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文化・歴史/解説

「怠けは、すべての母」。モノマフが子らに残した『教訓』

12世紀のキーウの大公ヴォロディーミル・モノマフは、子らへの教えと自分の旅と狩りの記録を一つの文章に残しました。この作品は1377年のラヴレンチー写本にだけ残り、1793年に初めて刊行されています。書かれた年の説と、写本の中の置かれ方を事典と校訂本から見ます。

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オリュカのひとこと

モノマフが子らに残した文章があるそうです。最初の見出しで確かめられます。

「怠けは、すべての母」。12世紀のキーウの大公ヴォロディーミル・モノマフ(在位1113〜1125年)は、子どもたちに宛てた文章にこう書きました。知っていることは忘れず、知らないことは学ぶこと。朝は寝床で日の光を浴びないこと。旅の先々で、従者に村や畑を荒らさせないこと。そのうえで、自分が生涯にどれだけ旅をし、戦い、狩りをしてきたかを書き並べています。

この文章は、ウクライナ語で『子らへの教訓』(Повчання дітям)と呼ばれます。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(以下ЕІУ)は、12世紀の第2の十年から残る、ただ一つの世俗の文学作品だとしています。以下、ЕІУと、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、1926年に刊行された年代記の校訂本によって、書き手、写本、書かれた年の説を見ていきます(2026年9月時点)。

書いた人、ヴォロディーミル・モノマフ

IEUとЕІУによれば、1053年に生まれ、1125年5月19日にキーウで亡くなりました。父はのちのキーウ大公フセヴォロド・ヤロスラヴィチ、母はビザンツ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘とされ、「モノマフ」の名は母方から来ています。ただし、母の出自には異論があると、二つの事典はどちらも書いています。

父が生きているあいだは、スモレンスク、ついでチェルニーヒウ(1078〜1094年)を治め、1094年からはペレヤスラウの公になりました(IEU)。ЕІУによれば、チェルニーヒウからキーウの父のもとへ相談に通った回数は、およそ100回にのぼります。1113年4月にキーウ大公スヴャトポルクが亡くなり、町の人々が蜂起すると、モノマフは2度目の招きに応じてキーウの大公になりました。このとき60歳でした(ЕІУ)。

IEUは、公たちの内輪の争いを抑え、南の草原の遊牧民ポロヴェツ(クマン)に対して公たちをまとめようとした人物と説明し、1097年のリュベチの諸公会議を呼びかけたのも彼だとしています。キーウでは貸し借りの利子を制限するなどの法令を出し、それは法典『ルスカ・プラウダ』に加えられました(IEU)。法典そのものは『ルスカ・プラウダ』の記事で扱っています。最初の妻は、イングランド王ハロルド2世の娘ギーダでした(IEU・ЕІУ)。亡くなったあとは、キーウの聖ソフィア大聖堂に葬られています(IEU。大聖堂については聖ソフィア大聖堂の記事)。

三つの部分からなる文章

ЕІУによれば、この作品は三つの部分からできています。

  • 本来の「教訓」:子らへの教え
  • 自伝(ЕІУは「生涯の年代記」とも呼ぶ):自分の旅と戦い、狩りを順に書いたもの
  • いとこにあたるチェルニーヒウ公オレフ・スヴャトスラヴィチに宛てた長い手紙

研究者は、三つをまとめたのはモノマフ自身だと考えている、とЕІУは書いています。オレフへの手紙は、オレフとの争いのなかでモノマフの息子が殺されたあとに書かれたものです(ЕІУ「ヴォロディーミル・モノマフ」)。

教えの部分に書かれていること

写本の本文では、書き出しのすぐあとが4行半ほど欠けています(校訂本の注)。そのあとで作者は、「そりに座って、心の中で思いめぐらし、今日まで生かしてくださった神をたたえた」と書き、子らや、この小さな書きものを聞くほかの人に、笑わずに心に留めてほしいと頼んでいます。マフノヴェツの注は、「そりに座って」を死に備えていることの言い方だと説明しています。

教えの部分から、いくつかを訳してみます。

  • 「よくできることは忘れず、できないことは学びなさい。私の父は家にいながら五つの言葉を身につけた。そのために、ほかの国々から敬われている」
  • 「怠けは、すべての母」(マフノヴェツのウクライナ語訳は「すべての〔悪い〕ことの母」と補っています)
  • 「太陽に、寝床の中のあなたたちを見つけさせてはならない」
  • 自分の領地を回るときも、従者に、自分の民にもよその民にも、村にも畑にも害を加えさせないこと

訳は、1926年に刊行された年代記の校訂本(『ロシア年代記全集』第1巻、ラヴレンチー写本の本文)を、歴史家レオニード・マフノヴェツのウクライナ語訳(1989年)と照らして、この記事で訳したものです。

自伝の部分、「大きな旅は八十三」

自伝の部分でモノマフは、ЕІУによれば13〜14歳のころから重ねた大小の遠征と、外交と国の務めを書いています。終わり近くで、「すべての旅のうち大きなものは八十三、小さなものは覚えていない」と数え、ポロヴェツの公たちとは「二十に一つ足りない」、つまり19の和平を結んだと書いています(校訂本の本文。数は古い文字の数詞で書かれています)。

狩りの話も具体的です。野生の馬を自分の手で縛ったこと、2頭のトゥール(野牛)に馬ごと角で放り上げられたこと、熊に膝のあたりの鞍下の布をかまれたこと。馬から何度も落ちて頭を2度割り、手足を傷めたとも書き、それでも神が無事に守ってくださったと続けます。マフノヴェツの注は、このトゥールはおそらくヨーロッパバイソンだろうとしています。

残ったのはラヴレンチー写本だけ

ЕІУによれば、『子らへの教訓』は一つの写本にしか残っていません。1377年に修道士ラヴレンチーが、スーズダリ・ニジニノヴゴロドの大公ドミトリー・コンスタンチノヴィチのために羊皮紙に書き写した年代記、ラヴレンチー写本です。作品は年代記『過ぎし年月の物語』の1096年の項の途中に、ポロヴェツの起こりを語る話を断ち切る形で入っています。

1926年の校訂本の序文によれば、写本は178枚で、『教訓』はその78〜85枚目にあり、アレクサンドロス大王が山に閉じこめた人々の話の途中に置かれています。IEUの「Laurentian Chronicle」の項目も同じ位置を書いています。ЕІУは、ほかの年代記や資料にこの作品は見られないとしています。

なぜそこにあるのか。ЕІУは、12世紀の後半に、いまのロシアのウラジーミル(クリャジマ川沿いの町)の年代記作者のだれかが、その地の公アンドレイの守護聖人、クレタの聖アンドレアスの「祈り」を添えて組み入れたとしています。一方、IEUの「Chronicles」の項目は、キーウのヴィドゥビチ修道院で年代記に加えられた可能性が高いと書いています。年代記の三つの版と写本の全体は、『過ぎし年月の物語』の写本の記事で扱っています。

写本の持ち主と、1793年の刊行

ЕІУ「ラヴレンチー写本」によれば、写本は18世紀の初めまでウラジーミルの生神女降誕修道院のもので、のちにサンクトペテルブルクへ運ばれ、1792年に貴族のアレクセイ・ムーシン=プーシキンが手に入れました(IEUは、同じ年にムーシン=プーシキンが修道院で見つけたと書いています)。ムーシン=プーシキンは写本を皇帝アレクサンドル1世に献じ、写本は公共図書館に入りました。1926年の校訂本の序文は、所蔵を「国立公共図書館(レニングラード)F°. п. IV, № 2」と記しています。

同じ序文によれば、ムーシン=プーシキンは写本から『教訓』を取り出して、1793年にサンクトペテルブルクで刊行しました。年代記の全体が初めて刊行されたのは1846年です(IEU・ЕІУ)。

オリュカのひとこと

書かれた年には、いくつかの説があるようです。この見出しで確かめられます。

いつ書かれたのか

年代記の1096年の項に入っていても、1096年に書かれたわけではありません。ЕІУは、作品にはもっとあとの出来事が出てくるので1096年とはみなせず、中身から1096年と決められるのはオレフへの手紙だけだとしています。

1099年、1117年、1118年:それぞれ何を指しているのか

書かれた年は、事典によって書き方が違います。

  • IEU「Volodymyr Monomakh」(1993年の紙の事典の再録)と「Literature」:「1117年ごろ」
  • ЕІУ「ヴォロディーミル・モノマフ」(2003年):「1118年ごろ」
  • ЕІУ「ヴォロディーミル・モノマフの『教訓』」:本来の教えの部分は1099年ごろに書かれ、晩年に大きく書き直された。自伝で最後に出てくる出来事は1117年のミンスク公フリーブ・フセスラヴィチへの遠征で、自伝の部分はこの年に書き終えられた

1099年という年は、作品の中の一節から来ています。ЕІУによれば、1099年に年上の公たちの使者がモノマフを訪れ、若い公のヴォロダルとヴァシリコのロスティスラヴィチ兄弟に対して兵を出すよう求めたと、作者自身が書いています。ЕІУは、この時期に最初の部分が書かれたとみています。つまり「1099年」は書き始め、「1117年」は最後に書かれた出来事、「1118年ごろ」は作品全体の成立の目安で、どれも同じことを指しているわけではありません。

  1. オリュカ

    モノマフの生涯と写本の歩みは、どんな順番なのかな。

  2. タブリ

    生まれた年から刊行まで、この見出しの下の年表に並んでいるよ。

  3. スウネ

    作品の成立の年は、年表の中でも事典ごとに分けて書いてあるよ。

年表

年出来事典拠
1053年ヴォロディーミル・モノマフが生まれるIEU・ЕІУ
1078〜1094年チェルニーヒウの公IEU・ЕІУ
1094年ペレヤスラウの公になるIEU・ЕІУ
1096年年代記のこの年の項に『教訓』が置かれる。オレフへの手紙はこの年のものЕІУ
1097年リュベチの諸公会議IEU
1099年ごろ教えの部分を書き始めたとされるЕІУ
1113年キーウの大公になるIEU・ЕІУ
1116年『過ぎし年月の物語』の第2版(ヴィドゥビチ修道院)IEU
1117年自伝に出てくる最後の出来事(ミンスクへの遠征)ЕІУ
1117〜1118年ごろ作品の成立(IEUは1117年ごろ、ЕІУは1118年ごろ)IEU・ЕІУ
1125年5月19日キーウで亡くなるIEU・ЕІУ
1377年修道士ラヴレンチーが年代記を書き写すIEU・ЕІУ・校訂本の序文
1792年写本がムーシン=プーシキンの手に渡るIEU・ЕІУ
1793年『教訓』が初めて刊行される(サンクトペテルブルク)校訂本の序文
1846年年代記の全体が初めて刊行されるIEU・ЕІУ
IEU「Volodymyr Monomakh」「Laurentian Chronicle」「Chronicles」、ЕІУ「ВОЛОДИМИР МОНОМАХ」「ПОВЧАННЯ ВОЛОДИМИРА МОНОМАХА」「ЛАВРЕНТІЇВСЬКИЙ ЛІТОПИС」、1926年の校訂本(『ロシア年代記全集』第1巻)の序文による。

作品の呼び名と、作者の名前

  1. オリュカ

    『教訓』という呼び名は、作者が付けたものなのかな。

  2. タブリ

    作者自身の呼び方と、あとから付いた題が、この見出しの下に並んでいるよ。

  3. ヨリクネ

    作者の二つの名前は、次の見出しで読めるよ。

「小さな書きもの」から「教訓」へ

作者自身は、この文章を「грамотица(フラモティツャ、小さな書きもの)」と呼んでいます(校訂本の本文)。「教訓」という呼び名は、あとから付けられたものです。1793年の刊本の題は「Поученіе Владиміра Мономаха своимъ дѣтямъ」(校訂本の序文による)でした。いまのウクライナ語では、ЕІУのように「Повчання(ポウチャンニャ)」と書きます。IEUは古い形を写して「Poucheniie ditiam」とし、英語で「Instruction for [My] Children」と訳しています。日本語の定まった訳題は確かめられなかったので、この記事では『子らへの教訓』としました。

ヴァシーリーとヴォロディーミル

作品の書き出しで、作者は、洗礼の名はヴァシーリー、ルーシの名はヴォロディーミルで、父と母モノマフに愛された、と名のっています(校訂本の本文)。ЕІУの項目も、冒頭で「ヴォロディーミル=ヴァシーリー・フセヴォロディチ・モノマフ」と書いています。同じ名前はロシア語ではウラジーミルと読みます。

「モノマフの帽子」は誰のものか

のちのモスクワでは、ロシアのツァーリたちが「モノマフの帽子」と呼ばれる冠で戴冠しました。ЕІУは、イヴァン4世からニコライ2世までがこの冠を使ったとしたうえで、ビザンツの親族から受け継いだとされるこの冠は、実際には13世紀の終わりか14世紀の初めにサマルカンドの金細工師が作ったものだと書いています。名前はモノマフでも、12世紀のキーウの大公のものではありません。

何を子らに伝えようとしたのか

ЕІУによれば、「子らへの教訓」という形の文章は中世ヨーロッパに広くあり、モノマフの作品は、同じ種類の作品のほか、詩編や、ブルガリアのヨアン・エクザルフの『六日物語』からも影響を受けています。ЕІУは、モノマフがルーシの地を一族の公たちで分けて治めることは受け入れつつ、ポロヴェツに対して共に戦うための取り決めを互いに守ることを強く求めていると読み、自分の土地を思う気持ちと、公どうしの兄弟の結びつきがこの作品を貫いているとしています。

IEUは、教えと自伝を兼ねた文学的に質の高い作品で、公たちの内輪の争いを戒め、一つにまとまった国の考えを説いたものだと説明しています。書き手の声は、勇敢な戦士であり、賢く思慮深い君主の声だ、ともIEUは書いています。怠けを戒め、学ぶことをすすめる言葉と、野牛に放り上げられた話が同じ文章に並んでいるのが、この作品の読みどころです。

出典と記事の記録出典 11件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Volodymyr Monomakh生没年月日、在位、スモレンスク・チェルニーヒウ・ペレヤスラウ、1097年のリュベチの諸公会議、法令、『教訓』は1117年ごろ、ラヴレンチー写本、ギーダ、聖ソフィア大聖堂。執筆 Arkadii Zhukovsky、紙版は1993年の第5巻
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  2. Laurentian Chronicle1377年の写本、所蔵、『教訓』の位置、1792年の発見、1846年の刊行。紙版は1993年の第2巻
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  3. Chronicles第2版とヴィドゥビチ修道院、『教訓』がそこで加えられた可能性。紙版は1984年の第1巻
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  4. Literature『教訓』を1117年ごろとする記述。紙版は1993年の第3巻
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  5. ВОЛОДИМИР МОНОМАХ生没年、父母と母の出自の異論、チェルニーヒウから約100回、1113年の即位と60歳、『教訓』は1118年ごろ、オレフへの手紙、「モノマフの帽子」。執筆 М. Ф. Котляр、第1巻、2003年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  6. «ПОВЧАННЯ» ВОЛОДИМИРА МОНОМАХА唯一の世俗の作品、三つの部分、1096年の項、ウラジーミルでの組み入れ、1099年と1117年、影響と思想。執筆 М. Ф. Котляр、А. Г. Плахонін
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  7. ЛАВРЕНТІЇВСЬКИЙ ЛІТОПИС1377年、ほかの資料に『教訓』がないこと、修道院、1792年の購入、アレクサンドル1世、1846年の刊行。執筆 В. Ю. Франчук、第6巻、2009年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  8. МУСІН-ПУШКІН Олексій Івановичラヴレンチー写本と『教訓』を見いだし刊行したこと。執筆 С. І. Кот、第7巻、2010年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  9. Полное собрание русских летописей. Т. 1. Лаврентьевская летопись(1926〜1928年)の序文写本の枚数・所蔵番号、『教訓』の78〜85枚目の位置、1793年の刊行
    発行:Академия наук СССР(電子版:Ізборник) 確認日:2026-09-27
  10. 同書 第240〜256段「Поученьє」の本文書き出しの名、4行半の欠け、そりと「грамотица」、五つの言葉、怠け、太陽と寝床、八十三の旅、十九の和平、狩りの話
    発行:Академия наук СССР(電子版:Ізборник) 確認日:2026-09-27
  11. Літопис руський за Іпатським списком, переклав Леонід Махновець(1989年)のうち「Поучення Володимира Мономаха」のウクライナ語訳と注「そりに座って」の注、トゥールの注
    発行:Дніпро(電子版:Ізборник) 確認日:2026-09-27

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