キリル文字で署名したフランス王妃、キーウの公女アンナ
ヤロスラウ賢公の娘アンナは、1051年にランスの大聖堂でフランス王アンリ1世と結婚し、夫の死後は幼い王フィリップ1世の摂政になりました。キリル文字の署名、再婚と破門、わからないままの晩年、そして「国王が誓いを立てた福音書」の話がどこまで確かかをまとめました。
オリュカのひとこと
国王たちが誓いを立てたという福音書の話は、どこまで確かなのでしょう。事典の書き方を最後の節で確かめられます。
11世紀の半ば、キーウの大公ヤロスラウ賢公の娘アンナ(Анна Ярославна、アンナ・ヤロスラヴナ)は、フランス王アンリ1世の妃になりました。フランスでは「アンヌ」と呼ばれ、夫の死後は幼い息子フィリップ1世とともに国を治めたとされます。フランス王家の文書に、キリル文字で書かれた彼女の署名が残っています。
一方で、よく語られる「フランスの国王たちが、アンナが持ってきた福音書に手を置いて戴冠の誓いを立てた」という話は、同じ事典が伝説として扱っています。以下は、アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU)の「Anna Yaroslavna」「Henry I」「Reims Gospel」の項目による内容です(2026年9月時点)。
ヤロスラウ賢公の娘として
IEU によれば、アンナは1024/25年または1032年にキーウで生まれました。生年ははっきりしません。父はキーウの大公ヤロスラウ賢公、母はスウェーデン王オーロフ・シェートコヌングの娘インギゲルドです。姉妹はハンガリー王アンドラーシュ1世、ノルウェー王ハーラル3世に嫁いでいます。ヤロスラウ賢公の娘たちの婚姻はキーウ・ルーシから16世紀まででも触れています。
キーウの聖ソフィア大聖堂には、アンナと母、二人の姉妹を描いた中世のフレスコ画が残っている、と IEU は書いています。大聖堂が建った年をめぐる議論は1011年か1037年かにまとめています。
1051年、ランスで結婚
アンリ1世(1008年ごろ〜1060年)は1031年からフランス王でした。IEU によれば、二度妻を亡くし、息子のいなかったアンリがアンナとの結婚を進めた理由は三つ挙げられています。神聖ローマ帝国に対してヤロスラウの支えを得ること、男子の跡継ぎを得ること、近い親族どうしの結婚を禁じた教会の決まりを守ることです。
結婚式は1051年5月19日、ランスの大聖堂で行われました(IEU)。最初の息子で、のちのフィリップ1世は1052年に生まれ、夫妻には3人の息子がいました。IEU は、「フィリップ」という名前はそれまでのフランスではとても珍しく、中世にキーウ・ルーシと重ねられたスキタイの地で布教した聖フィリポにちなんだ可能性が高い、とする研究を紹介しています。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1024/25年または1032年 | キーウで生まれる |
| 1051年5月19日 | ランスの大聖堂でアンリ1世と結婚 |
| 1052年 | 長男フィリップ(のちのフィリップ1世)が生まれる |
| 1060年 | アンリ1世が死去。幼いフィリップ1世の共同の摂政になる |
| 1061年 | ヴァロワ伯ラウール3世と結婚 |
| 1074年 | ラウール3世が死去。のちフィリップ1世の宮廷に戻る |
| 1075年より後 | 亡くなる。場所と年月日はわかっていない |
夫の死後と、わからないままの晩年
アンリ1世は1060年8月4日、オルレアンに近いヴィトリ=オー=ロージュで亡くなりました。IEU によれば、アンナはフィリップが幼いあいだ、共同の摂政としてフランスを治めました。
翌1061年、アンナはヴァロワ伯ラウール3世と結婚します。ラウールにはすでに妻がいたため、二人は教皇アレクサンデル2世から破門されました。1074年にラウールが亡くなると、アンナは息子フィリップの宮廷に戻ります。そのあとの記録は途切れ、亡くなった場所も年月日もわかっていません。
パリの北にあるサンリスでは、アンナが創建したサン・ヴァンサン修道院の教会に、20世紀に作られたアンナの全身像が2体ある、と IEU は書いています。
オリュカのひとこと
アンナの署名は、事典からどんな三つの点で評価されているのでしょう。どこまでが事典の見方かもこの節で確かめましょう。
キリル文字の署名
IEU によれば、1060年代のフランス王の文書(特許状)に、アンナがキリル文字で書いた署名が残っています。IEU はこの署名について、次の三つを挙げています。
- カペー朝の王妃の署名で、羊皮紙の上に残っている唯一の例
- リューリク家の一員の署名として、13世紀より前のもので唯一知られている例
- 現存する古いウクライナ語の手書きの例として最も古い
三つ目の評価は IEU によるものです。どの文書のどこに署名があるか、文書の正確な日付と所蔵先は、IEU の項目には書かれていません。
「戴冠の誓いの福音書」は伝説
フランスのランスには、「ランスの福音書」(ウクライナ語で Реймське євангеліє)と呼ばれる写本があります。この本がアンナとともにキーウから来て、フランス王たちが戴冠の誓いに使った、という話はよく知られています。IEU の「Reims Gospel」の項目(1993年刊行の事典から)によれば、写本の成り立ちは次のとおりです。
- 前半(16葉)はキリル文字で書かれた福音書の一部。神聖ローマ皇帝カール4世がハンガリーのどこかで手に入れ、プラハのエマウス修道院に贈った
- 後半(31葉)はグラゴル文字の福音書・使徒書の朗読文。1395年にエマウス修道院のチェコ人修道士が、クロアチアの原本から写した
- 1421年にエマウス修道院が焼けたあと、写本はイスタンブールに渡った。ロレーヌ枢機卿シャルルが買い取ってランスの大聖堂に贈り、1574年からそこで保管された。のちにランス市立図書館に移った
同じ項目は、フランスの君主たちが戴冠の誓いにこの本を使ったという話を「伝説」だとしています。この本がヤロスラウ賢公の蔵書で、娘のアンナがフランスへ持って行ったという話も、「ある伝説によれば」として紹介しているだけです。キリル文字の部分がいつ、どこで書かれたかについても、14世紀の写しとみる説と、11〜12世紀の東スラヴのものとみる説があったと書かれています。
つまり、この写本がランスに届いたのは、IEU の記述では16世紀です。IEU は、アンナがこの本を持って行ったことも、国王たちがこの本に誓ったことも、事実としては書いていません。
結婚式の場所と福音書の場所は別の話
アンナがランスの大聖堂で結婚したことと、のちにランスの大聖堂に福音書が収められたことは、同じ町の同じ建物の話なので、一つの話として語られやすいのかもしれません。IEU の二つの項目を並べると、両者のあいだには500年あまりの隔たりがあります。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Anna Yaroslavna生年の二説、父母、姉妹の婚姻、1051年5月19日の結婚、1052年の長男、1060年以後の摂政、1061年の再婚と破門、1074年、晩年、署名、聖ソフィア大聖堂のフレスコ画、サンリスの像。2010年改訂
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta) 確認日:2026-09-24 - Henry I生没年、没地、1031年の即位、1051年の結婚、息子たち
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta) 確認日:2026-09-24 - Reims Gospel写本の構成、カール4世、1395年、1421年、1574年、ランス市立図書館、戴冠の誓いとアンナの伝説。執筆 Oleksa Horbach、初出1993年第4巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta) 確認日:2026-09-24
記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。





