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ウクライナの人・文化・社会・未来を、日本と世界につなぐ

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文化・歴史/解説

クリミア移管から核兵器の放棄まで、戦後ウクライナの半世紀

1946年の飢饉から、1954年のクリミア移管、1986年のチョルノービリ原発事故、1991年の独立と国民投票、1994年のブダペスト覚書、1990年代のインフレと通貨改革までをたどります。1954年のクリミア移管については、公式に示された二つの理由と、研究者が推定する動機を分けて示します。1991年12月1日の国民投票では、27の行政単位のすべてで、投票した人の過半数が独立に賛成しました。

ウクライナ最高会議議事堂の入口。「ВЕРХОВНА РАДА УКРАЇНИ」の金文字が掲げられている
ウクライナ最高会議(ヴェルホーヴナ・ラーダ)議事堂の入口(2005年撮影)。1990年7月16日の国家主権宣言と1991年8月24日の独立宣言法は、ここで採択された 写真:Elke Wetzig/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0

ウクライナの地の歴史を四本に分けてたどる、その四本目です。ソ連の一共和国として迎えた第二次世界大戦後から、1991年の独立を経て、新しい憲法と通貨ができた1990年代までを扱います。

1946年から47年の飢饉

戦後、中部・東部ウクライナの多くの住民が飢えを経験しました。『Internet Encyclopedia of Ukraine』(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行)は、旱魃が戦時中の農業崩壊を悪化させたにもかかわらず、ソ連政府が農民に課した供出割当を引き下げることを拒んだ、と書いています。同事典はまた「ソ連体制は、1946年から47年にウクライナで飢饉が起きたことを認めなかった」とも記します。

死者数は書けません。同事典は「死者数の推計は大きく異なり、10万人から100万人超まで幅がある」としています。ウクライナ国立科学アカデミー歴史学研究所の『ウクライナ史百科事典』は100万人超とする一方、その数字自体を「きわめて不完全なデータによれば」と留保しています。

UPAの抵抗はいつ終わったのか

西部でのUPAの反ソ連抵抗は、段階を追って終わっていきました。1949年9月3日、ローマン・シュヘーヴィチが指揮機構と残存戦闘部隊の解体を命じ、構成員を地下網へ移しました。シュヘーヴィチの死(1950年3月5日)ののち、地下組織はヴァスィリ・ククの指導下で武装闘争を続け、1954年に彼が治安機関の特別作戦で捕らえられて、組織的な抵抗は終わります。

『ウクライナ史百科事典』は、1944年から1952年に西部諸州からソ連の遠隔地へ特別移住させられた人を203,662人とし、そのうちOUNとUPAの構成員およびその同調者の家族が182,543人だったとしています。

1954年のクリミア移管——手続きを日付で追う

移管を決めたのは、1954年2月19日のソ連最高会議幹部会の決定です。ただし、そこに至るまでに複数の機関を通っています。ハーバード大学冷戦研究プログラムのマーク・クレイマー氏が Wilson Center で公開した資料集は、収録文書の一覧として次の日付を挙げています。1954年1月25日、ソ連共産党幹部会が移管を承認。2月5日、ロシア共和国閣僚会議の決定と、ロシア共和国最高会議幹部会の議事録。2月13日、ウクライナ最高会議幹部会の決定。そして2月19日、ソ連最高会議幹部会。各文書にはロシア国立公文書館(GARF)のフォンド番号が付されています。

公式に示された理由は二つありました。クレイマー氏の引用によれば、第一の理由は、1654年のペレヤスラウ条約から300年を記念する「ロシア人民の側の高貴な行為」であり、「ロシア人民がウクライナ人民に対して抱く限りない信頼と愛を示す」ものだというもの。第二の理由が「クリミアのウクライナへの地理的近接、両者の経済の共通性、クリミア州とウクライナ共和国の緊密な農業的・文化的結びつき」です。第一の理由を落とすと、当時の公式説明を正しく伝えられません。

ただしクレイマー氏自身は「この二つの見かけ上の正当化は、どちらも精査に耐えない」と書き、実際の動機として、西ウクライナでの武装抵抗が終わったあとの統制強化、マレンコフとの権力闘争、キリチェンコの支持獲得を挙げています。公式に示された理由と、研究者が推定する動機は、分けて読む必要があります。

住民の意思を問う手続きは行われていません。この点について、ソ連憲法上は関係住民の承認が必要だったのに実施されなかった、と述べているのはマーケット大学ロースクールのJ・ゴードン・ヒルトン教授です(同教授のブログ記事であり、査読論文ではありません)。なお1954年の時点でクリミア・タタール人は中央アジアの強制移住先におり、帰還を禁じられていました。『Internet Encyclopedia of Ukraine』は、1956年4月28日の決定が帰還を禁じ、この禁止が1988年まで有効だったこと、1960年9月5日の決定が対独協力の嫌疑を解いたあともそうだったことを記しています。

ソ連解体の前後に、ロシアとウクライナの間で国境に関する条文を含む文書が結ばれています。1990年11月19日の条約は第6条で「両締約国は、現在ソ連の枠内に存在する国境における、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国とロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の領土的一体性を承認し、尊重する」と定めました。1997年5月31日の友好協力パートナーシップ条約は第2条で、両国が互いの領土的一体性を尊重し、既存の国境の不可侵を確認しています。ただし1990年の条約は1997年条約により、1997年条約は2018年12月6日の法律により、いずれも終了しています。「いまも有効な条約が国境を保証している」とは書けません。

雪解けのあと——反体制運動と、その代償

1950年代後半から書き始め、1960年代初めに頂点に達した世代は「シシトデシャトヌィキ(六十年代人)」と呼ばれます。リナ・コステンコとヴァスィリ・スィモネンコが最初の代表とされます。この運動は十年ほどしか続かず、1965年から72年の逮捕で沈黙させられました。

逮捕の波は1965年から66年と、1972年1月から4月の二度。後者でヴャチェスラウ・チョルノヴィル、イヴァン・ジューバ、ヴァシル・ストゥスらが捕らえられ、罪名は「反ソヴィエト的煽動と宣伝」でした。弾圧は投獄だけではありません。『Internet Encyclopedia of Ukraine』は「同時に、解雇、退学、住居からの立ち退きという形でも弾圧が行われた。リヴィウ大学では23人の学生が退学させられ、27人の講師が解雇された」と記しています。

精神病院への収容も実在の運用でした。同事典は、内務省の直轄下にある「特別精神病院」では医学的判断より保安が優先され、政治目的での精神医学の濫用が一般的だった、ウクライナにはドニプロ(当時のドニプロペトロウシク)に一つあった、と書いています。

ジューバは1965年末に『インターナショナリズムかロシア化か』を書き上げて党第一書記に提出し、これが西側で出版されたのは1968年です(執筆と出版を混同しないでください)。1973年4月に禁錮5年の判決を受け、同年11月に公開の転向声明と引き換えに釈放されました。ストゥスは1985年9月3日から4日にかけての夜、ペルミ州クチノの特別体制収容所の懲罰房で死亡し、1989年11月19日にキーウのバイコヴェ墓地へ改葬されました。

ウクライナ・ヘルシンキ・グループは1976年11月9日にキーウで結成されました。創設者10人の名前は、『Internet Encyclopedia of Ukraine』とウクライナ国立科学アカデミー歴史学研究所の『ウクライナ史百科事典』で一致しています(ミコラ・ルデンコを代表として、オレス・ベルドニク、ペトロ・フリホレンコ、イヴァン・カンディバ、レウコ・ルキヤネンコ、ミロスラウ・マルィノヴィチ、ミコラ・マトゥセヴィチ、オクサナ・メシュコ、ニーナ・ストロカタ、オレクサ・ティヒー)。1977年2月から逮捕が始まり、二年以内に創設メンバー全員が7年から10年の刑と流刑を宣告されました。

ロシア語化——数字は、誰の集計か

この節の数字は、すべて『Internet Encyclopedia of Ukraine』(カナダ・ウクライナ研究所)の記述であって、ソ連の公式統計そのものではありません。同事典によれば、ウクライナ語で教える学校の比率は1955年から56年の85.3パーセントから、1967年から68年の81.1パーセントへ低下しました。1987年には、首都および州都の学校のうちウクライナ語の学校は16パーセントだけで、チェルニーヒウ、ドネツィク、シンフェロポリ、ルハンシクにはウクライナ語の学校が一つもありませんでした(これは首都・州都に限った数字で、全国の値ではありません)。

出版でも、ウクライナ語の高等教育向け教科書は1970年の168点から1980年の38点へ減り、同じ期間にロシア語のものは263点から422点へ増えました。「上昇移動にロシア語が有利だった」という評価は、この事典の執筆者(ボフダン・クラウツィウ、ヴォロディーミル・クビヨヴィチ)の見解として書けるもので、統計から直接出てくる事実ではありません。

1986年4月26日——チョルノービリ

チョルノービリ・フォーラム(IAEA、WHO、UNSCEAR、世界銀行、ベラルーシ・ロシア・ウクライナ三国政府などが参加)の報告書は「1986年4月26日、原子力産業の歴史上もっとも深刻な事故が、当時のソ連ウクライナ共和国にあるチョルノービリ原子力発電所の4号機で発生した」と書いています。

情報公開の遅れは、公的機関自身が書いています。同報告書は「第三に、ソ連政府は事故が起きたという公表を遅らせた。情報提供は選択的で制限的であり、とくに事故直後がそうだった」「信頼できる情報は、当初は当時のソ連の被災住民に届かず、事故後も何年にもわたり不十分なままだった」と記します。

避難については、同報告書がプリピャチの住民約50,000人が事故後40時間以内に避難したとしています。

事故のあと、国際的な枠組みが二つできました。原子力事故の早期通報に関する条約と、原子力事故または放射線緊急事態の場合における援助に関する条約です。どちらも1986年9月26日にウィーンで採択され、発効はそれぞれ1986年10月27日と1987年2月26日。国連条約集の注記によれば、援助条約の発効を成立させた三か国のうちの一つがウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国でした(1987年1月26日)。

ルフ、人間の鎖、主権宣言

人民運動ルフの創立大会は1989年9月8日から10日、キーウ工科大学で開かれました。参加代議員の数は資料によって1,100人余、1,109人、1,200人と割れるので、この記事では書きません。

「人間の鎖」は1990年1月21日。ウクライナ国立記憶研究所によれば、正式には「リヴィウとキーウの間」と呼ばれたものの、本体の鎖の起点はリヴィウ州ストリー市で、そこからイヴァーノ=フランキーウシク方面とザカルパッチャ方面にも二本の鎖が伸びていました。全長は500キロ(『Internet Encyclopedia of Ukraine』)と約700キロ(同研究所)で割れます。参加人数も推計で40万人から300万人と幅があり、単一の数字では書けません。記念していたのは、1919年1月22日の東西ウクライナ統一宣言です。

1990年7月16日、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国最高会議は国家主権宣言を採択しました。そこには第9節として「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国は、将来において恒久的中立国となり、軍事ブロックに参加せず、三つの非核原則、すなわち核兵器を受け入れず、生産せず、取得しないという原則を遵守する意思を、厳粛に宣言する」という条項が入っています。この条項は、後の核兵器の扱いにつながります。

1991年——独立宣言と、12月1日の国民投票

1991年8月24日、最高会議はウクライナ独立宣言法を採択しました(文書番号1427-XII)。同日の決議は、独立宣言を確認するための共和国国民投票を12月1日に行うことも定めています。つまり国民投票は、宣言と同じ決定のなかで最初から予定されていました。

12月1日の結果は、賛成90.32パーセント、投票率84.16パーセントでした(当時の中央選挙管理機関の公式結果を、同時代の新聞 The Ukrainian Weekly が12月3日に受領して報じたもの)。同紙が掲載した27の行政単位別の数字では、27のすべてで、投票した人の過半数が独立に賛成しています。キーウ市は92.87パーセント、クリミア自治共和国は54.19パーセント、セヴァストポリ市は57.07パーセントでした。

これらは投票した人のうちの賛成の割合で、有権者総数を分母に取ると、前出のヒルトン教授の計算ではクリミアで約37パーセント、セヴァストポリで約40パーセントになります。

同じ日に行われた大統領選挙でレオニード・クラウチュークが選ばれました。12月8日、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの首脳が署名した協定は「ソ連は国際法の主体としても地政学的現実としても存続を終える」と述べ、第1条で独立国家共同体の創設を定めています。署名したのはこの三国だけで、文書自身は署名地を「ミンスク市」と記しています。

ベロヴェーシの森での署名式のあと並んで立つクラウチューク、シュシケーヴィチ、エリツィン
独立国家共同体(CIS)創設協定の署名後(1991年12月8日、ベロヴェーシの森)。左からウクライナのクラウチューク大統領、ベラルーシ最高会議のシュシケーヴィチ議長、ロシアのエリツィン大統領 写真:Yuriy Ivanov(Юрий Иванов)/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0

クリミアでは、その後の2014年3月16日、クリミア自治共和国とセヴァストポリ市で「住民投票」が行われました。国連総会は決議68/262で、これがウクライナによって承認されていないとし、主文5で「効力を有さず(having no validity)」、クリミア自治共和国とセヴァストポリ市の地位の変更の根拠になりえないとしています(独立と侵略の年表)。

核兵器の放棄とブダペスト覚書

独立時にウクライナ領内に残っていたのは、軍備管理協会(Arms Control Association)の推計で戦略核弾頭約1,900発、大陸間弾道ミサイル176基、戦略爆撃機44機です。戦術核約2,500発という数字もありますが、裏づけは一つの資料だけです。いずれも推計です。

同協会は「キーウはこれらの兵器の運用統制(operational control)を一度も持たなかった」と書いています。一方で、ウクライナ政府は1992年6月に「行政的統制」を宣言し、1993年には弾頭の所有権を主張しています。運用統制を持たなかったことは、何の権限もなかったことと同じではありません。

ウクライナは1994年12月5日、核不拡散条約に非核兵器国として加入しました。同じ日に署名されたのがブダペスト覚書です。署名したのはウクライナ、ロシア、英国、米国の四か国で、フランスは覚書の署名国ではありません(別個の一方的宣言を行っています)。覚書は六項目からなり、第1項でCSCE最終文書の原則に従ってウクライナの独立、主権、既存の国境を尊重する義務を確認し、第2項でウクライナの領土保全または政治的独立に対する武力による威嚇と行使を控えること、第3項で経済的圧力を控えること、第4項でウクライナが核兵器を用いた侵略の被害者となった場合に国連安全保障理事会の即時の行動を求めること、第6項で義務に関して疑義が生じた場合に協議を行うことを定めています。

この覚書がどの程度の重さを持つかは、評価の問題です。交渉に関与した元米外交官スティーヴン・パイファー氏(ブルッキングス研究所)は「ブダペスト覚書に含まれるのは security assurances であって security guarantees ではない。guarantees であればアメリカの軍事力の投入を含意し、それはNATO加盟国が持つものだ。米当局者は、それは提供されないと明確にしていた」と書いています。この記事は、地の文で「防衛保証ではない」と断定せず、この評価を同氏のものとして示します。

1990年代——物価、憲法、通貨

物価の上がり方は、指標によって二通りの書き方になります。ウクライナ国家統計局の消費者物価指数は、前年12月比で1992年が2100.0、1993年が10256.0(前年12月の約102倍)。同じ統計局の年平均(対前年同期)では1993年が4834.9です。世界銀行の公表値(1993年で4734.9パーセント)は、この年平均系列と一致します。どちらか一方だけを書くと誤解を招くので、両方示します。

生産も落ちました。世界銀行の実質GDP水準から計算すると、1999年のウクライナの実質GDPは1990年の40.8パーセントです(世界銀行自身が示している比率ではなく、公表値からの計算です)。プラス成長に戻るのは2000年です。民営化と経済権力の結びつきについては、フリーダムハウスの年次報告が、全国テレビが国有か、大統領・政府と近い「経済的オリガルヒ」に支配されていると書いています。これはこの団体の評価であり、統計上のカテゴリではありません。

1996年6月28日、最高会議は憲法を採択しました(第254к/96-ВР号)。第10条は「ウクライナにおける国語はウクライナ語である」と定めますが、同じ条文は続けて「ウクライナにおいては、ロシア語およびウクライナのその他の少数民族の言語の自由な発展、使用、保護が保障される」とも定めています。前半だけを書くと条文を歪めるので、両方書きます。なお「半大統領制」という語は憲法本文にはありません。

通貨改革は、1996年8月25日の大統領令第762/96号に基づき、9月2日から始まりました。9月16日24時をもってウクライナ・カルボヴァネツィの現金流通が終わり、以後の唯一の法定通貨がフリヴニャになります。交換比率は10万カルボヴァネツィに対して1フリヴニャでした。

1996年発行の100フリヴニャ紙幣の表面(見本=SPECIMEN)。タラス・シェウチェンコの肖像
1996年に発行された100フリヴニャ紙幣の見本。1996年9月の通貨改革で、それまでのカルボヴァネツィに代わる唯一の法定通貨になった 画像:ウクライナ国立銀行(National Bank of Ukraine)/Wikimedia Commons(パブリックドメイン(ウクライナ著作権法上の紙幣の適用除外)

選挙、報道、ゴンガゼ事件

1990年代の統治をどう評価するかは、評価した機関の名前とともに書きます。OSCE民主制度・人権事務所(ODIHR)は、1999年10月31日と11月14日のウクライナ大統領選挙について「OSCEの選挙関連のコミットメントのうち相当数を満たさなかった」とする最終報告を出しました。同報告は「国家行政機関と公務員が現職大統領のために、またその対立候補に反対して選挙運動を行うのが観察された」「国家機関によるこの選挙運動が広範、体系的で、全国的に調整されていたという明確な証拠を、選挙監視団は明らかにした」と書いています。

記者ヘオルヒー・ゴンガゼ氏は2000年9月16日に失踪し、11月2日にキーウ州タラシチャ近郊で首のない遺体が発見されました。身元の確認は長引き、2000年12月に検事総長が別人と発表し、2001年2月に一転して本人と確認、DNAによる最終確定は2003年3月です。欧州人権裁判所は2005年11月8日の判決(申立番号34056/02)で、ウクライナが欧州人権条約第2条(生命への権利、実体・手続の両面)、第3条、第13条に違反したと判断し、10万ユーロの支払いを命じました。元警察官3人が殺人で有罪となったのは2008年3月15日です。なお、クチマ大統領本人の関与は裁判所の認定ではありません。判決が引用しているのは、ウクライナ議会の特別委員会が2005年9月20日の報告で出した結論としてのものです。

この四本の記事は、1990年代までで終わります。2013年以降の経緯は、資料つきの年表として別に用意しています。

出典・参考資料

  1. Internet Encyclopedia of Ukraine「Famine of 1946–7」(執筆: Andrij Makuch, Vasyl Markus。旱魃と供出割当の据え置き、ソ連体制が飢饉を認めなかったこと、死者推計が10万人から100万人超まで幅があることを確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  2. Веселова О.М.「ГОЛОД 1946–1947 РОКІВ В УРСР」// Енциклопедія історії України, Т.2, 2004(100万人超という推計と、それが「きわめて不完全なデータによる」という留保を確認)
    発行:Інститут історії України НАН України 確認日:2026-09-23
  3. Internet Encyclopedia of Ukraine「Ukrainian Insurgent Army」(執筆: Petro Sodol。1949年9月3日のシュヘーヴィチによる部隊解体命令、1950年3月5日の死、ヴァスィリ・ククの指導下で1954年までという経過を確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  4. Бігун І.В., Кентій А.В.「УКРАЇНСЬКА ПОВСТАНСЬКА АРМІЯ (УПА)」// Енциклопедія історії України, 2019(1950年以降の活動低下と1954年のクク逮捕による組織的抵抗の終結、ソ連側統計について「蜂起側の損害は過大計上」という同誌自身の警告を確認)
    発行:Інститут історії України НАН України 確認日:2026-09-23
  5. Бажан О.Г.「ДЕПОРТАЦІЇ В РЕТРОСПЕКТИВІ УКРАЇНСЬКОЇ ІСТОРІЇ」// Енциклопедія історії України, Т.2, 2004(1944〜52年に西部諸州から203,662人が特別移住させられ、うちOUN・UPA関係者の家族が182,543人という数字を確認)
    発行:Інститут історії України НАН України 確認日:2026-09-23
  6. Internet Encyclopedia of Ukraine「Crimea」(1954年2月19日のソ連最高会議幹部会決定による移管、1956年4月28日の帰還禁止決定が1988年まで有効だったこと、1960年9月5日の名誉回復決定を確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  7. Mark Kramer「The Transfer of Crimea from Soviet Russia to Soviet Ukraine, 1954」(1954年1月25日のソ連共産党幹部会承認、2月5日・2月13日・2月19日の各文書とGARFの典拠番号、公表された二つの公式理由の逐語、「この二つの見かけ上の正当化はどちらも精査に耐えない」という評価、実際の動機の分析を確認。著者はハーバード大学冷戦研究プログラム所長)
    発行:Wilson Center 確認日:2026-09-23
  8. J. Gordon Hylton「Understanding the Constitutional Situation in Crimea」2014年3月16日(ソ連憲法上は関係住民の承認が必要だったが住民投票は行われなかったという主張、および1991年国民投票の有権者総数ベースでクリミア約37%・セヴァストポリ約40%という計算を確認。査読論文ではなくロースクール教員のブログ記事)
    発行:Marquette University Law School Faculty Blog 確認日:2026-09-23
  9. Договір між Українською Радянською Соціалістичною Республікою і Російською Радянською Федеративною Соціалістичною Республікою(1990年11月19日署名。第6条の領土的一体性の相互承認と、1997年条約により終了した旨の注記を原文で確認)
    発行:Верховна Рада України 確認日:2026-09-23
  10. Договір про дружбу, співробітництво і партнерство між Україною і Російською Федерацією(1997年5月31日キーウで署名、1998年1月14日批准。第2条の領土的一体性と国境の不可侵、および2018年12月6日の法律第2643-VIII号による終了の注記を原文で確認)
    発行:Верховна Рада України 確認日:2026-09-23
  11. Internet Encyclopedia of Ukraine「Shistdesiatnyky」(1950年代後半に書き始め1960年代初めに頂点、リナ・コステンコとヴァスィリ・スィモネンコ、1965〜72年の逮捕による終息を確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  12. Internet Encyclopedia of Ukraine「Dissident movement」(1965〜66年と1972年1〜4月の二度の逮捕の波、罪名、解雇・退学・立ち退きによる弾圧、リヴィウ大学での学生23人退学・講師27人解雇を確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  13. Internet Encyclopedia of Ukraine「Psychiatric hospitals, special」(内務省直轄で保安が医学的判断に優先したこと、政治目的での精神医学の濫用、ウクライナではドニプロペトロウシクに一つあったことを確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  14. Internet Encyclopedia of Ukraine「Ukrainian Helsinki Group」(執筆: Osyp Zinkevych。1976年11月9日キーウでの結成、創設者10名の氏名、1977年2月からの逮捕と7〜10年の刑を確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  15. Бажан О.Г.「УКРАЇНСЬКА ГРОМАДСЬКА ГРУПА СПРИЯННЯ ВИКОНАННЮ ГЕЛЬСІНСЬКИХ УГОД」// Енциклопедія історії України(1976年11月9日キーウでの結成と創設者名簿を確認。二つの資料で完全に一致)
    発行:Інститут історії України НАН України 確認日:2026-09-23
  16. Internet Encyclopedia of Ukraine「Russification」(執筆: Bohdan Kravtsiv, Volodymyr Kubijovyč。ウクライナ語学校比率85.3%(1955-6)→81.1%(1967-8)、1987年の首都・州都で16%、高等教育教科書168点(1970)→38点(1980)、ロシア語話者が享受した優位についての評価を確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  17. Chernobyl’s Legacy: Health, Environmental and Socio-Economic Impacts(The Chernobyl Forum: 2003–2005, 2nd revised version。1986年4月26日4号機、原子力産業史上もっとも深刻な事故、公表の遅れと選択的・制限的な情報提供、プリピャチ住民約50,000人が40時間以内に避難という記述を確認)
    発行:IAEA(IAEA・WHO・FAO・UNDP・UN-OCHA・UNSCEAR・世界銀行およびベラルーシ・ロシア・ウクライナ政府) 確認日:2026-09-23
  18. Convention on Early Notification of a Nuclear Accident(採択1986年9月26日ウィーン、発効1986年10月27日)
    発行:International Atomic Energy Agency 確認日:2026-09-23
  19. Convention on Assistance in the Case of a Nuclear Accident or Radiological Emergency(採択1986年9月26日、発効1987年2月26日。国連条約集の登録原文で、発効を成立させた三か国にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国(1987年1月26日)が含まれることを確認)
    発行:International Atomic Energy Agency / United Nations Treaty Series Vol.1457, No. I-24643 確認日:2026-09-23
  20. 1989 – відкрився Установчий з’їзд Народного руху України за перебудову(1989年9月8〜10日、キーウ工科大学での創立大会を確認)
    発行:Український інститут національної пам’яті 確認日:2026-09-23
  21. 1990 – символічний «ланцюг злуки»(1990年1月21日、正式には「リヴィウとキーウの間」だが本体の起点はストリー市で、イヴァーノ=フランキーウシク方面とザカルパッチャ方面へ分岐、全長約700km、参加者40万〜300万人という推計の幅を確認)
    発行:Український інститут національної пам’яті 確認日:2026-09-23
  22. Internet Encyclopedia of Ukraine「Popular Movement of Ukraine」(1990年1月21日の人間の鎖、キーウからリヴィウ、さらにイヴァーノ=フランキーウシクまで500kmという記述を確認。距離が上記と食い違う)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  23. Декларація про державний суверенітет України(1990年7月16日採択、文書番号55-XII。第9節の三つの非核原則を原文で確認)
    発行:Верховна Рада України 確認日:2026-09-23
  24. Акт проголошення незалежності України / Постанова Верховної Ради Української РСР(1991年8月24日、文書番号1427-XII。同じ決議が12月1日の国民投票を定めていることを原文で確認)
    発行:Верховна Рада України 確認日:2026-09-23
  25. Chrystyna Lapychak 他, The Ukrainian Weekly, Vol. LIX, No.49, 1991年12月8日(賛成90.32%・投票率84.16%、および27の行政単位別の数字——クリミア自治共和国54.19、セヴァストポリ市57.07、キーウ市92.87——を、1面の地図とその「これらの公式結果は12月3日水曜に中央選挙委員会から受領した」という注記で確認)
    発行:Ukrainian National Association 確認日:2026-09-23
  26. Internet Encyclopedia of Ukraine「Kravchuk, Leonid」(1991年12月1日の大統領選での当選、国民投票の賛成90.3%を確認)
    発行:Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta 確認日:2026-09-23
  27. Угода про створення Співдружності Незалежних Держав(1991年12月8日署名。「ソ連は国際法の主体としても地政学的現実としても存続を終える」という文言、第1条、署名地を「ミンスク市」とする記載、署名者が三国であることを原文で確認)
    発行:Верховна Рада України 確認日:2026-09-23
  28. Ukraine, Nuclear Weapons, and Security Assurances at a Glance(戦略核弾頭約1,900発・ICBM176基・戦略爆撃機44機という推計、1994年12月5日のNPT非核兵器国としての加入を確認)
    発行:Arms Control Association 確認日:2026-09-23
  29. The Lisbon Protocol At a Glance(「運用統制を一度も持たなかった」、1992年6月の行政的統制の宣言と1993年の所有権主張を確認)
    発行:Arms Control Association 確認日:2026-09-23
  30. Меморандум про гарантії безпеки у зв’язку з приєднанням України до Договору про нерозповсюдження ядерної зброї(1994年12月5日ブダペスト。署名国がウクライナ・ロシア・英国・米国の四か国であること、六項目の内容を、ウクライナ語正文で確認)
    発行:Верховна Рада України 確認日:2026-09-23
  31. Steven Pifer「Why care about Ukraine and the Budapest Memorandum」2019年12月5日(security assurances と security guarantees の区別、米軍投入の約束は提供されなかったという記述を確認)
    発行:Brookings Institution 確認日:2026-09-23
  32. Індекси споживчих цін у 1992-2024 роках(前年12月比:1992年2100.0、1993年10256.0。年平均:1993年4834.9。統計ファイルの全セルを確認)
    発行:Державна служба статистики України 確認日:2026-09-23
  33. World Development Indicators(消費者物価上昇率1993年=4734.914%が国家統計局の年平均系列と一致すること、実質GDP水準から1999年が1990年の40.8%と計算されることを確認)
    発行:World Bank 確認日:2026-09-23
  34. Freedom in the World 2004(全国テレビが国有か、大統領・政府と近い「経済的オリガルヒ」に支配されているという記述を確認)
    発行:Freedom House 確認日:2026-09-23
  35. Конституція України від 28.06.1996 № 254к/96-ВР(第10条の全文——国語としてのウクライナ語と、ロシア語その他の少数民族語の自由な発展・使用・保護の保障——を原文で確認。現行の統合テキスト)
    発行:Верховна Рада України 確認日:2026-09-23
  36. Указ Президента України «Про грошову реформу в Україні» від 25.08.1996 № 762/96(9月2日からの実施、9月16日24時でのカルボヴァネツィの現金流通終了、10万対1の交換比率を原文で確認)
    発行:Верховна Рада України(大統領令) 確認日:2026-09-23
  37. Ukraine Presidential Elections 31 October and 14 November 1999: Final Report(2000年3月7日、Amended Version。「OSCEの選挙関連コミットメントのうち相当数を満たさなかった」、国家行政機関による選挙運動が広範・体系的・全国的に調整されていたという記述を確認)
    発行:OSCE Office for Democratic Institutions and Human Rights 確認日:2026-09-23
  38. CASE OF GONGADZE v. UKRAINE (Application no. 34056/02), Judgment, 8 November 2005(失踪2000年9月16日、遺体発見2000年11月2日タラシチャ近郊、身元確認の経緯、第2条・第3条・第13条違反の認定と10万ユーロの支払い命令、クチマ大統領の関与が議会特別委員会2005年9月20日報告の結論として引用されているにとどまることを、判決全文で確認)
    発行:European Court of Human Rights 確認日:2026-09-23
  39. Interim Resolution CM/ResDH(2008)35(2008年3月15日に元警察官3人が殺人で有罪判決を受けたことを確認)
    発行:Committee of Ministers, Council of Europe 確認日:2026-09-23

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