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文化・歴史/解説

仇討ちから罰金へ。キーウ・ルーシの法典『ルスカ・プラウダ』

キーウ・ルーシの法をまとめた『ルスカ・プラウダ』は、原本がなく、1282年の写本をはじめ100を超える写本で伝わります。仇討ちを認めた短い版から、罰金に置き換えた長い版へ。成立をめぐる説、条文の中身、キーウ・ルーシのあとまで使われた経緯を、事典と校訂本からたどります。

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オリュカのひとこと

仇討ちを認めていた法が、罰金へと置き換わったようです。移り変わりを最初の見出しでたどれます。

「人が人を殺したら、兄弟が兄弟の、息子が父の、父が息子の仇を討つ。仇を討つ者がいなければ、首ひとつにつき40フリヴニャ」。キーウ・ルーシの法を書き留めた『ルスカ・プラウダ』(Руська правда)は、このような条文から始まります。仇討ちを認めながら、討つ者がいないときの支払いの額を定めている。この一文に、この法典の性格がよく表れています。

法典がいつ、誰のもとでまとめられたとされるのか、どんな写本で伝わっているのか、何を定めていたのかを、事典と校訂本にもとづいて見ていきます。キーウ・ルーシの歴史の流れはキーウ・ルーシから16世紀までの記事で扱っています。

名前と、日本語での呼び方

「プラウダ」は、いまのウクライナ語では「真実」を意味する語です。『Internet Encyclopedia of Ukraine』(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行。以下 IEU)は、この法典の名を「Rus’ Truth [Law]」、つまり「ルーシの真実(法)」と英訳しています。ここでの「プラウダ」は、正しい裁き、法という意味で使われています。

日本語の呼び方は定まっていません。この媒体のほかの記事では『ルーシ法典』と書いてきました。日本で刊行された研究書には、河村盛一『ルースカヤ・プラーヴダ』(黎元社、1953年)があり、こちらはロシア語の読み方によるカナ表記です。ここでは、ウクライナ語の読み方で『ルスカ・プラウダ』と書き、意味をとって「ルーシの法典」と説明します。

原本はなく、100を超える写本で伝わる

IEU によれば、ルスカ・プラウダは11世紀から12世紀にかけて、慣習法をもとにまとめられた法の集成です。原本は見つかっておらず、13世紀から18世紀に書き写された100を超える写本が残っています。写本は、内容のまとまり方から三つの版に分けられています。

版条文の数古い写本分かっていること
短い版43条『ノヴゴロド第一年代記』の15世紀の写本に書き込まれたもの(アカデミー写本など)1738年に歴史家タチシチェフが年代記の中に見つけ、1767年にシュレーツァーが刊行した
長い版121条1282年の教会法典集(コルムチャヤ・クニガ)に収められた「シノド写本」、14世紀後半の法律集に収められた「トロイツキー写本」約100の写本があり、最も広く写された。1792年に初めて刊行された
要約版—17世紀の教会法典集に収められたもの長い版を短くしたものとみる研究者が多いが、12世紀にさかのぼるとする説もある
IEU「Ruskaia Pravda」(執筆 Yaroslav Padokh、1993年の紙の事典が初出)と『Енциклопедія українознавства』第2部の同項目による。条文の数は短い版と長い版について書いた。

最も古い写本の年は1282年です。1935年にキーウのウクライナ科学アカデミーから刊行された校訂本(セラフィム・ユシコフ編『ルスカ・プラウダ 7つの写本と5つの版による本文』)は、このシノド写本を「歴史博物館、シノド文庫第132番、教会法典集、1282年、615葉裏〜627葉裏」と記しています。短い版の底本にしたアカデミー写本は、同じ校訂本では15世紀後半の『ノヴゴロド第一年代記』の写本とされています。いずれも1935年当時の所蔵の記述です。

短い版:ヤロスラウ賢公と息子たちの法

短い版の43条は、四つの部分に分けて読まれています。IEU と、ウクライナ語の『Енциклопедія українознавства』(第2部)によれば、次のとおりです。

  • 第1〜18条「ヤロスラウのプラウダ」。最も古い部分
  • 第19〜41条「ヤロスラウの息子たちのプラウダ」
  • 第42条「ヴィーラの取り決め」。罰金を取り立てる役人への支払い
  • 第43条「橋を造る者への定め」

最初の部分は、キーウ大公ヤロスラウ賢公(在位1019〜1054年)に結びつけられてきました。IEU の「ヤロスラウ賢公」の項目は、社会と法の秩序を整えるために、ヤロスラウが「ヤロスラウのプラウダ」と呼ばれる法の書をまとめさせたと書いています。成立の年は、1016年ごろとする研究者と、1030年代とする研究者に分かれます。また、ヤロスラウ自身が定めたという見方に同意しない研究者もいて、その人たちはこの部分を単に「最も古い部分」と呼んでいます。

冒頭の条文は、1950年に刊行された『ノヴゴロド第一年代記』の校訂本では、6524年(西暦1016年)の記事の中に置かれています。

А се есть правда рускаа. Убиеть мужь мужа, то мьстѣть брату брата, любо сынови отца, а любо отцю сына, любо братучада, любо сестриню сынови; аще не будет кто мьстя, то 40 гривенъ за голову

『Новгородская первая летопись старшего и младшего изводов』(1950年)176頁。綴りは一部簡略化した

訳すと、「これがルーシのプラウダである。人が人を殺したら、兄弟が兄弟の、あるいは息子が父の、あるいは父が息子の、あるいは兄弟の子、姉妹の息子が仇を討つ。仇を討つ者がいなければ、首ひとつにつき40フリヴニャ」となります(本記事による訳)。条文は続けて、殺された人がルーシの人でも、公の従士や商人、公の役人でも、共同体から外れた者(изгой)やスロヴェネ人でも、同じく40フリヴニャとしています。

第二の部分「ヤロスラウの息子たちのプラウダ」について、IEU は、ヤロスラウの息子イジャスラウ、スヴャトスラウ、フセヴォロドがキーウ近郊のヴィシュホロドで開いた会議でまとめたものだと紹介しています。その年は1072年とする研究者(チホミーロフ、ユシコフ、チェレプニン)と、1032〜1054年とする研究者(グレコフ、ジミン)に分かれます。この部分は公や役人、財産の利益を細かく守る条文が多く、殺された人の身分によって罰金の額が違うことから、IEU は社会の分化がうかがえるとしています。

長い版:仇討ちが罰金に置き換わる

121条の長い版がいつできたのかも、研究者によって違います。IEU によれば、ヴォロディーミル・モノマフの治世(1113年以後)とする説、その子ムスティスラウの治世とする説、1209年より前とする説があります。

長い版の刑法では、仇討ちが姿を消し、罰金と国の罰に置き換わりました。殺人に対する罰金はヴィーラ(вира)と呼ばれます。IEU の「ヴィーラ」の項目によれば、額は自由人を殺した場合に40フリヴニャ、公の役人の場合は80フリヴニャでした。奴隷を殺しても罰金はなく、持ち主の財産の損失として償われるだけでした。殺した者が分からないときは、事件が起きた土地の共同体が支払いを負いました。

強盗を伴う殺人、放火、馬泥棒のような重い罪には、「追放と財産の没収」(поток і розграблення)という罰がありました。IEU の説明では、罪人は権利を失い、共同体から追われ、財産を奪われ、家族もその罰を受けました。

刑法だけではありません。長い版には、貸し借りと利子、土地の争い、相続についての条文や、証人や誓い、神判(熱した鉄や水による判定)のような裁判の手続きの条文も含まれています。IEU は、ルスカ・プラウダの主な目的を、人が命と健康と財産を守る力を持ち、裁判が公正な判断の拠りどころを持つことにあったとし、より人道的な法へ移っていく流れがこの法典の特徴だと評価しています。これは事典の執筆者の評価です。

  1. オリュカ

    この法典は、キーウ・ルーシが終わったあとも使われたのかな。

  2. タブリ

    リトアニア大公国の法にどう引き継がれたか、この見出しの下でたどれるよ。

  3. ヨリクネ

    訳された言語も、この見出しの下に並んでいるよ。

キーウ・ルーシのあとも使われた

ルスカ・プラウダは、キーウ・ルーシが分裂したあとも使われました。IEU の「リトアニア=ルーシの法」の項目によれば、リトアニア大公国の法は、はじめルスカ・プラウダと、リトアニア・ウクライナ・ベラルーシの慣習法を土台にし、のちに16世紀の『リトアニア法令集』が加わりました。IEU の「刑法」の項目は、ロシア帝国に支配されたウクライナでは、ルスカ・プラウダと『リトアニア法令集』の刑法の規定が、1840年にロシア帝国の法典に置き換えられるまで効力を持っていたと書いています。

法典は多くの言葉に訳されてきました。IEU によれば、ドイツ語、ポーランド語、フランス語の訳があり、英語訳はジョージ・ヴェルナツキーによるもの(1947年)です。

オリュカのひとこと

「最古の成文法」という評価は、誰がどんな根拠で言っているのでしょう。この見出しで確かめましょう。

「最古の成文法」という言い方

ルスカ・プラウダは、解説記事などで「最初の成文法」「最古の法典」と紹介されることがあります。ただ、IEU とウクライナ語の『Енциклопедія українознавства』は、この法典を「古いウクライナ=ルーシの法の最も重要な集成」と書いており、「最古」とは書いていません。どの範囲で「最古」なのかを示した一次資料は、この記事では確認できていません。確実に言えるのは、現存する最も古い写本が1282年のものだということです。

また、この法典が誰の法の歴史に属するのかは、書き手によって扱いが違ってきました。IEU の「リトアニア=ルーシの法」の項目は、ロシアの歴史家がリトアニア大公国の法を「西ロシアの法」と呼んでロシア法の一部として扱ったのに対し、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナの研究者はそれぞれの国の法の歴史の一部として受け止めた、と書いています。同じ事典は、ルスカ・プラウダがモスクワの中世の法に影響を与えたかどうかは疑わしいとする歴史家フェディル・レオントヴィチの見方も紹介しています。法典が生まれたのは、キーウを中心とするルーシの地でした。

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出典・参考資料

  1. Ruskaia Pravda三つの版、写本の数、1282年のシノド写本、条文の数と四つの部分、成立年の諸説、刑法と民事の内容、影響、各国語訳。執筆 Yaroslav Padokh、初出 Encyclopedia of Ukraine vol.4, 1993
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所) 確認日:2026-09-24
  2. Yaroslav the Wise生没年、在位、「ヤロスラウのプラウダ」をまとめさせたこと
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  3. Vyra自由人40フリヴニャ・公の役人80フリヴニャ、共同体の支払い、奴隷の扱い。初出1993
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  4. Banishment and seizure追放と財産の没収。初出1984
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  5. Criminal lawロシア帝国支配下のウクライナで1840年まで効力を持ったこと
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  6. Lithuanian-Ruthenian lawリトアニア大公国の法の土台、各国の研究者の扱いの違い。初出1993
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  7. «Руська Правда»Енциклопедія українознавства II, т.7, с.2655–2657。写本106、短い版43条・長い版121条、神判の内容
    発行:Ізборник(litopys.org.ua) 確認日:2026-09-24
  8. С. Юшков. Руська Правда. Тексти на основі 7 списків та 5 редакцій(Київ: ВУАН, 1935)の序文写本の数、アカデミー写本とシノド写本の所蔵・年代・葉
    発行:Ізборник(litopys.org.ua) 確認日:2026-09-24
  9. Новгородская первая летопись старшего и младшего изводов(М.–Л., 1950. С.176–180)の本文6524年の記事の「А се есть правда рускаа」と第1条
    発行:Ізборник(litopys.org.ua) 確認日:2026-09-24
  10. ルースカヤ・プラーヴダ河村盛一著、黎元社、1953年、129p
    発行:CiNii Books(国立情報学研究所) 確認日:2026-09-24
  11. Руська Правда: тексти на основі 7 списків та 5 редакційЮшков編、1935年
    発行:CiNii Books(国立情報学研究所) 確認日:2026-09-24

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