作曲家ミコラ・ルィセンコと、生前に上演されなかった『タラス・ブーリバ』
ウクライナの近代音楽の土台を築いた作曲家ミコラ・ルィセンコ(1842〜1912年)。代表作のオペラ『タラス・ブーリバ』は、ロシア語での上演の話はあっても原語での上演が実現せず、初演は死後12年の1924年、ハルキウでした。民謡の採集、シェウチェンコの詩による歌、1885年の「ウクライナのための祈り」、1904年に開いた学校までをたどります。
オリュカのひとこと
『タラス・ブーリバ』は、なぜ作曲者の生前に舞台にかからなかったのでしょう。原語での上演をめぐる事情を見てみましょう。
ハルキウ国立アカデミー・オペラ・バレエ劇場は、ひとりの作曲家の名を冠しています。ミコラ・ルィセンコ(Микола Лисенко、1842〜1912年)です。劇場の公式サイトによれば、ルィセンコのオペラ『タラス・ブーリバ』の世界初演は、1924年10月にこの劇場の舞台で行われました。作曲者が亡くなってから12年後のことです。
ウクライナ国立科学アカデミーの『ウクライナ現代百科事典』(ЕСУ)は、ルィセンコを「新しいウクライナ国民音楽の創始者」と呼び、『タラス・ブーリバ』を彼の最も優れたオペラとしています。そのオペラが、なぜ作曲者の生きているうちに舞台にかからなかったのか。生涯をたどりながら見ていきます。
自然科学の学位を取ってから、ライプツィヒへ
ルィセンコは1842年3月22日(旧暦3月10日)、ポルタヴァ県のフルィンキ村で生まれました。Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU、カナダ・ウクライナ研究所発行)によれば、家はコサックの士官層(スタルシナ)に連なる貴族の家系で、ピアノの手ほどきは母から受け、ウクライナの音楽とコサックの言い伝えへの愛着は祖父母から受け継ぎました。
大学で学んだのは音楽ではなく自然科学です。ハルキウ大学からキーウの大学に移り、1865年に自然科学の学位を得ました。その後、ライプツィヒの音楽院で学び(1867〜69年)、キーウで音楽教師・指揮者として働いたのち、1874〜76年にはサンクトペテルブルクでリムスキー=コルサコフに管弦楽法を学んでいます。
キーウでは、ウクライナの文化運動を担った知識人の集まり「フロマーダ」に加わりました。IEUは、ここでのつながり、とくに親類の劇作家ミハイロ・スタールィツキーらとの交流が、ウクライナ音楽の研究と発展に身を捧げる決意につながったと書いています。
民謡を集め、シェウチェンコの詩に曲をつける
ルィセンコは学生のころから民謡を採譜していました。ペレヤスラウ地方の婚礼の歌や、名高いコブザール(弾き語りの歌い手)オスタプ・ヴェレサイが歌うドゥーマ(叙事歌)を書き取り、1874年にヴェレサイの歌の音楽的な特徴を論じた研究を発表しています。1894年には、ウクライナの民俗楽器についての研究もまとめました。コブザールとその楽器についてはバンドゥーラの記事で扱っています。
IEUによれば、生涯に編曲した民謡はおよそ500曲にのぼります。ウクライナ歴史百科事典(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所)は、書き取った民謡をおよそ1,500曲としています。
作品のなかで特別な位置を占めるのが、タラス・シェウチェンコの詩による歌です。IEUは、詩集『コブザール』の82編に曲をつけたとしています(ЕСУ・ウクライナ歴史百科事典は「80以上」)。独唱の歌曲、合唱曲、合唱と管弦楽のためのカンタータまで、形はさまざまです。シェウチェンコの生涯はシェウチェンコの記事にまとめています。歌曲はイヴァン・フランコやレーシャ・ウクラインカ、ハイネ、ミツキェヴィチらの詩にも書かれ、全体で120曲を超えます。
ウクライナ語の舞台が禁じられた時代
ルィセンコが働いたキーウは、ロシア帝国の支配下にありました。ウクライナ歴史百科事典によれば、1872年、ウクライナ語の劇を公に上演する許可が出たのを受けて、彼はオペレッタ『黒海のコサック』を書き、翌1873年にはゴーゴリの小説によるオペラ『降誕祭の夜』を書いています。ЕСУは、1874年1月24日のキーウ市立劇場での『降誕祭の夜』の上演が、ウクライナのオペラ劇場の始まりになったとしています。
その2年後の1876年5月30日、皇帝アレクサンドル2世はエムス法令に署名しました。IEUによれば、この秘密の勅令はウクライナ語の本の印刷を止めただけでなく、ウクライナ語による劇の上演や朗読、楽曲にウクライナ語の歌詞をつけて印刷することも禁じました。法令の中身と結果はエムス法令の記事で詳しく扱っています。
こうした制約のなかで、ルィセンコはウクライナの戯曲に音楽をつけ続けました。1883年にはゴーゴリの『五月の夜』によるオペラ『溺れた娘』を、1889年にはイヴァン・コトリャレウシキーの戯曲『ナタールカ・ポルタウカ』に序曲や幕間の音楽を書き加えた版を完成させています。ЕСУは、この『ナタールカ・ポルタウカ』を「幸運な運命をたどった」作品としています。
『タラス・ブーリバ』が舞台にかからなかった理由
『タラス・ブーリバ』は、ゴーゴリの同名の小説をもとに、スタールィツキーが台本を書いたオペラです。コサックのタラス・ブーリバと、二人の息子オスタプとアンドリーの運命を描きます。作曲の時期は資料によって少しずれ、ウクライナ歴史百科事典は1880年に始めて1890年に終えたとし、ЕСУは1880〜91年としています。
キーウ国立文化芸術大学の学術誌に載ったヤーナ・イヴァヌィツカの論文(2022年)は、上演されなかった事情を次のように書いています。スタールィツキーの回想によれば、チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフが何度か協力を申し出、モスクワの帝室劇場の指揮者らも上演を望んだ。しかし、どれもロシア語での上演の話だった。1911年にはボリショイ劇場とも話し合ったが、劇場側は「ゴーゴリは『タラス・ブーリバ』をロシア語で書いた」ことを理由に、原語での上演を認めなかった。
ЕСУによれば、作曲者の生前に上演されたのは断片だけでした。同じ論文によれば、ルィセンコはライプツィヒの出版社で楽譜を刊行する準備を進めていましたが、ピアノ伴奏譜が出たのは死の翌年の1913年です。歌詞はウクライナ語とロシア語の二つの言語で載りました。
初演は1924年の秋、ハルキウのオペラでした。同じ論文は、初演への評価が「古い色あせた音楽」という酷評から、作家で作曲家のフナト・ホトケヴィチの擁護まで大きく割れたと紹介しています。その後の上演は、作曲家レウコ・レヴツキーとボリス・リャトシンスキーによる改訂版が中心になりました。ЕСУは、二人の編曲による序曲を、ウクライナ音楽の歴史で最もよく演奏される器楽曲の一つとしています。
オリュカのひとこと
「ウクライナのための祈り」は、どんな経緯で生まれた曲なのでしょう。1885年の成り立ちから読んでみましょう。
1885年の「ウクライナのための祈り」
ルィセンコの作品で、いまのウクライナで最もよく耳にされるのは、合唱曲「偉大なる唯一の神よ」(Боже великий, єдиний)かもしれません。「ウクライナのための祈り」(Молитва за Україну)とも呼ばれます。ЕСУの詩人オレクサンドル・コヌィスキーの項目によれば、コヌィスキーが1885年に歌詞を書き、ルィセンコが曲をつけました。ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の公式サイトも、1885年の作としています。
ЕСУは、独立後のウクライナでこの合唱曲が「国の精神的な賛歌」となり、国の公式の祝典や、いくつかの教会の礼拝の終わりに歌われているとしています。国歌(「ウクライナの栄光も自由も、まだ滅びてはいない」で始まる歌)とは別の曲です。国歌の成り立ちは国旗・国章・国歌の記事で扱っています。
1904年に開いた学校と、名前を受け継いだ場所
1904年、ルィセンコはキーウに音楽演劇学校を開きました。IEUによれば、資金は、彼の活動35周年を祝って支持者たちが別荘を贈るために集めたお金でした。ЕСУは、これを東ウクライナで初めてウクライナ語で教える音楽演劇学校としています。1905年には合唱団「キーウのボヤン」を作っています。
教え子や後に続いた作曲家には、キリロ・ステツェンコ、オレクサンドル・コシツ、レウコ・レヴツキー、そして『シチェドリク』の編曲で知られるミコラ・レオントヴィチがいます(ЕСУ・IEU)。レオントヴィチについては『シチェドリク』の記事を参照してください。
ルィセンコは1912年11月6日(旧暦10月24日)、キーウで亡くなりました。その名はいまも各地の機関に残っています。
| 名前を冠したもの | 内容 |
|---|---|
| キーウの音楽演劇学校 | 1913年にルィセンコの名が付けられた(ウクライナ歴史百科事典)。1918年に音楽演劇大学に改組 |
| リヴィウ国立音楽アカデミー | IEUによれば、1940年にリヴィウの音楽学校を統合して国立音楽院が作られ、2007年から現在の名称。正式名称に「ルィセンコ記念」が入る |
| ハルキウ国立アカデミー・オペラ・バレエ劇場 | 1944年12月にルィセンコの名が付けられた(ウクライナ歴史百科事典)。『タラス・ブーリバ』初演の劇場 |
| ウクライナ国立フィルハーモニーの「円柱の間」 | 1962年、生誕120年に合わせて名が付けられた(ウクライナ歴史百科事典) |
| ルィセンコ国際音楽コンクール | 1962年に始まり、1992年から国際コンクール(ウクライナ歴史百科事典) |
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1842年 | 3月22日(旧暦3月10日)、ポルタヴァ県フルィンキ村に生まれる |
| 1865年 | キーウの大学で自然科学の学位を得る |
| 1867〜69年 | ライプツィヒ音楽院で学ぶ |
| 1874年 | 1月24日、キーウ市立劇場で『降誕祭の夜』上演(ЕСУ) |
| 1874〜76年 | サンクトペテルブルクでリムスキー=コルサコフに学ぶ |
| 1876年 | 5月30日、エムス法令。ウクライナ語の上演や歌詞の印刷も禁じられる |
| 1880年 | 『タラス・ブーリバ』の作曲を始める(完成は1890年または1891年) |
| 1885年 | コヌィスキーの詩による「ウクライナのための祈り」 |
| 1889年 | 『ナタールカ・ポルタウカ』のルィセンコ版 |
| 1904年 | キーウに音楽演劇学校を開く |
| 1912年 | 11月6日(旧暦10月24日)、キーウで死去 |
| 1913年 | 『タラス・ブーリバ』のピアノ伴奏譜がライプツィヒで刊行 |
| 1924年 | 10月、ハルキウで『タラス・ブーリバ』初演 |
出典・参考資料
- Lysenko, Mykola(生没年月日、フルィンキ村、コサック士官層の家系、1865年の自然科学の学位、ライプツィヒ1867〜69年、リムスキー=コルサコフ1874〜76年、1904年の学校、民謡約500曲、『コブザール』82編、歌曲120曲超、影響を受けた作曲家。2010年改訂)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Лисенко Микола Віталійович(生没年月日の新旧暦、「新しいウクライナ国民音楽の創始者」、1874年1月24日の『降誕祭の夜』、『ナタールカ・ポルタウカ』1889年、『タラス・ブーリバ』1880〜91年と生前は断片のみ、序曲の編曲、「偉大なる唯一の神よ」が精神的な賛歌に、1904年の学校、1905年のボヤン、名を冠した機関、教え子)
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24 - Лисенко Микола Віталійович(1872年の上演許可と『黒海のコサック』、1873年『降誕祭の夜』、1880〜1890年の『タラス・ブーリバ』、民謡約1,500曲の採譜、1913年の学校の命名、1939〜40年のリヴィウの音楽院、1944年12月のハルキウの劇場の命名、1962年の円柱の間とコンクール。2009年刊行の第6巻)
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-24 - Іваницька Я. Оригінал та редакції опери «Тарас Бульба» М. Лисенка(協力の申し出はロシア語での上演、1911年のボリショイ劇場、1913年のピアノ伴奏譜、1924年秋のハルキウ初演と評価。Вісник КНУКіМ. Серія: Музичне мистецтво, 2022, 5(1), 69–82, DOI 10.31866/2616-7581.5.1.2022.258149)
発行:Київський національний університет культури і мистецтв 確認日:2026-09-24 - Тарас Бульба(1924年10月の世界初演、劇場にルィセンコの名)
発行:Харківський національний академічний театр опери та балету імені М. В. Лисенка 確認日:2026-09-24 - Ems Ukase(1876年5月30日、上演・朗読・歌詞の印刷の禁止)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Lysenko Music and Drama School(1904年の開校、資金の由来、1918年の改組)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Lviv National Music Academy(1940年の設立、2007年からの名称)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Кониський Олександр Якович(1885年に「偉大なる唯一の神よ(ウクライナのための祈り)」の歌詞、曲はルィセンコ)
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24 - Молитва за Україну «Боже великий, єдиний»(1885年、作曲ルィセンコ・作詞コヌィスキー)
発行:Українська Греко-Католицька Церква 確認日:2026-09-24
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