本文へ移動

ウクライナの人・文化・社会・未来を、日本と世界につなぐ

Ukrainavi Ukrainavi

文化・歴史/解説

1904年のブレシアで蝶々さんを歌った、ソロミヤ・クルシェルニツカ

1904年2月にミラノのスカラ座で初演された『蝶々夫人』は、5月にブレシアで手を入れた版が上演されました。そこで蝶々さんを歌ったのが、ガリツィアの村に生まれたソロミヤ・クルシェルニツカです。事典の記述から、その生涯と「作品を救った」という言い方の中身を見ます。

イメージ画像

オリュカのひとこと

ガリツィアの村に生まれた歌い手が、なぜミラノの舞台に立ったのでしょう。歩みを最初の見出しでたどれます。

1904年5月28日、北イタリアの町ブレシアのテアトロ・グランデで、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(Madama Butterfly)が上演されました。同じ年の2月にミラノのスカラ座で初演されたばかりの作品の、手を入れた版です。題名の役、蝶々さんを歌ったのは、ハプスブルク帝国領ガリツィアの村に生まれた歌手、ソロミヤ・クルシェルニツカ(Соломія Крушельницька)でした。

以下は、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、ウクライナ国立科学アカデミーなどの『ウクライナ現代百科事典』(ЕСУ)、イタリアのジャコモ・プッチーニ研究センター(Centro Studi Giacomo Puccini)の作品情報による内容です(2026年9月時点)。二つの事典で年がずれているところは、そのまま両方を示します。

ガリツィアの村から、リヴィウとミラノへ

二つの事典はそろって、クルシェルニツカが1872年9月23日にいまのテルノーピリ州にあるビリャヴィンツィ村で生まれ、1952年11月16日にリヴィウで亡くなったとしています。声の種類は、IEUは「ドラマティック・ソプラノ」、ЕСУは「ソプラノ」と書いています。

1893年にリヴィウの音楽院を卒業し、同じ年にリヴィウの舞台で、ドニゼッティのオペラ『ラ・ファヴォリータ』のレオノーラの役でデビューしました。その後ミラノでフランチェスコ・クレスピに学びます。ミラノで学んだ期間は、IEUが1893〜1896年、ЕСУが1893〜1894年としていて、ЕСУはこのほか1895年にウィーンでも学んだと書いています。

オリュカのひとこと

「彼女が作品を救った」とは、誰の言葉なのでしょう。その出どころをこの節で確かめましょう。

1904年の『蝶々夫人』

プッチーニ研究センターの作品情報によれば、『蝶々夫人』は1904年2月17日にミラノのスカラ座で初演されました。このときの蝶々さんはロジーナ・ストルキオです。ЕСУは、この初演が「大きな失敗」に終わったと書いています。舞台は長崎で、日本の旋律が使われていることでも知られる作品です。

3か月後の5月28日、ブレシアのテアトロ・グランデで、手を入れた版が初めて上演されました。研究センターは、この版の変更点を「第2幕を二つの部分に分け、場面を削ったり加えたりし、旋律を大きく変えた」とまとめています。蝶々さんはクルシェルニツカ、指揮はミラノの初演と同じクレオフォンテ・カンパニーニでした。ЕСУは、彼女がプッチーニに招かれてこの役を歌ったとしています。

ミラノ(初演)ブレシア(改訂版の初演)
日付1904年2月17日1904年5月28日
劇場スカラ座テアトロ・グランデ
蝶々さんロジーナ・ストルキオソロミヤ・クルシェルニツカ
指揮クレオフォンテ・カンパニーニクレオフォンテ・カンパニーニ
ジャコモ・プッチーニ研究センターの作品情報(2026年9月に確認)をもとに作成。

「作品を救った」と言えるのか

クルシェルニツカについては、「失敗した『蝶々夫人』を救った歌手」という言い方がよく見られます。確かめた範囲では、事典はそこまで言っていません。IEUの言い方は、1904年の彼女の蝶々さんが、この作品が世界の上演演目に「入ることに寄与した」というものです。ЕСУは、プッチーニが彼女を「最も美しく、最も魅力的な蝶々さん」と見ていたと書いていますが、その言葉がどの手紙や文書にあるのかは示していません。

研究センターの作品情報によれば、プッチーニはブレシアのあとも手を入れ続け、1906年12月28日のパリのオペラ=コミック座での上演では、第1幕を削り、第2幕に書き足し、結末を大きく変えています。作品が広まったのは、歌い手だけでなく、こうした作曲者自身の改訂も重なった結果で、ひとりの歌手が作品を救ったとする一次資料は確認できていません。

  1. オリュカ

    歌った年は、どの都市でもきちんと一致しているのかな。

  2. スウネ

    都市ごとの年は、この見出しの下の表で、二つの事典が食い違うようだよ。

  3. タブリ

    年ごとの記録は、この見出しの下の表で見比べられるよ。

ヨーロッパと南米の舞台

デビューのあと、クルシェルニツカはヨーロッパと南米の歌劇場を回りました。ただ、どこで何年に歌ったかは、二つの事典で細かく食い違います。

都市IEUЕСУ
オデーサ1896〜1897年1896〜1897年
ワルシャワ1898〜1902年1898〜1902年
サンクトペテルブルク1901〜1902年1899〜1901年
パリ1902年1902年
ナポリ1902年、1904年1903年
ミラノ(スカラ座)1898、1904、1907、1909、1915年1904、1906、1909、1915年
ブエノスアイレス1906、1908、1910〜1913年1906、1910、1913年
IEU「Krushelnytska, Solomiia」(1988年の紙版の再録)とЕСУ「Крушельницька Соломія Амвросіївна」(2014年12月最終改訂)による。事典どうしで年が一致しない行がある。

IEUは、1906年にスカラ座でリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』が成功したのは、彼女と指揮者アルトゥーロ・トスカニーニのおかげだったと書き、1915年にはイルデブランド・ピツェッティの『フェードラ』の世界初演で題名の役を歌ったとしています。ЕСУは、『サロメ』(1906年)と『エレクトラ』(1909年)をイタリアで初めて主役として歌った歌手だとしています。持ち役はIEUによれば60近く、声域は二つの事典とも3オクターブと書いています。

ウクライナの歌と、リヴィウに戻ってから

二つの事典によれば、1920年代の半ばにオペラの舞台を離れ、演奏会で歌うようになりました。ウクライナの民謡を自分のピアノ伴奏で歌うことを好んだ、とIEUは書いています。ЕСУは、作曲家ミコラ・ルィセンコが彼女に歌曲を献じたこと、1900年にリヴィウでセメン・フラク=アルテモウシキーのオペラ『ドナウの向こうのザポロージェツ』に出演したことを挙げています。ルィセンコについては作曲家ミコラ・ルィセンコと、生前に上演されなかった『タラス・ブーリバ』で扱っています。

ЕСУによれば、1910年にイタリアの弁護士リッチョーニと結婚し、イタリアのヴィアレッジョに住みました。1939年にリヴィウへ戻り、音楽院で独唱を教えます。教えた期間は、IEUが1944〜1952年、ЕСУが1944〜1951年としています。

名前が残る場所

ЕСУは、記念の施設と名前について次のように挙げています。

  • 1963年、少女時代を過ごしたテルノーピリ州のビーラ村に記念博物館が開かれた
  • 1989年、リヴィウで1952年まで住んでいた家に、音楽と記念の博物館が開かれた
  • リヴィウの国立オペラ・バレエ劇場が彼女の名前を冠する(IEUと劇場の発表では2000年から。ЕСУは2001年)
  • 1991年から、彼女の名前を冠した国際オペラ歌手コンクールがリヴィウで開かれている

リヴィウの劇場は、IEUによれば1900年に建てられた市立劇場の建物を使い、それ以前はイヴァン・フランコの名前を冠していました。ガリツィアという地域についてはガリツィア(ハリチナ)、ポディッリャ、スロボジャンシチナ。州の名前とは別の地域名で扱っています。

出典と記事の記録出典 5件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Krushelnytska, Solomiia生没年月日と場所、1893年の卒業とデビュー、ミラノでの師と期間、歌った都市と年、1904年の蝶々さんの評価、1906年の『サロメ』、1915年の『フェードラ』、約60の役、3オクターブ、1920年代半ばからの演奏会、1939年の帰郷と1944〜52年の教職。執筆 Wasyl Wytwycky、紙版は1988年の第2巻
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24
  2. Крушельницька Соломія Амвросіївна生没年月日と場所、学歴、デビュー、歌った都市と年、1904年のブレシアでの蝶々さんとスカラ座の初演の失敗、プッチーニの評価、イタリアでの初演、ルィセンコの献呈、1910年の結婚、1939年の帰郷、1944〜51年の教職、博物館・劇場・コンクール。執筆 Б. М. Фільц、第15巻、2014年12月最終改訂
    発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24
  3. Madama Butterflyミラノ初演1904年2月17日と配役、ブレシア版の初演1904年5月28日と配役・指揮、ブレシア版の変更点、パリ版1906年12月28日の変更点、舞台が長崎であること、日本の旋律
    発行:Centro Studi Giacomo Puccini 確認日:2026-09-24
  4. Lviv National Academic Theater of Opera and Ballet1900年の建物、イヴァン・フランコの名、2000年の改称。2016年改訂
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24
  5. Соломія Крушельницька: Україна відзначила 150-річчя ідеальної співачки劇場が2000年から彼女の名を冠すること
    発行:Львівський національний академічний театр опери та балету імені Соломії Крушельницької 確認日:2026-09-24

記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。