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文化・歴史/解説

ヘーチマン・マゼーパの22年と、元禄の日本

1687年にヘーチマンに選ばれたイヴァン・マゼーパは、1709年まで22年間ウクライナのコサックの国を率い、教会と学校に多くの寄進をしました。同じ年月、日本は元禄から宝永へ。生類憐みの令や赤穂事件と同じ年表に並べ、「裏切り者」という呼び名が誰のものだったかも見ていきます。

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オリュカのひとこと

マゼーパが率いた時代、日本ではどんな元号だったのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

1687年7月25日、イヴァン・マゼーパ(Іван Мазепа)がザポリッジャ軍のヘーチマン(コサックの首長)に選ばれました。在任は1709年まで、22年です。日本ではこの年が貞享4年で、翌年に元号が元禄に改まります。マゼーパの22年は、ほぼ五代将軍徳川綱吉の治世の後半と重なっています。

ここではマゼーパが何を建て、何を支え、どう終わったのかを、同じ年月の日本の出来事と一つの年表に並べます。二つの国の間に直接の行き来があったわけではありません。同じ時間の幅の中で、それぞれの場所で何が起きていたかを見比べるための年表です。

1687年、コロマク川のほとりの選出

マゼーパは、それまでヘーチマンだったイヴァン・サモイロヴィチのもとで、1682年から総オサウール(генеральний осавул。ヘーチマンを補佐する高位の役職)を務めていました。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』(以下、歴史研究所の事典。この項目は2009年刊)によれば、1687年のクリミア遠征が失敗すると、サモイロヴィチはモスクワのゴリツィン公の働きかけで退けられ、マゼーパが1687年7月25日、コロマク川のほとりの陣営でヘーチマンに選ばれました。

選出と同時に結ばれたのが「コロマク条項」です。歴史研究所の事典は、これをウクライナとロシアの関係を決め、ウクライナの主権を狭める大きな一歩になった文書と書いています。アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の『Internet Encyclopedia of Ukraine』(以下、IEU。この項目は2008年更新)も、ツァーリとの間の「不利な条項」と呼んでいます。

マゼーパという人

IEU によれば、マゼーパはキーウのモヒラ学院とワルシャワのイエズス会の学院で学び、ポーランド王ヤン2世カジミェシュの宮廷に仕えました。王の命で1656〜1659年にオランダのデーフェンテルで砲術を学び、ドイツ、イタリア、フランスも訪れています。その後、ヘーチマンのペトロ・ドロシェンコに仕え、捕らえられてサモイロヴィチのもとに移りました。

歴史研究所の事典は、マゼーパがウクライナ語、ポーランド語、ロシア語、ラテン語をよく使い、ドイツ語、イタリア語、タタール語、ある程度はフランス語も知っていたと書いています。楽器を弾き、詩を書き、武器や本、美術品を集めた人でもありました。

  1. オリュカ

    マゼーパが生まれた年は、資料によって同じなのかな。

  2. スウネ

    生まれた年は、この見出しの下で資料によって書き方が違うみたいだよ。

  3. タブリ

    亡くなった日も、この見出しの下で資料ごとに少しずれているよ。

生まれた年と、亡くなった日

マゼーパの生年と没した日は、資料によって書き方が違います。

  • IEU は、1639年3月20日にビーラ・ツェルクヴァ近くのマゼーピンツィで生まれ、1709年10月2日にベンデルで亡くなったと書いている
  • 歴史研究所の事典は、生年月日を「不明」とし、没日を新暦10月3日(旧暦9月22日)、「9月21日から22日にかけての夜」と書いている
  • ウクライナ国家記憶研究所は、2019年を「マゼーパの生誕380年」として記念行事を紹介しており、1639年の生まれとする立場をとっている。同じページには、1709年8月22日に亡くなったとも書かれている

生まれた年は、IEU と国家記憶研究所が1639年、歴史研究所の事典は年を示していません。亡くなった日は、10月2日(IEU)と10月3日(歴史研究所の事典の新暦)で1日ずれ、国家記憶研究所の8月22日はどちらとも違います。

教会と学校への寄進

歴史研究所の事典は、マゼーパがキーウを正教の都として立て直すことに力を注ぎ、キーウ、チェルニーヒウ、バトゥーリン、ペレヤスラウ、フルーヒウ、ザポリッジャのシーチなどで教会や建物の建設に多くの資金を出したと書いています。キーウ・ペチェールシク大修道院では、塔と門のある城壁、経済門の上の全聖人教会(IEU は1696〜1698年とする)を建て、生神女就寝大聖堂の丸屋根に金を貼りました。

学校では、マゼーパの後押しでキーウの学院がアカデミーとしての地位を公に認められ、新しい校舎が建てられました(歴史研究所の事典)。その経緯はキーウ・モヒラ・アカデミーの記事にあります。チェルニーヒウの学院の創設にも関わっています。

寄進はウクライナの外にも及びました。IEU によれば、マゼーパは1708年にシリアのアレッポでアラビア語の新約聖書の刊行に資金を出し、エルサレムの聖墳墓に聖骸布と純金の聖杯を贈っています。

年表:マゼーパの22年と、元禄・宝永の日本

年ヘーチマン国家とマゼーパ日本
———
1680年—徳川綱吉が5代将軍になる(延宝8年)
1687年7月25日、コロマク川のほとりでヘーチマンに選ばれ、コロマク条項を結ぶ貞享4年。正月に捨て子・捨て病人・捨て牛馬を厳しく禁じ、生類憐みの政策が強まったとするのが通説に近い
1688年—貞享5年9月30日、元禄に改元。井原西鶴『日本永代蔵』
1689年—松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出る
1696〜1698年キーウ・ペチェールシク大修道院の全聖人教会が、マゼーパの資金で建てられる元禄9〜11年
1700年ピョートル1世から聖アンドレイ勲章を受ける元禄13年
1701年—元禄14年3月14日、赤穂藩主浅野長矩が江戸城内で吉良義央に斬りつけ、即日切腹
1702年—元禄15年12月14日、旧赤穂藩士が吉良邸に討ち入る
1703年—元禄16年2月、討ち入った浪士たちが切腹
1704年右岸ウクライナに進み、ドニプロ川の両岸をヘーチマンの支配のもとに置く元禄17年3月13日、宝永に改元
1707年神聖ローマ帝国の諸侯(公)の称号を受ける宝永4年
1708年アレッポでアラビア語の新約聖書の刊行に資金を出す。10月、スウェーデン王カール12世の側に移る宝永5年
1709年3月28日、ウクライナ・スウェーデン条約。6月27日(新暦7月8日)、ポルタヴァの戦いに敗れる。秋、ベンデルで死去宝永6年、綱吉が死去。6代将軍家宣のもとで生類憐みの令が廃止される
ヘーチマン国家は IEU「Mazepa, Ivan」「Kyivan Cave Monastery」と、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所『ウクライナ史百科事典』第6巻「Мазепа Іван Степанович」(2009年)から。日本はコトバンク所収の『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)「生類憐みの令」「徳川綱吉」、『日本の元号がわかる事典』(講談社)「元禄」「宝永」、『山川 日本史小辞典 改訂新版』「赤穂事件」から(2026年9月確認)。ウクライナ側の月日は資料の書き方のまま、日本側の月日は和暦。「—」はこの記事で扱わなかった欄。

同じ「年」でも、暦が違う

年表の月日は、二つの国でそれぞれの暦のまま書いています。当時のヘーチマン国家やロシアはユリウス暦(旧暦)を使い、日本は太陰太陽暦の和暦を使っていました。たとえば元禄15年12月14日は、和暦の日付です。暦の違いと換算については、シーチが築かれてから壊されるまでの220年の記事でも触れています。

生類憐みの令について、『改訂新版 世界大百科事典』(塚本学執筆)は、この名前でまとめられた一つの法令があるわけではなく、始まりの年にも諸説があると書いています。年表の1687年の行は、同事典が「通説に近い」とする見方です。

1708年、スウェーデンの側へ

北方戦争のなかで、ピョートル1世はヘーチマン国家に兵と物資の負担を重ね、コサックの自治を狭めようとしていました。マゼーパは1706年からポーランド王スタニスワフ・レシチンスキ、そしてスウェーデン王カール12世と秘密の交渉を進め、1708年に反モスクワの同盟を結びます(IEU)。この経緯とポルタヴァの戦いの日付は、コサックの自治が終わるまでの記事とシーチが築かれてから壊されるまでの220年の記事で扱っています。

マゼーパが都のバトゥーリンを出た日は、歴史研究所の事典が1708年10月24日、国家記憶研究所が新暦11月5日(旧暦10月25日)と書いていて、1日ずれています。1709年3月28日には、マゼーパ、ザポリッジャのシーチの長コスト・ホルディイェンコ、カール12世が条約を結び、カール12世はウクライナとザポリッジャがモスクワの支配から解放されるまで講和しないと約束しました(IEU、歴史研究所の事典)。

バトゥーリンの破壊と、アナテマ

1708年11月、ピョートル1世の軍はヘーチマン国家の都バトゥーリンを攻め落とし、住民を殺害しました。国家記憶研究所は、この出来事を新暦11月13日(旧暦11月2日)とし、「さまざまな資料によれば」1万1千人から1万4千人が殺されたと書いています。IEU は住民6,000人が虐殺されたと書いていて、数は資料によって大きく違います。

同じころ、ピョートル1世の命令で、ロシア正教会はマゼーパにアナテマ(教会からの破門と呪い)を宣告しました(歴史研究所の事典、国家記憶研究所)。IEU は、ピョートル1世がマゼーパを「裏切り者」と断じ、ロシアとウクライナの教会にアナテマを命じたと書いています。国家記憶研究所は、このアナテマがいまもロシア正教会の礼拝の定めに残っていると書いています。国家記憶研究所は、ポルタヴァの戦いのあと、捕らえられたウクライナの人々が拷問され処刑されたとも書いています。

オリュカのひとこと

「裏切り者」という呼び方は、誰が使ってきた言葉なのでしょう。この見出しで確かめられます。

「裏切り者」という呼び名は、誰のものか

マゼーパはロシアで長く「裏切り者」と呼ばれてきました。この呼び名の出どころについて、資料は次のように書いています。

  • IEU は、ピョートル1世がマゼーパを裏切り者と断じたあと、ロシア帝国とソ連の宣伝者と歴史家が、マゼーパをおとしめることに全力を尽くしたと書いている。そのうえで、評価には議論があるものの、マゼーパはウクライナの独立の象徴であり続けてきたとする
  • 国家記憶研究所は2019年6月26日の発表で、ロシアにとってポルタヴァの戦いは、マゼーパを「裏切り者」とだけ描く神話をつくる軸になったと書き、ロシアの歴史叙述がマゼーパとウクライナの人々に「裏切り者」の烙印を押そうとしてきた、と説明している

この言葉は、1708年にマゼーパと戦った側がつけ、帝国の時代からソ連の時代まで使われてきた呼び名です。この記事は、ウクライナ側の事典と国の機関の書き方にならい、本文の評価の言葉としては使っていません。

一方で、マゼーパの名はヨーロッパで別の形でも広まりました。歴史研究所の事典は、ヴォルテール、バイロン、ユゴー、プーシキン、シェウチェンコらの文学、ジェリコーやドラクロワの絵、リストやチャイコフスキーの音楽がマゼーパを取り上げたと書いています。IEU は、若いマゼーパが荒馬に縛りつけられて追われたという伝説には事実の裏づけがないとしつつ、それが多くのロマン派の作品を生んだと書いています。

ベンデルでの死と、失われた墓

ポルタヴァの敗戦のあと、マゼーパはカール12世とともに、オスマン帝国の支配下にあったベンデル(いまのモルドバ)へ逃れ、1709年の秋にそこで亡くなりました。歴史研究所の事典によれば、はじめ近くのヴァルニツャ村の外れに葬られ、のちにガラツィ(いまのルーマニア)の聖ゲオルギイ修道院の教会に移されました。その教会は1950年代末から60年代初めに壊され、遺骨がいまどこにあるかは分かっていません。後を継いだピリプ・オルリクと、ベンデルで結ばれた取り決めについては、オルリクの「憲法」の記事で扱っています。

紙幣から硬貨へ

マゼーパの肖像は、ウクライナ国立銀行の10フリヴニャ紙幣の表に使われてきました。2006年の様式の紙幣では、裏面がキーウ・ペチェールシク大修道院の生神女就寝大聖堂です。国立銀行によれば、2003〜2007年の様式の10フリヴニャ紙幣は、2026年3月2日で支払いに使えなくなりました。いま出回っている10フリヴニャ硬貨(2018年の様式、2020年6月3日から流通)にも、裏面にマゼーパの肖像と「ІВАН МАЗЕПА」の文字があります。

出典と記事の記録出典 13件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Mazepa, Ivan1639年3月20日の生年、1709年10月2日ベンデルで死去、学歴とデーフェンテル、1682年の総オサウール、1687年7月25日の選出とコロマク条項、1704年の右岸、寄進とアレッポの新約聖書、1706年からの交渉、1709年3月28日の条約、バトゥーリンの6,000人、ピョートル1世による「裏切り者」の断定とアナテマ、帝国・ソ連の歴史家。執筆 Oleksander Ohloblyn、2008年更新
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所) 確認日:2026-09-26
  2. Kyivan Cave Monastery全聖人教会 1696〜98年、マゼーパの資金
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-26
  3. МАЗЕПА Іван Степанович生年月日不明、没日 3.10〔22.09〕.1709、1687年7月25日の選出、コロマク条項、1700年の聖アンドレイ勲章、1707年の神聖ローマ帝国の公、寄進、言語、1708年10月24日のバトゥーリン出発、1709年3月28日の条約、アナテマ、埋葬と墓の喪失、文学・美術・音楽。執筆 Станіславський В.В.、第6巻 2009年
    発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-26
  4. КИЄВО-ПЕЧЕРСЬКА ЛАВРАマゼーパの資金による城壁・全聖人教会・丸屋根の金箔。第4巻 2007年
    発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-26
  5. 1708 – російські війська спалили Батурин, знищивши всіх жителів新暦11月13日〔旧暦11月2日〕、1万1千〜1万4千人、新暦11月5日〔旧暦10月25日〕の出発、アナテマと礼拝の定め
    発行:Український інститут національної пам'яті 確認日:2026-09-26
  6. Руйнуючи імперські міфи: Інститут національної пам'яті презентує соціальний ролик про Гетьмана Мазепу2019年6月26日。生誕380年、「裏切り者」の神話、捕虜の処刑、8月22日の死去の記述
    発行:Український інститут національної пам'яті 確認日:2026-09-26
  7. 生類憐みの令(名称と始期の諸説、1687年正月の強化を通説に近いとする。執筆 塚本学)、徳川綱吉生没1646〜1709、1680年の将軍就任。執筆 辻達也
    発行:改訂新版 世界大百科事典(平凡社。コトバンク所収) 確認日:2026-09-26
  8. 徳川綱吉
    発行:改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書(コトバンク所収) 確認日:2026-09-26
  9. 元禄(1688年〔貞享5〕9月30日改元、西鶴『日本永代蔵』、芭蕉の出発)、宝永1704年〔元禄17〕3月13日改元、1709年の家宣による生類憐みの令の廃止
    発行:日本の元号がわかる事典(講談社。コトバンク所収) 確認日:2026-09-26
  10. 宝永
    発行:日本の元号がわかる事典(講談社。コトバンク所収) 確認日:2026-09-26
  11. 赤穂事件1701年3月14日の刃傷と即日切腹、1702年〔元禄15〕12月14日の討ち入り、翌年2月の切腹
    発行:山川 日本史小辞典 改訂新版・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収) 確認日:2026-09-26
  12. 10 гривень зразка 2006 року(表マゼーパ・裏 生神女就寝大聖堂)、2003〜2007年様式の10フリヴニャ紙幣が2026年3月2日から支払いに使えないこと
    発行:Національний банк України 確認日:2026-09-26
  13. 10 гривень зразка 2018 року2020年6月3日から流通、裏面にマゼーパと「ІВАН МАЗЕПА」
    発行:Національний банк України 確認日:2026-09-26

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