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文化・歴史/解説

「マルーシャ」とハルキウの劇場。クヴィトカ=オスノヴヤネンコ

1834年の『小ロシアの物語』に収められた「マルーシャ」などの物語は、ウクライナ語でまじめな題材が書けることを示したと事典は説明します。作者のクヴィトカ=オスノヴヤネンコは、ハルキウで劇場の支配人も務めた地主でした。生涯と作品の年、ゴーゴリ『検察官』との関係をめぐる説を、二つの事典から見ます。

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オリュカのひとこと

「近代ウクライナ散文の父」とは、誰の言い方なのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

1834年、「グルィツコ・オスノヴヤネンコ」という名前で、短い物語を集めた本が出ました。題は『小ロシアの物語』。この本に収めた「マルーシャ」などの物語で、作者はウクライナ語の散文が笑い話だけでなく、まじめな題材も書けることを示した、と事典は説明しています。

書いたのは、ハルキウの郊外に生まれ、ハルキウで暮らした地主のフルィホリー・クヴィトカ=オスノヴヤネンコ(Григорій Квітка-Основ’яненко、1778〜1843年)です。町の劇場を任され、慈善の団体や学校の設立にも関わりました。以下は、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)と、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(以下ЕІУ)による内容です(2026年9月時点)。二つの事典で年が違うところは、両方を示します。

オスノヴァの家に生まれて

ЕІУによれば、本当の姓はクヴィトカで、「グルィツコ・オスノヴヤネンコ」は筆名です。生まれは1778年11月29日(ロシア帝国で使われていた暦では18日)、場所はオスノヴァという小さな集落で、いまはハルキウ市の中に入っています。コサックの士官層の家の出で、おじのイッリャ・クヴィトカは、スロボダ・ウクライナの歴史を調べた人でした。

若いころ、ハルキウ近くのクリャジ修道院に見習いの修道士として入り、のちに世俗の暮らしに戻りました。その期間は、IEUが23歳から10か月、ЕІУがおよそ4年と書いていて、事典によって違います。IEUは、信仰の深さは生涯変わらず、作品にもそれが表れているとしています。

ハルキウで任されたこと

IEUの「Kharkiv」の項目によれば、ウクライナで最初の職業劇団は、1789年にハルキウでできました。1812年、クヴィトカの発意でハルキウの劇場が設けられ、彼が最初の支配人になります(IEU)。IEUの同じ項目は、支配人を務めたのを1812年から1818年とし、自分の劇もそこで上演したと書いています。コトリャレウシキーの劇『ナタルカ・ポルタウカ』が初めて上演されたのも、1821年のハルキウでした。コトリャレウシキーについてはコトリャレウシキー『エネイーダ』の記事で扱っています。

劇場のほかにも、二つの事典は町での役目を多く挙げています。

  • 1812年、貧しい子どもを助ける慈善の団体をつくり、率いた(IEU・ЕІУ)
  • 1812年、貴族の娘のための学校(女学院)の設立に関わった(ЕІУは設立者の一人、IEUは後援者とする)
  • 1816〜1817年、ハルキウで雑誌『ウクライナ通報』(Украинский вестник)を仲間と出した(ЕІУ)
  • 郡の貴族団長(IEUは1816〜1828年、ЕІУは1817〜1828年)、ハルキウの刑事裁判所の長(IEUは1840〜1843年)
  • 1838年、ハルキウの公共図書館の設立に関わった(ЕІУ。IEUは、町で最初の公共の蔵書の管理者だったとする)

ЕІУは、ハルキウ大学にあった学術の協会の会員に選ばれたことも挙げています。大学についてはハルキウのカラジン大学で扱っています。

年表

二つの事典に出てくる年を並べます。年が一致しないものは、両方を書きました。

年出来事IEUЕІУ
1778年オスノヴァに生まれる11月29日11月29日(旧暦18日)
1812年ハルキウの劇場の支配人に。慈善の団体、女学院○○
1816〜1828年ごろ郡の貴族団長1816〜1828年1817〜1828年
1822年ロシア語の『小ロシアの小話』を刊行1820〜1822年に書き、1822年に刊行—
1833年ウクライナ語の最初の短い物語「兵士の肖像」○—
1834年・1837年『小ロシアの物語』2巻(「マルーシャ」を収める)1834年・1837年1834〜1837年
1835〜1836年喜劇『ホンチャリウカの縁談』1836年1835年に書く
1837〜1838年喜劇『従卒シェリメンコ』1837年1838年
1839〜1840年ロシア語の長編『ハリャウシキー氏』1839年1839〜1840年
1840年ロシア語の喜劇『首都からの客、あるいは郡の町の騒ぎ』1840年—
1843年ハルキウで亡くなる8月20日8月20日(旧暦8日)
IEU「Kvitka-Osnovianenko, Hryhorii」(1988年の紙版の再録)「Kharkiv」、ЕІУ「КВІТКА-ОСНОВ’ЯНЕНКО Григорій Федорович」(2007年)による。「○」はその事典に同じ年の記述があること、「—」は記述がないこと。

ロシア語で書き始め、ウクライナ語へ

IEUによれば、書き始めたのは遅く、はじめはロシア語でした。1822年に出た『小ロシアの小話』はロシア語です。最初はコトリャレウシキーの流れをくむ戯作、つまりウクライナ語で書くことを楽しい遊びとみる書き方で、1833年の「兵士の肖像」もそうでした。IEUはこの作品を、ウクライナ語で書いた彼の最初の短い物語であり、近代ウクライナ文学で最初の短い物語だとしています。

IEUが「はるかに重要」とするのが、1834年と1837年に2巻で出た『小ロシアの物語』です。「マルーシャ」「哀れなオクサーナ」「まことの愛」「神の子たち」「転がり草」などを収め、ここで彼は笑い話や戯作を離れ、ウクライナ語がまじめな題材にも使えることを示した、というのがIEUの説明です。一方でIEUの「Prose」の項目は、19世紀の前半にはクヴィトカ、フレビンカ、ゴーゴリ、クリシ、シェウチェンコといった書き手の多くが散文をロシア語で書いており、散文の言葉としてウクライナ語をはっきり選ぶようになるのは世紀の後半だと書いています。クヴィトカ自身も、ロシア語の長編『ハリャウシキー氏』を残しました。

  1. オリュカ

    『小ロシア』という呼び方は、いまも使われている名前なのかな。

  2. タブリ

    昔の呼び名といまの呼び名の違いは、この見出しの下で確かめられるよ。

  3. ヨリクネ

    ハルキウがあった地域の名前も、記事の終わりのリンク先で読めるよ。

昔の呼び名「小ロシア」、いまの呼び名「ウクライナ」

『小ロシアの物語』の原題は、ロシア語の『Малороссийские повести』です。「小ロシア」は、ロシア帝国がウクライナの地を指して使った呼び名で、この記事では書名としてだけそのまま訳しています。ЕІУは、おじのイッリャ・クヴィトカが「小ロシア」(ドニプロ川の左岸)と「ウクライナ」(右岸)を分けて書こうとしたことを紹介していて、当時この二つの語が指す範囲も一定ではありませんでした。書名以外の本文では、いまの呼び名のウクライナを使っています。

「マルーシャ」は感傷主義の作品か

IEUの「Sentimentalism」の項目は、ウクライナ文学の感傷主義が最もはっきり表れているのがクヴィトカの物語だとし、「マルーシャ」「まことの愛」「哀れなオクサーナ」を例に挙げます。そのうえで、オレクサンドル・ドロシケヴィチ、アハピー・シャムライ、ムィコラ・ゼロウはその感傷主義を学校の文学と民衆の口承文学の影響とみた一方、ドミトロ・チジェウシキーは、感傷主義はウクライナ文学では目立たなかったと論じた、と両方の見方を紹介しています。

「近代ウクライナ散文の父」は誰の言い方か

IEUは、『小ロシアの物語』がその後のウクライナ文学に大きな影響を与え、作者に「ウクライナ散文の父」という名誉ある呼び名をもたらしたと書いています。ЕІУも、彼を「新しいウクライナ文学の芸術散文の創始者」と書き、IEUの「Prose」の項目は「近代ウクライナ散文の最初の大きな書き手」としています。三つとも同じ方向の評価ですが、この呼び名を誰がいつ最初に使ったのかは、どの項目も書いていません。

オリュカのひとこと

二つの作品の関係は、どう説明されているのでしょう。この見出しで確かめられます。

喜劇とゴーゴリの『検察官』

IEUは、劇作家としての人気は、ウクライナ語の喜劇『ホンチャリウカの縁談』と、二つの「シェリメンコ」もの(『郡の書記シェリメンコ』『従卒シェリメンコ』)によるものだとしています。IEUの「Drama」の項目は、これらを古典主義の劇の例に数えています。

『首都からの客』は『検察官』の先駆けか

クヴィトカはロシア語の喜劇も書きました。そのひとつ『首都からの客、あるいは郡の町の騒ぎ』について、IEUのクヴィトカの項目は「一部の批評家は、ニコライ・ゴーゴリの『検察官』の先駆けとみている」と書き、年を1840年としています。

ただし、同じIEUのゴーゴリの項目では、『検察官』は1835年に書かれ、1836年に上演されたとされています。さらにこの項目は、ゴーゴリの作品がクヴィトカ、クリシ、ストロジェンコらに「しばしば模倣された」と、逆の向きの影響を書いています。ЕІУのゴーゴリの項目は、ゴーゴリをロシア文学の写実主義の創始者の一人とし、クヴィトカ=オスノヴヤネンコの仕事もそれとつながっているとだけ書いています。

『首都からの客』がいつ書かれたのか、刊行や上演より前に書かれていたのかは、この二つの事典からはわかりません。どちらが先で、どちらがどちらに影響したのかは、この記事では決めていません。

名前が残ったもの

ЕІУによれば、作品はポーランド語とブルガリア語に訳され、1854年にはパリで「哀れなオクサーナ」のフランス語訳が出ました。IEUの「Kharkiv」の項目は、1906年から1916年まで、ハルキウで彼の名前を冠した「クヴィトカ=オスノヴヤネンコ・ウクライナ・クラブ」(のちの啓蒙協会プロスヴィタ)が活動したと書いています。ハルキウとスロボダ・ウクライナの歴史についての文章も残しており、IEUによれば多くは雑誌『同時代人』に載りました。スロボダ・ウクライナという地域の名前については州の名前とは別の地域名で扱っています。

出典と記事の記録出典 9件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Kvitka-Osnovianenko, Hryhorii生没年月日と場所、修道院、1812年の劇場と慈善の団体、女学院、貴族団長、刑事裁判所、作品と年、「ウクライナ散文の父」、『首都からの客』と『検察官』。執筆 Ivan Koshelivets、紙版は1988年の第2巻
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  2. Kharkiv1789年の職業劇団、1812〜1818年の劇場の支配人、1821年の『ナタルカ・ポルタウカ』、1906〜1916年のクラブ、1816〜1819年の『ウクライナ通報』
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  3. Sentimentalismクヴィトカの物語と感傷主義、ドロシケヴィチ・シャムライ・ゼロウとチジェウシキーの見方。紙版は1993年の第4巻
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  4. Prose19世紀前半の散文の言語、「近代ウクライナ散文の最初の大きな書き手」
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  5. Dramaクヴィトカの喜劇を古典主義の劇の例とすること
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  6. Gogol, Nikolai『検察官』の1835年と1836年、クヴィトカらがゴーゴリを模倣したという記述
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  7. КВІТКА-ОСНОВ'ЯНЕНКО Григорій Федорович本名と筆名、生没年月日(新旧暦)、修道院、劇場・女学院・慈善の団体・公共図書館、貴族団長、『ウクライナ通報』、作品と年、翻訳。執筆 Л. Ф. Шепель、第4巻、2007年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  8. КВІТКА Ілля Івановичおじであること、オスノヴァ、「小ロシア」と「ウクライナ」の書き分け。第4巻、2007年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  9. ГОГОЛЬ Микола Васильович写実主義とクヴィトカ=オスノヴヤネンコらとのつながり。第2巻、2004年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27

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