違法と判断し、国家記憶研究所も撤去を提案しましたが、2019年に最高裁判所が設置を適法と認めていました。
ロシアによる全面侵攻のあと、ロシア帝国を記念するものを見直す動きが広がります。ススピーリネによれば、オデーサ市議会は2022年11月30日、この記念碑とスヴォーロフ像の撤去を決めました。記念碑は12月29日の夜に約3時間かけて台座から下ろされ、同じ日にオデーサ美術館の敷地へ移されています。ロシア帝国にちなむ地名の見直しを定めた2023年の法律は二つの地名法の記事にまとめています。
オデーサの歴史地区は、2023年にユネスコの世界遺産と危機遺産に同時に記載されました。その経緯はウクライナの街と世界遺産の記事で、1965年に結ばれた横浜市との姉妹都市提携は姉妹都市の記事で扱っています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Odesa2012年改訂。カチベイ、ヴィータウタス、1480年、イェニ・ドゥニャ、1789年、ヤシ条約、1795年の改名と人口、1803年の特別市、リシュリュー、自由港、1815年の貨物、貿易額と人口の推移、1861年の住民構成、ヴォランの計画、リシュリュー像
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Richelieu, Armand-Emmanuel du Plessis duc de初出1993年。生没年、1803年の長官、1805年の総督、移住の奨励、1814年の帰国、フランスでの経歴、1828年の像
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Одеса歴史の節:カチベイの1415年、イェニ・ドゥニャ、ヤシ条約、1793年の要塞とデ・リバス、1794年の勅書と9月2日、1849年からの創建の日、1795年の名前とオデッソス、1797年の人口、1803年の特別市、1819〜1859年の自由港、フィリキ・エテリア
発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-24 - Дерусифікація Одеси: чи будуть у місті демонтувати пам'ятник Катерині2022年4月17日。1920年の撤去、2007年の複製、2017年と2019年の判決
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