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文化・歴史/解説

ヘーチマンの力を縛る16か条。1710年、ピリプ・オルリクの「憲法」

1710年4月、ポルタヴァの敗戦で国を離れたコサックたちが、亡命先のベンデルで新しいヘーチマンとの取り決めを結びました。年3回の総会議、国庫と個人の収入の分離、役職の選挙。ウクライナで「ピリプ・オルリクの憲法」と呼ばれる文書の中身、2008年に見つかった原本、「ヨーロッパ最初の憲法」という評価の出どころを見ていきます。

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オリュカのひとこと

亡命先で結ばれた取り決めは、いま「憲法」と呼ばれています。中身を最初の見出しから読んでみましょう。

1710年4月、ドニステル川のほとりのベンデルで、新しいヘーチマン(コサックの首長)に選ばれたピリプ・オルリクが、将校たちとコサックの軍団との間で一つの取り決めを結びました。ヘーチマンは自分だけで決めず、年に3回開く会議にはかること。軍の財布とヘーチマン個人の収入を分けること。役職は選挙で選ぶこと。ウクライナでは「ピリプ・オルリクの憲法」「ベンデル憲法」と呼ばれてきた文書です。

この文書は、ウクライナの国の外で、国を失った人々によって書かれました。どんな状況で結ばれ、何を定め、どこに残っているのか。そして「ヨーロッパ最初の憲法」という評判がどこから来ているのかを見ていきます。

ポルタヴァの敗戦から、ベンデルへ

1708年、ヘーチマンのイヴァン・マゼーパはスウェーデン王カール12世と結んでモスクワに背き、1709年のポルタヴァの戦いで敗れました。この経緯はコサックの自治が終わるまでの記事で、戦いの日付の書き方はシーチが築かれてから壊されるまでの220年で扱っています。マゼーパとカール12世は、当時オスマン帝国の要塞があったベンデルへ逃れます。『Internet Encyclopedia of Ukraine』(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS発行。以下 IEU)の「ベンデル」の項目によれば、マゼーパは1709年にベンデル近くの村ヴァルニツャで亡くなりました。ベンデルは、いまのモルドバにある町です(ルーマニア語ではティギナ)。

マゼーパの後を継いでヘーチマンに選ばれたのが、ピリプ・オルリク(Пилип Орлик)です。IEU によれば、オルリクは1672年、いまのベラルーシにあたるリトアニア大公国の村に生まれ、ヴィリニュスのイエズス会の学校と、キーウのモヒラ・コレギウム(キーウ・モヒラ・アカデミー)で学びました。マゼーパのもとで総書記官(ヘーチマン政府の文書局の長)を務め、スウェーデンやポーランドとの秘密の交渉を支えた、マゼーパの最側近でした。

  1. オリュカ

    文書の日付は、なぜ二通りに書かれているのかな。

  2. タブリ

    旧暦と新暦の日付が、この見出しの下で見比べられるよ。

  3. スウネ

    この見出しの下で、文書によって暦の書き方がそろっていないようだよ。

日付は「4月5日」と「4月16日」

文書の日付は、二通りに書かれます。ラテン語の正式な題名の末尾には「主の年1710年、4月5日、ベンデルにて」とあります。これは当時ウクライナで使われていたユリウス暦(旧暦)の日付で、いまの暦(グレゴリオ暦)に直すと4月16日です。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』は「16(5)квітня 1710」と両方を併記し、IEU は新暦の1710年4月16日と書いています。オルリクがヘーチマンに選ばれたのも同じ日です。

「憲法」ではなく「協定と取り決め」

文書の題名は、ラテン語で「Pacta et Constitutiones Legum Libertatumque Exercitus Zaporoviensis」、つまり「ザポリッジャ軍の法と自由に関する協定と取り決め」です。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』(以下、歴史研究所の事典)(この項目の執筆はタラス・チュフリブ)は、ここでの「pacta」は「協定・約束・条件」、「constitutiones」(複数形)は「決定・法令」を意味し、当時のポーランド・リトアニア共和国では議会(セイム)の決定を「コンスティトゥツィヤ」と呼んでいた、と説明しています。

IEU(執筆はオレスト・サブテルニー、1984年)も、この題名は、ポーランドの貴族が新しく選んだ国王と結んだ「パクタ・コンヴェンタ」(即位の際の約束)にならったものだと書いています。選ばれた首長が、自分を選んだ人々に対して、守るべき条件を誓う。文書の形は、近代の憲法よりも、この伝統に近いものでした。

  1. オリュカ

    条文には、どんなことがまとめられているのかな。

  2. タブリ

    条文はいくつかのまとまりに分けて、この見出しの下の表にあるよ。

  3. スウネ

    前文の言葉づかいの説明も、この見出しの下にあるよ。

16か条に書かれたこと

文書は、前文、16の条文、新しいヘーチマンの誓いからなります。IEU は16か条を四つのまとまりに分けて説明しています。歴史研究所の事典の記述も合わせて表にしました。

条文中身
第1〜3条正教を守り、キーウの府主教座をコンスタンティノープル総主教のもとに戻す。ウクライナの境界と、領土の一体性をスウェーデン王が保証する。クリミア・ハン国との友好
第4〜5条ザポリッジャのシーチの領域と権利。トラフテムィリウの修道院をザポリッジャのコサックに与える
第6〜10条ヘーチマンの権限の制限。将校、連隊長、各連隊から選ばれた代表が集まる総会議を、クリスマス、復活祭、生神女庇護祭の年3回開く。刑事の裁判は総軍事裁判所へ。軍の財布(国庫)はヘーチマン個人の収入と分ける。連隊長などの役職は自由な投票で選ぶ
第11〜16条コサックの寡婦と孤児の保護。キーウなどの都市が持つマクデブルク法の特権の維持。町人、商人、農民の権利。雇い兵の部隊、交易と税
IEU「Bendery, Constitution of」(1984年)と、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所『ウクライナ史百科事典』の「Пакти та конституції законів і вольностей Війська Запорозького 1710」をもとに要約。

前文は、コサックの歴史をたどったうえで、モスクワの支配から離れ、スウェーデン王の保護を受ける理由を述べています。歴史研究所の事典によれば、ラテン語の本文では「祖国」という語が40回使われ、「ウクライナ」「ウクライナの」は7回出てきます。首都について「ルーシの首都キーウと、ウクライナのほかの町」という言い方もしています。

第6条は、それまでのヘーチマンたちが合議の慣習を破って「限りない権力」をふるい、そのために将校や民衆が苦しんだと書き、その反省から総会議の仕組みを定めています。第9条は、ヘーチマンが国庫の収入を自分のために使ってはならず、ヘーチマンの職に付いた領地の収入で暮らすよう定めました。

原本は、どこに残っているか

歴史研究所の事典によれば、この文書は四つの形で伝わっています。ラテン語の本文と、その要約版。そして古いウクライナ語の本文が二つです。

  • ラテン語の本文(前文)の写本と、ラテン語の要約版は、スウェーデン国立公文書館(ストックホルム)の「Cosacica」の文書群にあり、その写しがキーウのウクライナ中央国立歴史公文書館にある
  • 古いウクライナ語の本文の、18世紀半ばの写しが、モスクワのロシア国立古文書館にある
  • オルリクの署名とザポリッジャ軍の印のある古いウクライナ語の原本は、1792年に元ザポリッジャのコサックからサンクトペテルブルクに渡され、いまはモスクワのロシア国立古文書館にある。2008年の末にキーウの公文書館の研究者たちがこれを見つけ、2010年に初めて刊行した

ウクライナ国家記憶研究所も、2008年にウクライナの研究者がロシア国立古文書館で古いウクライナ語の原本を見つけたこと、カール12世がオルリクの選出を認めた文書の原本も同じ場所にあることを紹介しています。歴史研究所の事典によれば、カール12世は1710年5月10日(新暦21日)に「ウクライナの保護者」としてこの取り決めを承認しました。

実際には、どこまで行われたのか

取り決めが想定していたのは、ロシアとポーランドの支配からウクライナを取り戻したあとの国の姿でした。IEU によれば、オルリクは1711年にクリミア・ハンと条約を結び、1711〜1714年に右岸ウクライナでロシアに対する遠征を行いましたが、失敗に終わります。オルリクは1714年にスウェーデンへ移り、その後はヨーロッパ各地を転々として、1742年にモルドヴァ公国のヤシで亡くなりました。

歴史研究所の事典は、取り決めの実施は国際情勢と戦争のために限られたとしつつ、1711年と1713年の遠征のあいだ、右岸ウクライナの一部で地元の住民がオルリクの権威を認め、規定が部分的に働いたと書いています。国全体の仕組みとして動いたことはありません。

オリュカのひとこと

「ヨーロッパ最初の憲法」という評価は、どこから出てきたのでしょう。この見出しで確かめられます。

「ヨーロッパ最初の憲法」という評価

この文書は、ウクライナでしばしば「ヨーロッパで最初の憲法の一つ」と紹介されます。ただ、その言い方の強さは、誰が言っているかで違います。

  • IEU の「憲法」の項目は、これを「ウクライナの歴史で最初の憲法的な文書」と書いている。ヨーロッパの中での順位には触れていない
  • 最高会議の広報は2018年4月5日の記事で、「ウクライナの歴史家の評価によれば、近代のヨーロッパで最初の憲法の一つである」と書いている
  • ウクライナ国家記憶研究所は、歴史家ヴォロディーミル・ザムリンシキーの「ヨーロッパで初めて、自由で独立した国の現実のモデルがつくられた」という評価を紹介する一方、歴史家ナタリヤ・ヤコヴェンコの見方も並べている。ヤコヴェンコは、この取り決めを「ウクライナ国家の最初の憲法」と読むのは新しい意味を持ち込むことで、作った人々はポーランド・リトアニア共和国で伝統的な「約束の条項」として考えていた、と書いている

「ヨーロッパ最初の憲法」と言い切れる一次資料は、この記事では確認できていません。確かなのは、選ばれたヘーチマンの権限を、将校と軍団の総会議、裁判所、国庫の仕組みで縛ろうとした文書が、1710年に書かれたということです。ヤコヴェンコも、コサックの国が初めて、ヘーチマンと「コサックの民」の権利と義務の分け方を形のある文書にした点で、大きな出来事だったと評価しています。

出典と記事の記録出典 9件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Bendery, Constitution of1710年4月16日、題名とパクタ・コンヴェンタ、16か条の四つのまとまり、カール12世の承認。執筆 Orest Subtelny、初出 Encyclopedia of Ukraine vol.1, 1984
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所) 確認日:2026-09-24
  2. Orlyk, Pylyp生没、学歴、総書記官、1710年4月16日の選出、1711年の条約、1711〜14年の遠征、亡命、1742年ヤシで死去。2026年更新
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  3. Benderyいまのモルドバ、ティギナ、1709年のマゼーパの死。初出1984
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  4. Constitution「ウクライナの歴史で最初の憲法的な文書」。2001年更新
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  5. ПАКТИ ТА КОНСТИТУЦІЇ ЗАКОНІВ І ВОЛЬНОСТЕЙ ВІЙСЬКА ЗАПОРОЗЬКОГО 1710執筆 Чухліб Т.В。日付、題名、語の意味、四つの本文と所蔵、2008年の原本の発見と2010年の刊行、条文の中身、語の使用回数、部分的な実施、カール12世の承認
    発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-24
  6. ОРЛИК Пилип生没の新旧暦、総書記官の年、1710年4月16(5)日の選出。Т.7, 2010
    発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-24
  7. БЕНДЕРСЬКА КОНСТИТУЦІЯ 1710 р.Т.1, 2003。16(05)квіт. 1710
    発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-24
  8. 1710 – ухвалено Конституцію Пилипа Орликаザムリンシキーとヤコヴェンコの評価、2008年の原本の発見、カール12世の承認文書
    発行:Український інститут національної пам'яті 確認日:2026-09-24
  9. «5 квітня 1710 р. була прийнята перша Конституція Пилипа Орлика…» – Андрій Парубій2018年4月5日。「近代のヨーロッパで最初の憲法の一つ」という評価の紹介
    発行:Верховна Рада України(広報) 確認日:2026-09-24

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