描くことも書くことも皇帝に禁じられた詩人、タラス・シェウチェンコ
農奴に生まれたシェウチェンコは、1枚の肖像画の抽選で自由を買い取られ、美術アカデミーで学んだ画家でもありました。1847年の逮捕後は皇帝の命で書くことも描くことも禁じられた10年を送り、それでも詩を書き、絵を描きました。ウクライナ語を近代文学の言葉にした詩人の生涯です。
1847年、ロシア皇帝ニコライ1世は、一人の詩人に兵役の刑を科すにあたって、書くことも、絵を描くことも禁じました。詩人の名はタラス・シェウチェンコ(Тарас Шевченко、1814〜1861)。ウクライナで「国民詩人」と呼ばれる人です。
シェウチェンコは、帝国美術アカデミーで学んだ画家でもありました。農奴として生まれた彼が自由を得たのも、1枚の肖像画がきっかけでした。詩と絵の両方から、その生涯をたどります。
シェウチェンコの詩集の日本語訳については、ウクライナ文学は何から読むかで紹介しています。
肖像画の抽選で買い取られた自由
Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行。以下IEU)の「Shevchenko, Taras」の項目(2004年改訂)によれば、シェウチェンコは1814年3月9日、キーウ県ズヴェニホロド郡のモルインツィ村で、農奴として生まれました。12歳で孤児となり、村の聖歌隊長に読み書きを習いましたが、絵を描いて「時間を無駄にした」としばしば打たれたといいます。
14歳で領主エンゲルハルトの屋敷の小間使いになり、ヴィリニュス、ついでサンクトペテルブルクへ連れて行かれます。絵の才能に気づいた領主は、彼を画家のもとで4年間の徒弟奉公に出しました。シェウチェンコは空いた時間に夏の庭園の彫像を写生し、そこでウクライナ出身の画家イヴァン・ソシェンコと出会います。この縁から、高名な画家で教授のカール・ブリュロフと知り合いました。
同項目によれば、ブリュロフは自分が描いたロシアの詩人ワシーリー・ジュコーフスキーの肖像画を抽選会の賞品として提供し、その売り上げでシェウチェンコの身柄が買い取られました。1838年5月5日のことです。
まもなく彼は帝国美術アカデミーに入り、ブリュロフの指導を受けます。同じ1838年の物語詩「カテルィナ」は、自由を買い取ってくれたことの記念としてジュコーフスキーに献じられました。
1840年の『コブザール』と、三度の帰郷
1840年、最初の詩集『コブザール』がサンクトペテルブルクで出ます。8編のロマン主義の詩を収めた本でした。題名のコブザールは、バンドゥーラ(コブザ)を弾きながら叙事詩を語り歩いた、多くは目の見えない歌い手のことです。
サンクトペテルブルクに暮らしながら、シェウチェンコは1843年、1845年、1846年の三度、ウクライナへ旅をしました。IEUは、この旅が彼に深い影響を与えたと書いています。まだ農奴のままの兄弟姉妹や親族を訪ね、帝政による抑圧を目の当たりにしました。1845年にアカデミーを修了すると、キーウ考古学委員会の一員として各地の史跡や建築を写生し、民俗資料を集めて回ります。1844年には、故郷の遺跡や文化財を記録するエッチング集『絵のようなウクライナ』を手がけています。
この時期に書いたのが、帝政を痛烈に風刺した「夢」(1844年)や「カフカス」(1845年)などの詩です。彼はこれらを「三年」と題した手書きのアルバムに書き写し、その最後に「遺言」(Заповіт、1845年)を置きました。
書くことも描くことも禁じられた10年
1846年、キーウでシェウチェンコは秘密結社キリル・メトディー団に加わります。IEUによれば、団員とともに1847年4月5日に逮捕され、押収された「三年」のアルバムから反帝政の風刺詩が見つかったことで、とりわけ重い罰を受けました。カスピ海に近い辺境のオレンブルク特別軍団での兵卒としての兵役です。
ニコライ1世自身が、流刑中のシェウチェンコに、書くことも、素描することも、絵の具で描くことも禁じるよう命じた、とIEUは書いています。ブリタニカ百科事典も、キリル・メトディー団が弾圧された1847年に、帝政ロシアによるウクライナの抑圧を風刺した詩を書いたことで流刑と兵役に処され、書くことも絵を描くことも禁じられたと記しています。
それでも彼は書き、描きました。IEUによれば、隠れて書いた詩を手製の小さな冊子に隠し(1847〜50年)、流刑中に描いた絵の多くはカザフの人々の暮らしを写しています。画家としての腕を買われて、アラル海の調査隊(1848〜49年)にも加えられました。1850年に移されたノヴォペトロフスコエ要塞(現在はカザフスタンのフォルト・シェフチェンコ)では拘束が厳しくなりましたが、それでも100点を超える水彩と鉛筆画を残し、ロシア語で中編小説を書いています。
逮捕と取り調べのさなか、1847年春に書いた詩の連作「獄中で」には、仲間と同胞へのこんな呼びかけがあります。IEUが引く英訳から訳します(訳は編集部)。
ウクライナを愛せ、/愛せ……いちばんつらいときに、/いちばん最後のつらい一瞬に、/ウクライナのために神に祈れ。
連作「獄中で」(1847年)から。IEU「Shevchenko, Taras」所載の英訳からの重訳
流刑が解かれたのは1857年、ニコライ1世の死から2年後でした。それでもウクライナに住むことは許されず、ニジニ・ノヴゴロドで半年を過ごしたのちサンクトペテルブルクへ移ります。1859年にはウクライナの親族や友人を訪ねることを許されましたが、現地で拘束されて取り調べを受け、サンクトペテルブルクへ送り返されました。死ぬまで警察の監視下にありました。
| 年月日 | 出来事 |
|---|---|
| 1814年3月9日 | キーウ県のモルインツィ村に農奴として生まれる |
| 1838年5月5日 | ジュコーフスキーの肖像画の抽選会の売り上げで身柄を買い取られる |
| 1840年 | 詩集『コブザール』(8編) |
| 1843・45・46年 | ウクライナへの三度の旅 |
| 1845年 | 美術アカデミーを修了。「遺言」を書く |
| 1847年4月5日 | キリル・メトディー団の団員とともに逮捕 |
| 1847〜57年 | 兵卒として流刑。書くことと描くことを禁じられる |
| 1860年9月2日 | 美術アカデミーから版画のアカデミー会員の称号 |
| 1861年3月10日 | サンクトペテルブルクで死去 |
| 1861年5月22日 | カニウ近くのチェルネチャ山に改葬 |
画家シェウチェンコ
詩人として知られるシェウチェンコですが、IEUは彼を「すぐれた画家」でもあったと位置づけ、現存する作品は835点、知られていながら失われた作品が270点あるとしています。肖像画は150点を超え、そのうち43点が自画像です。
アカデミーで古典的な訓練を受けながら、彼は歴史や神話の定番の題材にとどまらず、農民の暮らしを写実的に描きました。IEUは、1844年の《農民の家族》のような作品が、帝政のもとで個人・社会・民族の自由がないことへのひそかな批判を表していると書いています。キーウのヴィドゥビチ修道院(1844年)、ペレヤスラウの昇天大聖堂(1845年)、ポチャイウ修道院(1846年)などの建築も記録しました。
水彩、アクアチント、エッチングにも長け、1860年9月2日、帝国美術アカデミーは彼に版画のアカデミー会員の称号を与えています。書くことも描くことも禁じた国の美術アカデミーが、その3年後に彼の版画の技量を認めたことになります。
ウクライナ語を文学の言葉にした
IEUは、『コブザール』がウクライナ文学と近代ウクライナ語の発展に新しい時代を開いたとし、シェウチェンコが自らの詩によって、ウクライナ語を近代文学の言葉として正統なものにしたと書いています。
同項目によれば、彼は民謡の文体と韻律を取りこみながら、それを複雑に変化させました。民謡コロミーカの節の組み立て(4+4+6音節)を土台に、規則的な連を捨て、行の途中の切れ目や行またぎ、頭韻を自在に使っています。民謡の要素を詩に移す腕が確かだったため、逆に彼の詩のほうが民謡として歌われるようになったものもあります。
よく知られるのが「遺言」です。IEUによれば、この詩は60を超える言語に訳され、1870年代にH・フラドキーが曲をつけてからは、国歌に次ぐ地位を得ました。『コブザール』の一部は、1990年代までに100を超える言語に訳されています。
亡くなる直前には、日曜学校のためにウクライナ語の初等読本(1861年)を自費で出版しています。その後、1863年のヴァルーエフ通達と1876年のエムス法令によってロシア帝国内でのウクライナ語の出版が止められると、彼の作品はオーストリア領のガリツィアや国外で出版されるようになりました。この経緯はエムス法令の記事でも扱っています。
カニウの丘に眠る
シェウチェンコは1861年3月10日、サンクトペテルブルクで亡くなりました。いったんその地に葬られましたが、本人の望みに従って、遺体はウクライナへ運ばれます。
ウクライナ国立ヴェルナツキー図書館によれば、棺はまずキーウに運ばれ、1861年5月20日に汽船でカニウへ向かいました。2日間ウスペンスキー大聖堂に安置されたのち、5月22日、チェルネチャ山(「修道士の山」)に埋葬されました。1884年にはこの丘に最初の民衆の博物館「タラスの部屋」が建てられ、1925年8月には国の博物館・保護区となっています。IEUは、この墓が以来何百万ものウクライナの人々が訪れる「聖なる」場所になったと書いています。
出典・参考資料
- Shevchenko, Taras(生没・農奴としての生い立ち・1838年5月5日の買い取りとブリュロフの肖像画の抽選・1840年の『コブザール』・三度の帰郷・1847年4月5日の逮捕と流刑・描くことの禁止・アラル海調査・ノヴォペトロフスコエ要塞・1857年の解放・画業(835点・270点・150点超・43点)・1860年9月2日の称号・文学語への影響・コロミーカの韻律・「遺言」の翻訳数と作曲・初等読本・改葬。2004年改訂。執筆:Myroslav Antokhii, Daria Darewych, Marko Robert Stech, Danylo Husar Struk)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Taras Hryhorovych Shevchenko(生没年月日の新旧暦・1838年の解放・1847年の流刑と兵役・書くことと描くことの禁止・1857年の解放)
発行:Encyclopaedia Britannica 確認日:2026-09-24 - Kobzars(コブザールの意味・シェウチェンコが詩集を『コブザール』と名づけたこと。2026年改訂。執筆:Victor Mishalow, Mykola Mushynka)
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - День перепоховання Тараса Шевченка у Каневі(1861年5月20日のカニウへの移送・5月22日の埋葬・1884年の博物館・1925年8月の博物館保護区)
発行:ウクライナ国立ヴェルナツキー図書館 確認日:2026-09-24
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