碑にユダヤ人と刻まれなかった谷、キーウのバビン・ヤール
1941年9月29日と30日、占領下のキーウの谷バビン・ヤールで、ナチス・ドイツの部隊がユダヤ人を銃殺しました。殺害は2年続き、戦後のソ連は1976年に建てた碑でユダヤ人に触れませんでした。数の出どころ、独立後の保護区、2022年3月1日のロシアのミサイル攻撃までをたどります。
キーウの地下鉄ドロホジチ駅の近くに広がる公園と緑地は、かつて「バビン・ヤール(Бабин Яр)」と呼ばれる大きな谷でした。1941年9月29日と30日、ナチス・ドイツの部隊がここでキーウのユダヤ人を銃殺しました。米国ホロコースト記念博物館(USHMM)は、ドイツ占領下のヨーロッパで最大規模の、ユダヤ人に対する大量銃殺の一つと説明しています。
この谷での殺害は、その後2年にわたって続きました。そして戦後のソ連では、ここで何が起き、誰が殺されたのかを語ること自体が、長く押さえ込まれました。1941年の出来事と、その記憶がたどった道を、博物館や記念機関、ウクライナ政府の記録から追います。
占領から10日後の2日間
ドイツ軍がキーウに入ったのは1941年9月19日です。USHMMによれば、ドイツの侵攻前、キーウには約16万人のユダヤ人が住んでいましたが、約10万人は市を離れるか軍に加わっており、占領の時点で残っていたのは約6万人でした。多くは女性、子ども、高齢者、病人でした。イスラエルのホロコースト記念機関ヤド・ヴァシェムは、残っていた人を推計により6万〜7万人としています。
占領の最初の週、市の中心部フレシチャティク通りで大きな爆発が起き、ドイツの司令部などが破壊されました。USHMMは、爆発は撤退したソ連側が残した地雷によるものだったが、ドイツはこれを口実に、市に残るユダヤ人の殺害に踏み切ったと書いています。
ヤド・ヴァシェムによれば、9月28日、ロシア語・ウクライナ語・ドイツ語の告示が市内に張り出されました。ユダヤ人は9月29日の朝8時までに墓地の近くの交差点に、書類・金・貴重品・暖かい衣類を持って集まれ、従わない者は銃殺する、という内容です。移住を思わせる文面でした。ヤド・ヴァシェムは、この年の9月29日がユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプル)にあたっていたことにも触れています。
集められた人々は谷へ連れて行かれ、服を脱がされ、少人数ずつ撃たれました。USHMMによれば、実行したのはアインザッツグルッペCの指導のもとにあったSSとドイツ警察の部隊とその補助部隊で、銃殺を行ったのは特別行動隊4a(指揮官パウル・ブローベル)でした。ヤド・ヴァシェムは、ユダヤ人を谷まで連行したのは現地の補助警察だったとし、ドイツ国防軍の部隊や、占領下で協力した現地の人々も殺害に加わったと書いています。
33,771人という数字の出どころ
この2日間の犠牲者として、33,771人という数字がよく引かれます。USHMMもヤド・ヴァシェムも、この数を「アインザッツグルッペの報告によれば」と主体を明記して示しています。殺害した側がベルリンの本部へ送った報告の数で、独立に検証された集計ではありません。
殺害は2日間で終わりませんでした。ヤド・ヴァシェムは、9月29日から10月11日までの間に、推計によって5万人を超えるユダヤ人が撃たれたとしています。谷全体で殺された人の数については、主体によって推計に大きな幅があります。
| 数 | 範囲 | 示している主体 |
|---|---|---|
| 33,771人 | 1941年9月29〜30日に殺されたユダヤ人 | アインザッツグルッペの報告(USHMM・ヤド・ヴァシェムが引用) |
| 5万人を超える | 1941年9月29日〜10月11日に撃たれたユダヤ人 | ヤド・ヴァシェム(「さまざまな推計による」) |
| 約10万人 | 占領下でバビン・ヤールで殺された人(ユダヤ人とそれ以外) | 1943年のソ連の調査(USHMMが引用) |
| 7万〜10万人 | バビン・ヤールで殺された人の総数 | ヤド・ヴァシェム |
| 約10万〜15万人 | バビン・ヤールで殺された人の総数 | 国立歴史記念保護区「バビン・ヤール」(「大半の研究者があげる数」として) |
保護区の資料は、正確な数はいまも分かっていないと書いています。ドイツは1943年、キーウから退く前に遺体を掘り起こして焼き、証拠を消そうとしました(USHMM、ヤド・ヴァシェム)。
ユダヤ人のほかに殺された人々
USHMMによれば、谷はその後2年間、殺害の場所であり続け、1943年秋、ソ連軍がキーウを取り戻す(11月6日)数日前まで殺害が続きました。殺されたのはユダヤ人だけではありません。USHMMは、地元の精神科病院の患者、ロマ、ソ連軍の捕虜、ユダヤ人以外の民間人を挙げています。
ヤド・ヴァシェムは、この場所で最初に殺されたのは1941年9月27日のキーウの精神科病院の患者だったとし、同年11月には同じ病院のユダヤ人患者約300人が谷の近くで殺されたと書いています。ドイツ側の態度が変わったあとは、ウクライナ民族主義者組織(OUN)のメンバーも撃たれました。保護区の資料によれば、1942年2月には詩人オレーナ・テリハと仲間たちがここで銃殺されています。
1942年には、谷のすぐそばにスィレツ収容所がつくられました(USHMMは1942年5月としています)。1943年8月、ドイツは収容所の囚人に遺体を掘り起こして焼かせました。ヤド・ヴァシェムによれば、9月29日、作業をさせられていた327人が反乱を起こして逃げようとし、生き延びたのは18人だけでした。
碑に刻まれなかった言葉
戦後、この場所の記憶は長く押さえ込まれました。保護区の資料によれば、キーウ市の執行委員会は1950年、谷を近くのれんが工場から出る土砂で埋める決定をしました。土砂は水と混ぜて谷に流し込まれましたが、1961年3月13日の朝、ためていた土砂の堤が決壊し、泥の波がふもとのクレニウカ地区を襲いました。政府の調査委員会の報告は、事故の地域で145人が亡くなったとしていますが、保護区の資料は、正確な犠牲者の数はいまでは確かめようがないと書いています。
記念碑が建ったのは、虐殺から35年後の1976年7月2日でした。保護区の資料によれば、碑の名は「バビン・ヤールでドイツ・ファシストに銃殺されたソビエト市民とソビエト軍の捕虜の兵士・将校への記念碑」です。USHMMは、碑文は約10万人の犠牲者に触れながら、その少なくとも3分の1が1941年9月に殺されたユダヤ人だったことを示していなかったと書いています。
ユダヤ人の犠牲を示す碑が立ったのは、1991年9月29日です。ウクライナが8月に独立を宣言した直後、虐殺から50年のこの日、ユダヤの七枝の燭台をかたどった記念碑「メノラー」が建てられました(USHMM、保護区の資料)。その後、OUNのメンバー、スィレツ収容所の囚人、病院の患者、殺された子どもたちなど、さまざまな犠牲者の記念碑が加わっています。
国の保護区に
独立後のウクライナは、この場所を国の管理のもとに置きました。内閣は2007年3月1日の決定第308号で、バビン・ヤールの一帯の記念物を「歴史記念保護区」とし、文化観光省の管轄に置きました。決定の前文は、その目的を「戦争と政治的弾圧の犠牲者の記憶を顕彰し、永く伝えるため」としています。2010年2月24日には、ヴィクトル・ユシチェンコ大統領の大統領令第258号で「国立」の地位が与えられ、「国立歴史記念保護区『バビン・ヤール』」と呼ばれることになりました。
2022年3月1日、谷のそばのテレビ塔へ
ロシアによる全面侵攻から6日目の2022年3月1日、ロシア軍はバビン・ヤールの一帯に隣接するキーウのテレビ塔をミサイルで攻撃しました。ウクライナ保安庁(SBU)が2025年8月7日に発表したところでは、ロシアの航空部隊が巡航ミサイルKh-101でテレビ塔を攻撃し、民間人5人が死亡、6人が負傷しました。SBUは、攻撃の準備と実行に関わったとしてロシア軍の将官と大佐の2人に、戦争犯罪(刑法第438条)の疑いを本人不在のまま通知しています。これは捜査の段階の「疑い」で、裁判で確定したものではありません。
ヤド・ヴァシェムは攻撃の当日、「バビ・ヤールのホロコーストの記念の場の近くへの、死者を出したロシアの攻撃」を強く非難する声明を出しました。声明は、国際社会に民間人の命と歴史の場を守るよう求め、ホロコーストの記憶を乱用し歪めることをやめるよう、あらためて呼びかけています。
歴史は正確に記憶されなければならない。その道徳的な教訓は、すべての者によって誠実に実行されなければならない。
ヤド・ヴァシェムの声明(2022年3月1日)から。英語からの訳
1941年の出来事と戦後のソ連の時代についてはソ連の共和国だった七十年と、その間の日本で、2022年以降の侵略の経過はウクライナの独立とロシアによる侵略の年表でも扱っています。
出典・参考資料
- Kyiv and Babyn Yar(1941年9月19日の占領、約16万人・約10万人・約6万人、爆発とその口実、アインザッツグルッペC・特別行動隊4a・ブローベル、報告の33,771人、1943年秋までの殺害と犠牲者の種類、1943年のソ連の調査の約10万人、スィレツ収容所〈1942年5月〉、1976年の記念碑の碑文、1991年9月29日のメノラー)
発行:United States Holocaust Memorial Museum(Holocaust Encyclopedia) 確認日:2026-09-24 - History of the Jews of Kiev: Holocaust and the Tragedy of Babi Yar(6万〜7万人、9月28日の告示、ヨム・キプル、補助警察と協力者、アインザッツグルッペC報告の33,771人、9月29日〜10月11日の5万人超、1941年9月27日の精神科病院の患者、11月の患者約300人、OUN、1943年9月29日の反乱〈327人・18人〉、総数7万〜10万人)
発行:Yad Vashem 確認日:2026-09-24 - Yad Vashem's Reaction to News of the Attack Endangering the Historical Site of the Babi Yar Massacre(2022年3月1日の声明)
発行:Yad Vashem 確認日:2026-09-24 - Історико-архітектурна довідка(2007年の保護区の設置、大半の研究者があげる10万〜15万人、1950年の埋め立ての決定、1961年3月13日の決壊と145人、1976年7月2日の記念碑の名称、1991年9月29日のメノラー、1942年2月のテリハらの銃殺〈1992年の十字架〉、各種の記念碑)
発行:Національний історико-меморіальний заповідник «Бабин Яр» 確認日:2026-09-24 - Постанова КМУ від 01.03.2007 № 308 «Про Державний історико-меморіальний заповідник "Бабин Яр"»
発行:Кабінет Міністрів України(zakon.rada.gov.ua) 確認日:2026-09-24 - Указ Президента України від 24.02.2010 № 258/2010 «Про надання державному історико-меморіальному заповіднику "Бабин Яр" статусу національного»
発行:Президент України(zakon.rada.gov.ua) 確認日:2026-09-24 - СБУ заочно повідомила про підозру генералу та полковнику армії рф, які командували ракетним ударом по Київській телевежі(2025年8月7日。2022年3月1日の攻撃、Kh-101、死者5人・負傷者6人、刑法第438条第2項の疑い)
発行:Служба безпеки України 確認日:2026-09-24
記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。