ハルキウが生まれた1654年、日本は承応3年
ハルキウの始まりは、ふつう1654年とされます。草原のはずれに移り住んだコサックが川の合流点に砦を築き、町はやがてコサックの連隊の中心になりました。同じ年、江戸では玉川上水が通じ、長崎には隠元が着いています。二つの土地の出来事を一つの年表に並べ、「1654年」が何を数えた年なのかも資料ごとに見ていきます。
オリュカのひとこと
ハルキウが生まれたころ、日本ではどんな時代だったのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
ハルキウ(Харків)の始まりは、ふつう1654年とされます。この年、日本は承応3年でした。江戸では多摩川の水を引く玉川上水が江戸城の虎の門まで通り、長崎には明から来た禅僧の隠元が着いています。
二つの土地の間に行き来があったわけではありません。ここでは、草原のはずれに人が移り住み、川の合流点に砦ができて、やがてコサックの連隊の町になるまでを、同じ年月の日本の出来事と一つの年表に並べます。あわせて、「1654年」という数字が何を指しているのかも、資料ごとに見ていきます。
草原のはずれに移り住んだ人たち
いまのハルキウのあたりは、13世紀から17世紀にかけて、クマン(ポロヴェツ)やタタールが行き来する草原でした。アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の『Internet Encyclopedia of Ukraine』(以下、IEU)の「Kharkiv」の項(2006年更新)によれば、17世紀の初めからこの土地は形の上ではモスクワ国家に属し、クリミア・タタールやノガイ・タタールに備える防衛線が築かれました。そこに住みついたのは主にウクライナのコサックで、農奴を置かない村(スロボダ、複数形スロボディ)が生まれます。「スロボダ・ウクライナ」(スロボジャンシチナ)という地域の名前はここから来ています。
移り住む人の波は、ウクライナ側の戦乱と重なっていました。IEU の「Slobidska Ukraine」の項(紙の事典の第4巻、1993年が初出)は、1630年代にはコサックの蜂起が失敗したあとに移住が増え、1638年にはヘーチマンのヤキウ・オストリャニンに率いられたおよそ1,000人がチュフイウの近くに住みついたと書いています。1648年に始まるフメリニツキーの蜂起のあと、とくに1651年のビーラ・ツェルクヴァの条約のあとに移住はさらに増え、1652年にはチェルニーヒウとニジンの連隊のコサック約2,000人がオストロホージクを築きました。同じ項目は、同じような人の流れが「1654年にハルキウを築いた」と続けています。
ハルキウ市議会の公式サイトの「歴史の概要」も、町を築いたのは、ポーランドの領主のもとでの民族・宗教・社会的な圧迫を逃れて、ドニプロ川の流域とウクライナの西部から移ってきたコサックと農民だったと書いています。スロボダ・ウクライナの範囲と、この地方に置かれた五つの連隊については、ガリツィア、ポディッリャ、スロボジャンシチナの記事で扱っています。
二つの川が合わさる台地の砦
町ができたのは、ハルキウ川とロパニ川が合わさるところの台地です。IEU の「Kharkiv」の項によれば、イヴァン・カルカチに率いられたウクライナのコサックがここに防備を固めた集落をつくり、砦は1659年に完成しました。形の上ではモスクワ国家の軍政官(ヴォイェヴォダ)の管轄に置かれましたが、コサックは「チェルカースィの慣習」に従って自分たちで治めることを認められ、自由に住み、商いをする権利を、ピョートル1世の時代まで保ったといいます。1655年の人口はおよそ2,000人で、そのうち約600人がコサックでした。
ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』(以下、歴史研究所の事典。第10巻、2013年、ヴォロディーミル・マスリーチューク執筆)の「ハルキウ」の項は、少し違う書き方をしています。町は1650年代にスロボダ・ウクライナへ移った人々によって築かれ、1654年から人が住み続けている集落で、最初に知られる頭領(オタマン)はイヴァン・クルィヴォシルィク。砦は1655〜56年に建てられ、1656年に軍政官による統治が始まって、最初の軍政官はヴォイン・セリフォントフだった、という説明です。
市のサイトは、最初の砦は「チェルカースィの(つまりウクライナの)慣習」で建てられたと書き、1656年に皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチがハルキウを独立した軍政区とする勅令を出したこと、砦は二つの川の合流点にあって塔が10、壁の長さは1キロメートルを超えたことを挙げています。1657年の軍政官セリフォントフの報告と1658年の住民の名簿からは、ハルキウがすでにかなり大きな集落だったことが分かり、名簿には男性578人が載っていた、とも書いています。
オリュカ
ハルキウの始まりの年は、資料によって違うのかな。
スウネ
資料ごとの年の置き方と人の名前が、この見出しの下に並んでいるよ。
タブリ
砦ができるまでの流れは、すぐ前の見出しに戻るとたどれるよ。
「1654年」は何を数えているのか
同じ町の始まりでも、資料によって年の置き方と人の名前が違います。
- IEU の「Kharkiv」の項は、広く受け入れられている創設の年を「1654/5年」とし、砦の完成を1659年、集落を築いた一団の長をイヴァン・カルカチとしている
- 同じ IEU でも「Slobidska Ukraine」の項は「1654年」と一つの年で書いている
- 歴史研究所の事典は、築かれたのを「1650年代」とし、1654年は「人が住み続けている集落」になった年としている。砦は1655〜56年、最初の頭領はイヴァン・クルィヴォシルィク
- 市のサイトの「歴史の概要」は、創設の年を一つに決めて書いていない。ハルキウに触れた最も古い文書として挙げているのは、1656年3月28日付で、チュフイウの軍政官にハルキウの防備の建設を命じた皇帝の勅令である
1654年は、人が住みついた年として事典が挙げる数字で、紙に残るいちばん古い日付は、市のサイトによれば1656年です。どちらかが誤りというより、何をもって「町の始まり」とするかが違います。
1654年より前の「ハルキウ」
「ハルキウ」という名前そのものは、町より先に記録に現れます。市のサイトによれば、ハルキウ川の名前が最初に出てくるのは、1627年にまとめられた『大図の書』(Книга Большому чертежу)です。歴史研究所の事典の同じ名前の項目によれば、これはモスクワ国家の軍務の役所で、失われた二枚の地図の説明として編まれた地理の手引きで、およそ2,000の地名を含んでいます。
IEU の「Kharkiv」の項は、17世紀の半ばまでに、いまのハルキウの近くにすでにいくつかの集落があったと書いています。さらに古い時代について、市のサイトは、8世紀にスラヴの人々がこの地に集落を築き、10世紀には「ドネツ」という町として知られていたこと、年代記にドネツが最初に出てくるのが1185年であることを挙げています。この年の遠征は、『イーゴリ遠征物語』の記事で扱っています。ただ、ドネツは13世紀半ばに壊されたとされ、1654年の町とは続いていません。
オリュカ
ハルキウという名前は、どこから来たのだろう。
ヨリクネ
川の名前、町の名前、人の名前からという説が、この見出しの下に並んでいるよ。
スウネ
川の名前そのものの由来についての市のサイトの見方は、この節の終わりにあるよ。
町の名前はどこから来たのか
名前の由来にも、いくつかの説があります。
- 川の名前から:IEU は「おそらくハルキウ川に由来する」とし、市のサイトも専門家の多くがこの説をとると書いている
- クマンの町シャルカンから:IEU はロシアの歴史家アリストフの説として、市のサイトは「一部の歴史家」の説として挙げている
- 人の名前から:IEU は「民間の言い伝え」として、コサックのハルコにちなむという話を紹介している。市のサイトは、17世紀半ばの最初の移住者の頭ハルコ(ハルィトン)の名とする説として書いている
市のサイトは、川の名前ハルキウそのものの由来は「いまも地名の謎のまま」だとしています。
オリュカのひとこと
二つの国の出来事を、並べて見られるようです。この年表で確かめられます。
年表:ハルキウの始まりと、承応・明暦の日本
| 年 | ハルキウとスロボダ・ウクライナ | 日本 |
|---|---|---|
| 1627年 | 『大図の書』がまとめられ、ハルキウ川の名が記される(市のサイト) | 寛永4年 |
| 1638年 | オストリャニンに率いられた約1,000人がチュフイウの近くに住みつく(IEU) | 寛永15年 |
| 1651年 | ビーラ・ツェルクヴァの条約のあと、スロボダへの移住が増える(IEU) | 慶安4年8月18日、徳川家綱が4代将軍となる |
| 1652年 | コサック約2,000人がオストロホージクを築く(IEU) | 慶安5年9月18日、承応に改元。承応の変 |
| 1653年 | — | 承応2年、玉川上水の工事が始まる |
| 1654年 | 移住者の一団がハルキウを築く(IEU)。人が住み続ける集落になる(歴史研究所の事典)。1月、ペレヤスラウでモスクワ国家との交渉が始まる | 承応3年。玉川上水が江戸城の虎の門まで通じる。7月5日、隠元が長崎に着く。後光明天皇が亡くなる |
| 1655年 | 人口およそ2,000人、うちコサック約600人(IEU) | 承応4年4月13日、明暦に改元 |
| 1655〜56年 | 砦が建てられる(歴史研究所の事典) | 明暦元〜2年 |
| 1656年 | 3月28日、チュフイウの軍政官にハルキウの防備の建設を命じる勅令(市のサイト)。軍政官による統治が始まり、最初の軍政官はセリフォントフ(歴史研究所の事典) | 明暦2年 |
| 1657年 | セリフォントフの報告(市のサイト) | 明暦3年1月18日から、江戸で明暦の大火 |
| 1658年 | 住民の名簿に男性578人(市のサイト) | 明暦4年7月23日、万治に改元。定火消が置かれる |
| 1659年 | 砦が完成する(IEU)。以後1765年まで、ハルキウ連隊の中心の町となる(IEU) | 万治2年 |
| 1660年 | ハルキウ連隊の名が初めて記録に現れる。連隊長はオスタプ・ヴォロパイ(歴史研究所の事典) | 万治3年 |
年表の月日は、それぞれの資料の書き方のままです。当時のモスクワ国家はユリウス暦(旧暦)を使い、日本は太陰太陽暦の和暦を使っていたので、同じ「1月」でも同じ季節を指すとは限りません。ペレヤスラウの交渉と、その後のモスクワ国家との関係については、シーチが築かれてから壊されるまでの220年の記事と、コサックの自治が終わるまでの記事にあります。
日本側の1654年には、この町と同じく「水」と「人の移動」に関わる出来事が並びます。『山川 日本史小辞典』によれば、玉川上水は1653年に工事が始まり、翌年に完成しました。『改訂新版 世界大百科事典』(竹貫元勝執筆)によれば、隠元は承応3年7月5日、長崎の興福寺の僧らの招きに応じ、弟子20人余りを連れて来日しています。
砦から、連隊の町へ
コサックの暮らしの中心は砦の中ではありませんでした。IEU によれば、17世紀の残りから18世紀の大半まで、ハルキウは守りの前線の拠点で、砦の中にはロシアの守備隊と職人・商人が住み、コサックの多くは近くに広がるスロボディで畑を耕し、魚をとり、蜂を飼い、物々交換をしていました。1660〜62年には、軍政官の館や教会のある新しい城塞が築かれています。
町はやがて、スロボダ・ウクライナのコサックの連隊の中心になります。IEU の「Kharkiv regiment」の項(紙の事典の第2巻、1988年が初出)によれば、ハルキウ連隊は1659〜60年に右岸と左岸のウクライナから来たコサックと農民でつくられ、1685年にはそこからイジューム連隊が分かれました。歴史研究所の事典は、1660〜65年のハルキウをスロボダのコサック連隊の行政の中心としています。連隊の制度は1765年にロシア政府によって廃止され、ハルキウは新しくできたスロボダ・ウクライナ県の中心になりました(IEU、歴史研究所の事典)。
その後の町の歩みは、1805年に開いたハルキウ大学の記事、クヴィトカ=オスノヴヤネンコの記事、ソ連ウクライナの首都だったハルキウの記事で読むことができます。川の合流点の砦から、2世紀足らずで大学のある県都になるまでの間に、町の担い手は移住してきたコサックから、帝国の役人と商人へと移っていきました。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Kharkiv名前の由来の三つの説、17世紀初めからモスクワ国家に属したこと、防衛線とスロボディ、1654/5年とカルカチ、1659年の砦の完成、「チェルケスの慣習」による自治、1655年の人口約2,000人・コサック約600人、1659〜1765年の連隊の中心、1660〜62年の城塞、1765年以降の県。2006年更新
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所) 確認日:2026-09-27 - Slobidska Ukraine1630年代の移住、1638年のオストリャニン、1651年のビーラ・ツェルクヴァの条約のあとの移住、1652年のオストロホージク、「1654年にハルキウを築いた」、1650年代の連隊。紙の事典の第4巻、1993年
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Kharkiv regiment1659〜60年の編成、1685年のイジューム連隊の分離、1765年の廃止。紙の事典の第2巻、1988年
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - ХАРКІВ1650年代の創設、1654年からの定住、最初の頭領クルィヴォシルィク、1655〜56年の砦、1656年の軍政官セリフォントフ、1660年の連隊とヴォロパイ、1660〜65年の行政の中心、1765年の県。執筆 Маслійчук В.Л.、第10巻 2013年
発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-27 - КНИГА БОЛЬШОМУ ЧЕРТЕЖУ1627年に軍務の役所でまとめられたこと、約2,000の地名
発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-27 - Історичний нарис創設者、「チェルケスの慣習」の砦、1656年の勅令と軍政区、1656年3月28日の勅令、1657年の報告と1658年の名簿の男性578人、名前の由来の説、1627年の『大図の書』、ドネツと1185年。2023年3月20日のウェブアーカイブの保存版で確認
発行:Харківська міська рада(ハルキウ市議会の公式サイト) 確認日:2026-09-27 - Pereiaslav Treaty of 16541654年1月のペレヤスラウでの交渉開始
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - 承応(1652年〔慶安5〕9月18日改元、承応の変、1654年の後光明天皇の崩御)、明暦1655年〔承応4〕4月13日改元、1657年1月18日から20日の大火
発行:日本の元号がわかる事典(講談社。コトバンク所収) 確認日:2026-09-27 - 明暦明暦4年7月23日に万治に改元
発行:精選版 日本国語大辞典(小学館。コトバンク所収) 確認日:2026-09-27 - 徳川家綱(在職1651年8月18日から)、玉川上水1653年〔承応2〕着手、翌年完成
発行:山川 日本史小辞典 改訂新版(山川出版社。コトバンク所収) 確認日:2026-09-27 - 玉川上水
発行:山川 日本史小辞典 改訂新版・改訂新版 世界大百科事典(コトバンク所収) 確認日:2026-09-27 - 隠元1654年〔承応3〕7月5日の来日、弟子20人余り。執筆 竹貫元勝
発行:改訂新版 世界大百科事典(平凡社。コトバンク所収) 確認日:2026-09-27 - 明暦の大火1657年、翌年の定火消。執筆 池上彰彦
発行:改訂新版 世界大百科事典(平凡社。コトバンク所収) 確認日:2026-09-27
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