1740年、メジビージに招かれた治療師。バアル・シェム・トーヴとハシディズム
ユダヤ教の信仰運動ハシディズムは、18世紀のポディッリャ地方で、治療師バアル・シェム・トーヴのまわりから生まれました。1740年から暮らした町メジビージ、禁欲ではなく喜びを説いた教え、弟子たちが広げた運動、ひ孫でウマニに眠るブラツラウのナフマンまでを、二つの事典の記述でたどります。
オリュカのひとこと
バアル・シェム・トーヴは、いつ生まれた人なのでしょう。事典ごとに違う書き方を最初の節で見比べられます。
ユダヤ教の信仰運動ハシディズムは、18世紀、当時のポーランド・リトアニア共和国の南東部、ポディッリャ地方で生まれました。運動の源とされるのが、イスラエル・ベン・エリエゼル、通称バアル・シェム・トーヴ(「よき御名の主」)です。略して「ベシュト」とも呼ばれます。治療師として知られ、1740年からは、いまのフメリニツキー州にある町メジビージで暮らしました。
IEUによれば、19世紀半ばにはウクライナのユダヤ人の多くがハシディズムに属するようになり、のちにハシディズムの人々はウクライナからパレスチナやアメリカ合衆国へも移り住みました。以下は、アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所の Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU)と、YIVOユダヤ研究所の YIVO Encyclopedia of Jews in Eastern Europe の記述によります。ポディッリャという地域の広がりは州の名前とは別の地域名の記事にあります。
生まれた年は1698年とも1700年とも
バアル・シェム・トーヴの生年は確定していません。YIVOの人物の項目(モシェ・ロスマン執筆)は「1700年ごろ」、同じ事典のハシディズムの歴史の項目(ダヴィド・アサフ執筆)は「1698年または1700年」、IEUは「1700年」と書いています。亡くなったのは1760年で、三つの記述とも同じです。
YIVOによれば、生まれたのはオコピという小さな町で、当時ポーランド・リトアニア共和国の南の国境に近い軍の拠点だった場所です。若いころはポディッリャのいくつかの町で暮らし、儀礼にかなった屠畜をする人、子どもの教師、割礼をする人などの仕事をしたとみられています。タルムードの学者ではありませんでしたが、ラビの文献に通じ、カバラー(ユダヤ神秘主義)を学び、薬草の知識はユダヤ人でない人からも学んだとされます。
1730年代のどこかで、彼は「バアル・シェム」あるいは「バアル・シェム・トーヴ」という呼び名を使い始めました。神の名を扱って人を助けることのできる者、という意味で、病気を治し、人々の暮らしの困りごとを天と地の間に立って解こうとする治療師の肩書きでした。ポーランド語の記録には「バアル・シェム医師」と書いたものもあります。
メジビージの20年
治療師としての評判を聞いたメジビージのユダヤ人共同体の長老たちは、彼を町に招き、家賃も税もかからない家を与えました。YIVOによれば、1740年のことです。メジビージは当時、チャルトリスキ家が所有する、この地方の軍事・行政・交易の中心で、豊かな商人の家族が共同体を率いていました。バアル・シェム・トーヴはここで、共同体に置かれるカバラーの専門家として、お守りを書き、治療を施し、学びの家(ベート・ミドラーシュ)で神秘主義を学ぶ仲間を導きました。
IEUのメジビージの項目によれば、この町は1146年の年のもとでイパーチー年代記に初めて名が出てきます。1593年にマクデブルク法の都市の権利を得て、17世紀には文化の中心の一つになり、1793年にロシア帝国の領土に移ったあと衰えました。石造りの城、16世紀の生神女就寝聖堂とローマ・カトリックの聖三位一体教会などの建物が残っています。
何を教えたのか
YIVOの項目は、バアル・シェム・トーヴの教えの中心を、神との一体(デヴェクート)にあるとしています。すべての被造物に神がいるのだから、食べること、働くことといった物質的な営みも神に仕える道になりうる。祈りの言葉の一つひとつの文字に心を集め、恍惚のうちに祈ることで、神の光がこの世に降りてくる。そして、神に近づく道は断食や自分の体を苦しめる禁欲ではなく、戒律を守り、学び、祈ることの喜びにある、と説きました。
二つの事典は、ハシディズムの性格の描き方が少し違います。IEUは、ハシディズムを既存の正統派ユダヤ教の教条的・儀礼的な形式主義に対抗して生まれた運動とし、社会の改革を説いて、とくにユダヤ社会の下層の人々を引きつけた民衆運動だったと書いています。YIVOのロスマンは、バアル・シェム・トーヴ自身は、学のない大衆に向けた新しい運動を始めると宣言したことはなく、戒律を厳しく守ることもトーラーの学びも軽んじなかった、新しい組織もつくらなかった、と書きます。彼が「ハシディズムの創始者」とされるようになったのは、死後に弟子たちが彼の名のもとで運動を築いたからだ、という見方です。
オリュカのひとこと
200を超える逸話は、そのまま事実として読んでよいのでしょうか。『バアル・シェム・トーヴ讃』の成り立ちをこの節で確かめましょう。
伝記の多くは、死後に書かれた
バアル・シェム・トーヴ自身が書いたものは、ほとんど残っていません。YIVOが挙げる資料は、ポーランドの文書館の記録にある本人や周りの人への言及、写しで伝わる4通の手紙、同時代の人の証言、そして死後に集められた言い伝えです。なかでも中心になるのが、200を超える逸話を収めた『バアル・シェム・トーヴ讃(シヴヘイ・ハ・ベシュト)』で、1795年ごろに手稿でまとめられ、1814〜1815年にコピスという町で印刷されました。聖人伝として書かれた本なので、逸話がそのまま事実だとは限りません。
YIVOによれば、ハシディズムを大きな運動にしたのは、メジリチのマギード(説教師)と呼ばれたドヴ・ベルや、ポロンネのヤアコヴ・ヨセフら、弟子や周りにいた人々でした。彼らは自分たちの考えや実践の根拠として、師であるバアル・シェム・トーヴの名を掲げました。ハシディズムへの組織だった反対(ヴィルナのガオンに代表される「ミトナグディーム」)が起きたのは、バアル・シェム・トーヴの死から10年以上たってからです。
ポディッリャから広がった運動
IEUによれば、初期の中心地はメジリチ、チョルノービリ、メジビージでした。運動はやがてハプスブルク帝国の領土にも広がり、ガリツィア、ブコヴィナ、ザカルパッチャにハシディズムの共同体ができました。コレツ、ジトーミル、ベルディーチウ、ジョウクヴァなどには、ハシディズムの学校や印刷所が置かれました。ロシア帝国が1804年に定めたユダヤ人についての法令は、ハシディズムの共同体が自分たちの礼拝所を建て、ラビを選ぶことを認めました。
IEUは、ハシディズムの民間伝承(歌、踊り、言い回し)にはウクライナの題材が多いこと、そして20世紀には世俗化とともに勢いを失い、ホロコーストによって東ヨーロッパのハシディズムはほぼ根絶された、と書いています。ホロコーストのキーウでの出来事はバビン・ヤールの記事、帝政期のウクライナのユダヤ人社会はコサックの自治が終わるまでの歴史の記事の一節にあります。
ひ孫、ブラツラウのナフマン
バアル・シェム・トーヴの娘オドルの孫にあたるのが、ナフマン・ベン・シムハです。IEUによれば、1772年4月4日にメジビージで生まれました。YIVOの項目(アーサー・グリーン執筆)によれば、1798〜1799年に聖地(イスラエルの地)へ旅をしたあとで弟子を集め始め、1802年にポディッリャの町ブラツラウ(いまのヴィーンヌィツャ州)に移りました。彼に従う人々はこの町の名から「ブラツラウ派(ブレスロフ派)」と呼ばれます。
ナフマンは1806年から、東ヨーロッパの民話の題材にカバラーの象徴を織り込んだ、幻想的な物語を語り始めました。物語は死後の1815年に、ヘブライ語とイディッシュ語の対訳の本『物語集(シプレイ・マアシヨート)』として出版されています。IEUは、ナフマンがこれらの物語を学のある人々の言葉であるヘブライ語ではなく、日常の言葉であるイディッシュ語で語り、ウクライナの民話の題材を自由に取り入れた、と書いています。YIVOは、マルティン・ブーバーのドイツ語による翻案(1906年)を通じて、フランツ・カフカらにも影響を与えた可能性がある、としています。
最後の年、ナフマンは結核を患ってウマニ(いまのチェルカーシ州)に移り、1810年10月16日にそこで亡くなりました(IEU)。YIVOのウマニの項目によれば、ナフマンは、1768年にウマニで殺されたユダヤ人の魂のために祈ることができるから、この町を選んだと語っていました。ウマニの墓は、ソ連の時代に中断をはさみながらも、ブラツラウ派の人々が毎年訪れる場所であり続けています(IEU)。
| 年 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1698年または1700年 | バアル・シェム・トーヴ、オコピに生まれる(生年は確定していない) | YIVO、IEU |
| 1730年代 | 「バアル・シェム」の呼び名を使い始める | YIVO |
| 1740年 | メジビージに住む | YIVO |
| 1760年 | バアル・シェム・トーヴ、亡くなる | YIVO、IEU |
| 1772年4月4日 | ナフマン、メジビージに生まれる | IEU |
| 1802年 | ナフマン、ブラツラウに移る | YIVO |
| 1804年 | ロシア帝国のユダヤ人法令が、ハシディズムの共同体に礼拝所とラビの選出を認める | IEU、YIVO |
| 1810年10月16日 | ナフマン、ウマニで亡くなる | IEU |
| 1814〜1815年 | 『バアル・シェム・トーヴ讃』が印刷される | YIVO |
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Ba‘al Shem TovMoshe Rosman 執筆。生年「ca. 1700」、オコピ、1740年のメジビージ、教え、資料、弟子との関係
発行:YIVO Institute for Jewish Research(YIVO Encyclopedia of Jews in Eastern Europe) 確認日:2026-09-24 - Hasidism: Historical OverviewDavid Assaf 執筆。生年「1698/1700」、ポディッリャ、1740〜1760年、1804年の法令
発行:YIVO Institute for Jewish Research(YIVO Encyclopedia of Jews in Eastern Europe) 確認日:2026-09-24 - Naḥman of BratslavArthur Green 執筆。聖地への旅、1802年のブラツラウ、1806年からの物語、1815年の出版、結核とウマニ
発行:YIVO Institute for Jewish Research(YIVO Encyclopedia of Jews in Eastern Europe) 確認日:2026-09-24 - UmanChaeRan Freeze 執筆。ナフマンがウマニを選んだ理由、1810年
発行:YIVO Institute for Jewish Research(YIVO Encyclopedia of Jews in Eastern Europe) 確認日:2026-09-24 - Hasidism運動の性格、バアル・シェム・トーヴ1700〜1760年、初期の中心地、広がり、1804年の法令、ホロコースト
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Medzhybizh町の歴史と建物。2020年更新
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Nakhman of Bratslav1772年4月4日メジビージ生、1810年10月16日ウマニ没、イディッシュ語の物語、墓。Encyclopedia of Ukraine 第3巻〔1993年〕の項目
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Bratslavヴィーンヌィツャ州の町
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Umanチェルカーシ州の都市、19世紀初めのハシディズムの中心
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。





