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社会を知る/解説

「世界最大」は誰の言葉か。ドニプロのユダヤ・センター「メノラー」

ドニプロに2012年に開いたユダヤ共同体のセンター「メノラー」には、シナゴーグ、博物館、研究所、領事館が入っています。運営する共同体はこれを「世界最大」と呼びますが、比べた基準は示されていません。センターの成り立ちと、カテリノスラウと呼ばれた町のユダヤ人の歴史を、共同体の公表と二つの事典で並べます。

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オリュカのひとこと

ドニプロのユダヤ・センターは、「世界最大」と呼ばれているそうです。誰の言葉か、この見出しで確かめられます。

ドニプロ川に面した町ドニプロに、「メノラー」(Менора)と呼ばれるユダヤ共同体のセンターがあります。2012年に開いた複合施設で、シナゴーグ、博物館、研究所、医療センター、領事館などが入っています。運営するドニプロのユダヤ共同体は、自らのサイトでこれを「世界最大のユダヤ・センター」と紹介しています。

その言い方がどこから来ているのかを確かめながら、センターの成り立ちと、この町のユダヤ人の歴史を、共同体の公表と事典の記述で並べます。この町は1926年までカテリノスラウ、2016年までドニプロペトロウシクと呼ばれていました。改名の経緯はウクライナの二つの地名法で扱っています。

2012年に開いた複合施設

ドニプロのユダヤ共同体のサイトによれば、センター「メノラー」は2012年に開きました。建築の構想はオレクサンドル・ソリンと設計事務所「ストゥディヤ7」によるもので、センターには「黄金のバラ」(Золота Роза)と呼ばれるシナゴーグが組み込まれています。共同体のサイトは、センターに入っている機関として次を挙げています。

分野共同体のサイトが挙げる機関
宗教シナゴーグ「黄金のバラ」(建物に組み込まれている)
歴史と研究博物館「ウクライナのユダヤ民族の記憶とホロコースト」、ウクライナ・ホロコースト研究所「トクマ」
外交イスラエルの領事館と、いくつかのヨーロッパの国の名誉領事館
暮らしユダヤ医療センター、教育・文化・社会福祉の基金や団体
ドニプロのユダヤ共同体のサイトの「シナゴーグの歴史」「メノラー」のページから作成(2026年9月26日確認)。機関の名前の日本語訳は本記事による。

「世界最大」は誰の言い方か

「世界最大のユダヤ・センター」という言い方は、共同体のサイトの「シナゴーグの歴史」のページに出てきます(「У 2012 році відкривається найбільший у світі єврейський центр “Менора”」)。けれども、何を比べて最大なのか(床面積か、建物の高さか、入っている機関の数か)、どの施設と比べたのかは、そのページには書かれていません。共同体から独立した資料で、比べた基準と数字を示したものは確認できていません。そのため、この記事では「世界最大」を事実としては扱わず、共同体の言い方として紹介するにとどめます。

共同体のサイトは、1991年に開いたユダヤ人学校も「ヨーロッパで最も大きな学校の一つ」と書いています。YIVO ユダヤ百科事典の項目「ドニプロペトロウシク」(執筆はヴラジーミル(ゼエヴ)・ハニン、2010年)にも、この町のユダヤ人高校が「ヨーロッパで最も大きな学校の一つ」とあります。こちらも、比べた基準は示されていません。

カテリノスラウのユダヤ人

YIVO の項目によれば、ユダヤ人は町ができてまもなく住み始め、1793年に共同体が正式に置かれ、1800年ごろに最初の木造のシナゴーグが建ちました。1804年のユダヤ人に関する法律で、カテリノスラウ県はユダヤ人が住むことを許された地域(定住区域)に入っています。同じ項目は、19世紀後半に町のユダヤ人は4万人を超え、1889年には町で3番目に大きな民族集団だった、と書いています。1852年に建った「黄金のバラ」のシナゴーグもそのころのもので、1913年には町に90のユダヤ人学校があったとあります。

『Internet Encyclopedia of Ukraine』(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行。以下 IEU)の項目「ドニプロ」(ミコラ・フロベンコ、ヴォロディーミル・クビヨヴィチ執筆、2018年改訂)によれば、町の人口は1887年に4万7,000人、1897年に12万1,000人、1912年に21万8,500人と増え、住民の「ほぼ40%」がユダヤ人でした。1926年の国勢調査では、23万2,900人のうちユダヤ人は26.7%でした。

数字は資料によって違う

町の成り立ちとユダヤ人の数は、資料によって書き方が違います。

項目資料書かれていること
町ができた年IEU「ドニプロ」1776年、ポチョムキンが建設
町ができた年YIVO「ドニプロペトロウシク」1773年(ユダヤ人はその直後から住んだ)
19世紀末のユダヤ人共同体のサイト「シナゴーグの歴史」1897年に町の人口の36%超
19世紀末のユダヤ人IEU「ドニプロ」1897年の人口12万1,000人の記述に続けて、住民の「ほぼ40%」(年は明記なし)
19世紀末のユダヤ人YIVO「ドニプロペトロウシク」19世紀後半に4万人超
1926年IEU「ドニプロ」(国勢調査)23万2,900人のうち26.7%
1939年YIVO「ドニプロペトロウシク」10万人
1941年の占領の前共同体のサイト(追悼の碑の説明)9万〜10万人
1970年YIVO「ドニプロペトロウシク」7万人近く
2001年YIVO(国勢調査)「中核の」ユダヤ人人口2万2,000人。イスラエルの帰還法の条件にあたる人を含めると3万5,000〜5万人の推計
IEU「Dnipro」(2018年改訂)、YIVO Encyclopedia of Jews in Eastern Europe「Dnipropetrovs’k」(2010年)、ドニプロのユダヤ共同体のサイトから作成(2026年9月26日確認)。

町ができた年がなぜ違うのか、両方の項目とも説明していません。数字の多くは推計や別の調査の引用で、項目の中で出典が示されていないものもあります。

センターの中の博物館

センターの中には、博物館「ウクライナのユダヤ民族の記憶とホロコースト」があります。共同体のサイトによれば、博物館は2012年10月16日に開き、ウクライナのユダヤ人の歴史とホロコーストを、カテリノスラウ=ドニプロペトロウシク=ドニプロの共同体の歴史に重点を置いて展示しています。1941年8月からのドイツ軍の占領のもとで、この町のユダヤ人は大量に殺害されました。キーウのバビン・ヤールはキーウのバビン・ヤールの記事で扱っています。

オリュカのひとこと

共同体を率いてきた人は、いつから着任しているのでしょう。この見出しで確かめられます。

1990年からの共同体

共同体のサイトによれば、第二次世界大戦のあと2000年まで、町で使われていたシナゴーグはコツュビンシキー通りの小さな建物(「小シナゴーグ」)だけでした。サイトは、共同体の再生が本格的に始まったのは、ルバヴィチ派の指導者(レッベ)の使者としてラビのシュムエル・カミネツキーと妻が町に来たときだとしています。その後、1991年にユダヤ人学校が開き、2000年に「黄金のバラ」のシナゴーグの建物が改修されて戻り、2002年に高齢者の家、2003年に子どもの教育センターが開いた、とサイトは年ごとに挙げています。

YIVO の項目によれば、1998年にドニプロペトロウシク市のユダヤ共同体が設立・登録され、カミネツキーがその執行代表になりました。1999年3月には、ハバド派の「ユダヤ宗教共同体連合」がこの町を本部として登録された、とも書いています。ルバヴィチ派のレッベ、メナヘム・メンデル・シュネールソンは、1909年から少年期をこの町で過ごしており、父のレヴィ・イツハクは町のラビでした(共同体のサイト)。ウクライナのハシディズムの始まりはバアル・シェム・トーヴとハシディズムで扱っています。

着任は1990年か、1991年か

カミネツキーがいつ町に来たかは、資料で1年ずれています。共同体のサイトの「シナゴーグの歴史」は「1990年6月」と書き、YIVO の項目は「1991年に、イスラエル生まれのルバヴィチ派のラビ、シュムエル・カミネツキーが米国から来た」と書いています。この記事ではどちらかに決めず、両方を示します。

出典と記事の記録出典 8件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Історія синагогиソ連時代のシナゴーグ、1990年6月のカミネツキーの着任、1991年の学校、2000年の改修、2012年の「найбільший у світі єврейський центр “Менора”」、センターの機関、1897年の36%超
    発行:Єврейська громада Дніпра(DJC) 確認日:2026-09-26
  2. Менораセンターの構成、建築の構想 О. Сорін と「Студія 7」、シナゴーグ「Golden Rose」の組み込み
    発行:Єврейська громада Дніпра(DJC) 確認日:2026-09-26
  3. З Днем народження, Єврейський музей Дніпра!博物館の開館2012年10月16日。2025年10月16日掲載
    発行:Єврейська громада Дніпра(DJC) 確認日:2026-09-26
  4. Музей «Пам’ять єврейського народу в Голокост в Україні»博物館の展示の重点
    発行:Єврейська громада Дніпра(DJC) 確認日:2026-09-26
  5. Меморіал пам’яті жертвам Голокосту1941年以前のユダヤ人人口9万〜10万人の記述
    発行:Єврейська громада Дніпра(DJC) 確認日:2026-09-26
  6. Ребеシュネールソンの1909年の転居、父が町のラビ
    発行:Єврейська громада Дніпра(DJC) 確認日:2026-09-26
  7. Dnipropetrovs’k1773年、1793年の共同体、1800年ごろのシナゴーグ、1804年、4万人超、1889年、1852年の黄金のバラ、1913年の学校、1939年・1970年・2001年の人数、1991年の着任、1998年の登録、1999年の連合。執筆 Vladimir (Ze’ev) Khanin、2010年
    発行:YIVO Encyclopedia of Jews in Eastern Europe(YIVO Institute。Wayback Machine 2019年12月25日の保存版) 確認日:2026-09-26
  8. Dnipro1776年の建設、1887・1897・1912年の人口と「Almost 40 percent … Jewish」、1926年の国勢調査、改名の年。執筆 Mykola Hlobenko, Volodymyr Kubijovyč、2018年改訂
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-26

記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。